02:2月6日(金) (3)
スマートフォンでブラウザを開く。検索ボックスに「ドッペルゲンガー」と文字を打ち込もうとすると、途中で予測機能に言葉が現れた。それを押して検索をかける。途端に検索結果がずらりと画面に並んだ。一番上に出て来たページを開く。
ドッペルゲンガー。自分とそっくりの姿をした分身。同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象。自分がもうひとりの自分を見る現象。言葉自体はドイツ語なのか、などと新たに得た知識に妙に感心したりしながら、千草は口を開いた。
「色々、聞きたいんだけど……まずドッペルゲンガーってさ、見たら死んだり、する?」
その質問に、ゆったりと紅茶を口に含んでいた相手は目を見開いた。返事をしようとして、噎せた後、涙目になりながら首を勢い良く横に振る。そうして落ち着いてから、
「……俺を見たら死ぬって言われてるの?」
逆に千草へ問いかけてきた。
もう一人の自分を見たら死ぬ。ネットで得た知識によればドッペルゲンガーという存在はそう囁かれ恐れられてきたようだが、違うらしい。ドッペルゲンガーに出会ったからと言って、それを理由に千草が謎の死を迎えるということはないようだ。
「じゃあ、そもそも幻覚で、その人にしか見えないっていうのは? これも嘘?」
ドッペルゲンガーは困ったように首を傾げた。マグカップをテーブルへ置いて、手のひらを顔にかざす。
「他の人にも見えているみたいだから、幻覚ではないと思う……。俺は、触れた人間の容姿、知識、身体能力をコピーできる。データは一人分までストックできて、触れるたびにそれが切り替わっていく。それくらいしか自分のことは知らない」
そう言って口を噤む。千草は紅茶を口に含んだ。香りを舌の上で転がす。あからさまに表へは出さなかったが、内心驚いていた。見た目だけでなく声も同じで、さらに知識や身体能力までコピーできるとは。ドッペリゲンガーは先ほどから一人称も「俺」を用いていたし、口調も自身とほとんど変わらないように思う。元の人間と入れ替わったとしても本当に周りは分からないかもしれない。いや、ドッペルゲンガーは今「容姿、知識、身体能力をコピーできる」という限定的な言い方をした。「すべて」ではない。さすがに目の前の人間の心を読んだり、完璧に模倣したりということはできないのかもしれない。ならば本物に成り代わった存在に、実の親くらいは気づくだろうか。気づけるだろうか。
「……あの」
千草が言葉を口にしないまま考えを巡らせていると、小さな声で、ドッペルゲンガーが口火を切った。
「服、ありがとう。……あのまま夜までいたら、警察とかに声をかけられていたと思う」
千草のものであるパーカーの袖をぎゅっと握りながら言う。その動作に、千草はソファに置かれている紙袋を見遣った。中にはセーラー服一式が収められている。少女の代名詞とも成り得るセーラー服を、明らかに男性と分かる人物が着用していれば警察官も職務質問したくなるというものだろう。いや、寧ろ関わりたくないという願望を抱くかもしれないが、市民の安全を守るという義務感から気力を振り絞るに違いない。自身(正確には、自身の姿をしたドッペルゲンガーだが)のセーラー服姿を思い返して、げんなりすると同時に架空の警察官へ同情を抱く。しかし、そこで別の箇所が気にかかって想像を掻き消した。
「……夜まで?」
向かい合った自分の顔が頷く。
「帰る家が、ないから」
ドッペルゲンガーは唇をほとんど動かさないで言った。
「帰る家がない?」
千草は鸚鵡返しにその言葉を繰り返す。
ドッペルゲンガーという生き物──種族?──は、人間社会に紛れて生きているのではないのだろうか。家族全員がドッペルゲンガーの一家? いや、そもそもどうやって繁殖するのか。家族という概念を持っているのだろうか。はたまた、気付かれないように人間の一人とすり替わって暮らしているのか? 疑問が次々と頭に浮かぶ。
「一年くらい、ある家にいて。そこでは大体いつも同じ姿で」
同じ姿、とは千草とドッペルゲンガーが出会ったときの少女のことだろうか。深い青色のスカーフがついたセーラー服は少女にあつらえたように似合っていた。
