02:2月6日(金) (2)
歩道橋の上を乾いた風が通り過ぎていった。少しずつ夜が忍び寄ってきているためか、心なしか気温が下がったように感じる。
千草は身震いをした。それが寒さによるものかどうかは自分でも分からなかった。
先ほどまで少女がいた位置に立っていたのは、千草と全く同じ顔、同じ体格をしている男子だった。違うところと言えばその服装と、茫然自失としている千草に対して、狼狽した表情をしていた。
俺はおかしくなったのだろうか、と千草は考える。思考がどこか麻痺しているようだ。事態を客観的に見つめようとしても真実から膜一枚を隔てたところで回り続けていて、いつまで経っても肝心なところへ辿り着けないような感じがする。先ほどから、目の前の少女が突然に自分の姿に変わったことよりも、特別細身でも小柄でもない男の自分がセーラー服姿でいることが気になって仕方がなかった。万歳をしたら確実に腹が公衆の面前に晒されるだろうし、そもそも顔立ちと服装が合っていない。スポーティーかつボーイッシュな女子に見せかけることも、女装男子として開き直ることも出来そうになかった。男子がふざけて女物の服を着てみたら案外可愛かった、なんていうのはきっと二次元かアイドルに限った話だ。少なくとも千草の場合は、
「……アウトだろ……」
思わず呟く。
千草の発声に、相手は驚くほど動揺を見せた。それは内容がどうと言うより、千草と関わってしまったことで気が動転しているといった風だった。
これは自身の幻覚で、少女はただ倒れそうになっただけかもしれない。少女の姿が自身のそれに見えるという異常事態は、決して相手の外見が変わったということではなく千草の問題で、相手がどうしたら良いか分からないといった表情をしているのは、千種が硬直したまま何も言わないからかもしれない。
せめて何かを言おうとした千草を遮るように、相手が足を一歩踏み出した。そしてそのまま、もう一歩も前へ出す。ふらつきながらも、その場から走り去ろうとする動きだった。今度は千草が慌てる。
「待っ、」
て、と言い切る前に、伸ばした手がたやすく相手を捕まえてしまう。手首を掴まれた状態で、相手は抵抗しようとはしなかった。
「あの」
千草は言いよどむ。喉が張り付いたような感じがしてうまく声が出ない。なぜ自分と同じ姿形に見えるのかなどと、我ながらおかしな質問だと思った。
相手が振り返る。千草の顔のまま、どこか泣き出しそうな表情をしていた。
沈黙だけが流れる。その隙間を埋めるように車の走行音が耳についた。しばらく黙っていた相手が、囁くように唇を動かした。
「……俺はドッペルゲンガーだ」
「ドッペル、ゲンガー?」
「そう」
頷く様子も、その声も千草のそれと同じだった。
ドッペルゲンガー。聞いたことはあるような気がするが、片仮名が滑っていくばかりで頭の中に入っていかない。
相手は──千草の形をしたドッペルゲンガーは続けた。
「俺は触れた人間の姿をとることができる」
「って事は人間じゃないのか……?」
千草の問いに、ドッペルゲンガーは答えなかった。ただ目の奥に翳りが差したように感じられた。
沈黙はおそらく肯定と同義だ。千草はそう判断して、それ以上は追求せずに考えを巡らす。
目の前の相手が本当にドッペルゲンガーという存在だとして、触れた人間の姿をとれるというのならば、自分が幻覚を見ているというわけではないらしい。ということは、今歩道橋に誰かがやって来たら同じ見た目の人間が二人いるのを目撃するということだ。二人の服装がそっくりそのままでも双子として注目されるだろうが、今ドッペルゲンガーの服装はセーラー服である。ぎょっとした視線を向けられることは間違いない。サイアクの場合変質者として通報されることが考えられる。学校祭で許されたとしてもTPOというものがある。