「俺は──私は、姿を変えられる存在として囲われていた。外には自由に出られなかった。お嬢様の代わりがいつでも出来るように」
ぽつりぽつりと、独白のごとくドッペルゲンガーは語る。千草は相槌も打たずに、ただドッペルゲンガーの息を吸う挙動さえも見落とさないというようにそれを見ていた。
「でも、私は、」
パーカーを手のひらに握りこむと、皺がより大きくなる。ドッペルゲンガーの顔は伏せられていて、その表情は読み取れない。しかしその声音は感情を読む取るのに十二分だった。搾り出すような声が拳へ落ちる。にんげんに、と聞こえた。
「……人間に生まれたかった」
それは、千草が一度も思ったことのない感情だった。
「《代わり》でも《誰か》でもなくて、《私》になりたかった……」
消え入りそうな声で吐き出されたのは、誰にでもなれるだろうドッペルゲンガーの告白だった。
千草はそれに共感できなかった。この世に産み落とされてから十七年間の人生でずっと人間・井々城千草をやって来た自分には、ドッペルゲンガーの心情を分かったつもりはできても真に理解することはできないように思えた。ドッペルゲンガーだって千草の同情を求めている訳ではないだろう。思いは溢れてしまっただけで、聞かせる相手を必要としているようには見えなかった。
「だから、今まで居たところを飛び出した。……監視の目をかい潜って出てきたから、帰るところも行く先もない」
しばらくの沈黙のあと、唐突にドッペルゲンガーは顔を上げた。目元には涙を溜めた跡があった。しかし、どこかすっきりとした、晴れがましい顔つきをしていた。よっぽどこれまでの生活が苦だったらしい。
「まあでも、逃げ出せたのは第一歩。この服、必ず返すから……もう少し貸してくれる?」
この服装なら制服より怪しくないはず。昨日の夜は、ひたすらに人目を避けたから大変だったんだ。
ドッペルゲンガーは切り替えたように軽い口調でそう言って、立ち上がった。パーカーの裾をはらって整える。たしかに制服姿の少女が深夜に一人で歩き回っていたら誰でも気にかかるだろう。家出娘だと思われて警察のお世話になってもおかしくなさそうだ。ただ男の千草の姿でも同年代であることに変わりはなく、深夜に街を徘徊していれば補導されてしまう。
気がつけば千草の紅茶は冷め切っており、ドッペルゲンガーの砂糖のたっぷり入った紅茶は飲み干されていた。
「人間じゃないことがばれたのは初めてじゃないけど、叫ばなくて、しかも親切にまでしてくれたのはあなたが二人目。……ありがとう」
ドッペルゲンガーは微笑んだ。それはお礼の言葉であり、同時に別れの言葉でもあった。紙袋を手に取り、さらに空いた手をマグカップへと伸ばす。
千草はその手首をぱしり、と掴んだ。自身の右手で左手首を掴んだような感覚。親指と中指の先を合わせて輪を作ると、それがちょうど手首の太さだ。
少女の見目をしたドッペルゲンガーに初めて触れた時に聞こえた、かしゃん、という軽い音はしなかった。秒針が時を刻む音さえしない居間には、静寂がじわりと広がっていく。
唇を薄く開いて、驚いた様子のドッペルゲンガーが千草の顔を見る。目と目がかっちりと合う。母似だとよく言われる目が千草を見る。自分の瞳の中に自分の瞳が写りこんでいるのは奇妙な感じがした。合わせ鏡の中に入り込んでしまったような錯覚を一瞬覚える。
「あっ」
ドッペルゲンガーは焦ったように言う。
「あなたに迷惑はかけないように、気をつける。もう接触する相手の性別は気にしなくて良いし、早めに次の人間に切り替わって、またすぐに……」
千草は首を横に振った。口を開く。
「帰る家がないなら、しばらく家に居ればいい」
掴んだ手をゆっくりとテーブルへ下ろす。
「さっきも言ったけど、母はしばらく家を空けてるし、父は仕事でわりと帰りが遅い。ここを出ても宛てはないんだろ。なら、これからどうするのか、考える間だけでも居ればいいよ」
その言葉を何度か噛み砕いて、意味がようやく伝わったのか。ドッペルゲンガーは焦燥からきょとんとした表情へ変わったかと思うと、再び眉尻を下げた。泣きたいのか笑いたいのか、混ざり合って分からない顔をする。
自分もこんな顔をしている時があるのだろうか。頭の片隅でぼんやりとそう思いながら、千草はドッペルゲンガーの感謝の言葉を受け止めていた。