「……触った人間になれるなら、さっきの少女の姿に戻ってくれないか。俺の姿でその格好はまずい」
世間体を気にしながら千草が言う。と、ドッペルゲンガーは静かに首を左右へ振った。
「もうストックがないから……新しく別の人間と接触しないと姿は変えられない」
そう返すドッペルゲンガーは、妙に申し訳なさそうな様子だった。
好きなときに好きなように姿を変えられるわけではないらしい。理解した千草がどうしたものかと頭を悩ませ始めたところ、タイミング悪く、人の話し声が聞こえてきた。それが少しずつ近づいてくるのが分かる。どうやら複数人が歩道橋を上ってきているらしい。このままここにいてはその人達と鉢合わせすることになる。千草は慌ててリュックサックを肩から下ろす。
「ちょっと持ってて」
リュックサックをドッペルゲンガーへ預け、続いてダッフルコートを脱ぎにかかる。脱ぎ終わるとそれをリュックサックと交換した。千草は学ランの上にリュックサックを背負った姿になる。
「それ、上に着て。フードをかぶれば少しは誤魔化せる気がする」
ドッペルゲンガーは戸惑いながらも、言われるがままに千草の黒いコートを羽織った。フードをかぶり、ボタンも全て留める。コートの丈はそう長くないのでスカートの裾とタイツは見えてしまうが、顔が少しフードの陰に隠れた。セーラー服姿を晒すよりは良いのではないかという考えだった。千草はドッペルゲンガーがコートを着終えたことを確認すると、
「──行こう」
その腕を引いて走り出す。全力疾走というほどではないが、歩道橋を上ってきた人間に追いつかれないよう小走りではあった。階段に差し掛かると、足が落ちるたびにカンカンカンと金属質な音が響く。
「行くって、どこへ?」
ドッペルゲンガーが問う。早くも息が上がりそうな様子だった。
「とりあえず、俺の家」
千草は短く答える。掴んだ腕は温かく、未知の存在への恐怖は全く感じなかった。
十五分ほど経って、千草とドッペルゲンガーはある家の前まで辿り着いた。一軒家ばかりが並ぶ閑静な住宅街だった。二十数年前にまとめて開拓された地域で、歴史ある日本家屋や特徴的な家などは見当たらない。
「……?」
二階建ての家の表札を見て、ドッペルゲンガーは微かに眉を顰めた。それに気づいた千草が家の鍵を取り出しながら読み方を説明してやる。
「いいしろ、だよ。井々城千草が俺の名前。一人っ子だから両親の三人暮らし」
かちゃり、と鍵が開いた。
「ああでも、母は今日から祖母のところに行ってるし、父は飲み会で帰り遅いって言ってたから心配しなくて良い」
扉を開けて、千草はドッペルゲンガーを自宅へ招き入れた。ドッペルゲンガーはそれでも心配そうに、同時に物珍しそうに周囲を見回して家へ入る。玄関からフローリングの廊下を通り、居間へと入る。
居間は細長く、対面キッチンの傍にダイニングテーブル、そこから少し離れた位置にテレビ、ローテーブル、ソファが置いてある。当然のことながら人はいない。千草はドッペルゲンガーへソファに座っているよう言った。ドッペルゲンガーは所在なさげに、浅くソファへと腰掛ける。一応は座ったのを見届けて、千草は二階の自室へと向かった。
階段を上りきって、廊下の一番奥の扉を押す。そのままクローゼットを開け、中に詰まれた衣装ケースへと手を伸ばした。蓋を開けて、手前にあった服を引っ張り出してぱっと学ランから着替える。さらにジーンズにTシャツ、パーカーと、適当に服一式を見繕った。それらは全てドッペルゲンガーに着せる予定の服だ。体格は自分と同じだろうし、似合うかどうか、着られるかどうか悩まなくとも良いはずだった。服を全て放り込んだ紙袋を持って、居間へと戻る。
「はい」
千草はそれをそのまま、ドッペルゲンガーへ差し出した。ドッペルゲンガーはソファに沈んだまま千草を見上げ、きょとんとした目をする。なぜ家に連れて来られたのか、なぜ服を差し出されたのか分かっていない様子であった。千草は言葉を補足する必要性を感じながら、ひとまずは袋をドッペルゲンガーの手に握らせる。
「俺の服貸すから、いったんそれに着替えて。着てた制服はそのまま紙袋に。……他の人間に接触するにしても、その格好のままじゃ不審者扱いされるだろうから」
そう言うと、ドッペルゲンガーは目を伏せて自身の服装を確認した。女子学生向けのセーラー服。千草の言葉を理解したらしく、ソファに座ったまま上着を脱ぎ始める。両腕を上げて脱ごうとするものの腕や肩が引っかかってスムーズに脱げないのか、もそもそと上半身を動かす。大丈夫だろうか、と千草はそれを注視しかけて、自身と同じ見た目の人物の着替えを見ているというのもおかしい気がして足を返した。
台所に立つ。対面キッチンになっているのでシンクの奥にはドッペルゲンガーの姿が見える。サイズの小さい服であまりにも脱ぎにくいようなら声をかけてくるだろう。視界の隅にドッペルゲンガーを留めながら、千種はやかんに水を入れ、ガスにかけた。湯が湧くのを気長に待つ間に、ティーポットと茶葉の入った缶を用意する。やがて、しゅんしゅんしゅん、と音を立てながら、やかんから湯気が流れ出始める。
ティーポットに茶葉を入れ、少しの間蒸らす。マグカップ二つと、念のため砂糖を居間のローテーブルへと持って行った。千草はドッペルゲンガーの前に座り、紅茶を入れたマグカップを差し出す。ドッペルゲンガーはマグカップと千草へ視線をさ迷わせた挙句、「ありがとう」と礼を述べてマグカップを手に取った。千草は自分のカップへ口をつけながら、ドッペルゲンガーを観察する。
服装が変わった今、ドッペルゲンガーは、何から何まで千草にそっくりだった。目の前に姿見を置いたかのようだ。父親がこのタイミングで帰ってきたならば、本物とドッペルゲンガーが「自分が千草だ」と声高に主張しあう光景が繰り広げられるかもしれない。咄嗟にドッペルゲンガーを家へと連れて来てしまったが、父の帰宅は遅いはずだったし、ここでは他の誰の目も気にする必要がない。
ドッペルゲンガーという存在について、何もかもが分かった訳ではない。ただ未知の存在への恐怖は全く感じなかった。寧ろ、相手の方が戸惑っているように見える。紅茶にも口をつけていなかった。千草のペースに巻き込まれて、よく分からないままにここまで来てしまったという感じである。
千草はまた紅茶を口に含んだ。アールグレイの香りがいっぱいに広がる。どうしたものか、ドッペルゲンガー自身はどうしたいのかという疑問が紅茶の中へ溶けていく。
「砂糖、必要だったらどうぞ」
粉砂糖の入った瓶をドッペルゲンガーへ勧めてみる。千草は紅茶にもコーヒーにも何も入れないが、姿の同じドッペルゲンガーでも好みは違うかもしれないと思ってのことだった。すると、ドッペルゲンガーは砂糖瓶へ手を伸ばしてティースプーンに砂糖を盛る。スプーンをマグカップの上で傾けると、さらさらさら、と瞬く間に砂糖がマグカップの中へ消えていった。続いて、山盛りの砂糖をもう一杯。二杯。三杯。……ドッペルゲンガーは、合計四杯の砂糖を紅茶に入れ、それを念入りにかき回していた。千草から見れば信じがたい砂糖の量だった。溶け切らなかった分が底の方で溜まっているに違いない。
マグカップの中身を回して白い湯気を立ち上らせ、さらにそれを息で吹いて、十分に熱を取ったと思ったのか。ドッペルゲンガーはゆっくりとマグカップに口をつけた。そして、ほう、と一息ついたように表情を和らげる。歩道橋で接触してから初めて見せる柔らかい顔で、千草もつられるようにして口角を上げた。