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02:2月6日(金) (1)


   1



 金曜日の夕方は、仕事や学業がやっと終わったという気だるさと、翌日からは休日だという解放感を孕みながら、ゆったりと流れていく。

 空は薄曇りの状態だが、雨や雪の類が降ってくる気配はない。雲があることでかえってここ数日より気温が高いのか、道を行く人の歩調も心なし緩んで見える。さすがにコートを羽織らなければ寒く感じるが、思わず首や肩を縮こまらせるほどではない。


 日暮れまではあと一時間ほどあるだろうか。駅前通りは立ち並ぶ店の明かりに仄明るく染まってきていた。バレンタインデーを控えて、店のディスプレイはどこも赤を基調とした装飾の多いものになっている。人々に様々な思いも浮かばせながらも、基本的に街は浮き足立つような雰囲気を漂わせていた。


 駅前通りを行く人々はやがて信号に引っかかって立ち止まる。この辺りは車の通行量が多いので歩車分離式の信号や歩道橋が多く設置されている。

 現在、信号は赤を示していた。新たな歩行者が現れては、信号待ちの集団に加わっていく。

 その中で、若い女性の二人組が取り留めのない会話を交わしていた。友人同士での買い物の帰りだろうか、店のロゴの入った紙袋が揺れる。


「ねえ、ドッペルゲンガーって知ってる?」


 女性の片方がスマートフォンの画面に指先をつい、と滑らせながら言う。


「何それ?」


 問われたもう片方は怪訝そうな声音で、質問に質問を返した。


「えっと、あたしもよく分かってないけど。自分と全く同じ見た目の人らしいよ。服とか化粧とかそういう話じゃなくて、顔も声も」

「ふぅん……」

「見たら死ぬんだって」

「え、それ会っちゃったらもう終わりってこと?」


 二人はそれぞれ前方を見つめていた。「止まれ」を示す信号機の端には、あとどれくらいで青色の表示になるのか、カウントダウン方式で示すライトがつけられている。少しずつ数の減っていくライトを視界の端に留めながら、会話は続く。


「でもね、見てよ。これ」


 女性はスマートフォンを相手に差し出した。スマートフォンを受け取った相手は、画面に映る文をそのまま読み上げる。


「『拡散希望、ドッペルゲンガーを探しています』……? 何これ」 

「見たら死んじゃうのに、どうやって見つけるっていうんだろうね?」

「そもそも都市伝説みたいなものじゃないの?」


 訝しむ女性に、もう一人が口を開く。

 信号が青に変わった。立ち止まっていた歩行者の集団が一斉に歩き出す。

 二人組の他愛ない会話は、溢れる人の中へ埋もれていく。


「今日の晩ご飯、何がいい?」

「あーやっと金曜だ……」

「どうせ明日もバイトだよ」

「もしもし? うん、そう。今、駅を出たとこ」


 次から次へと湧き上がる声は他者の声の上に積み上がり、溢れて、後方へと流れていく。それを気にする人もいない。


 会社員達が飲みに行く算段を立てている。

 主婦が買い物袋を持ち直す。

 若い男女が仲睦まじげに腕を組む。

 塾帰りと思しき小学生たちが横断歩道の白線だけを選んで渡っていく。

 一人の少女が、濃紺のセーラー服を翻して駆けていった。



 ***



 押し出した呼気が途端に白く染まるのを見て、ああ、冬だな、と、今さらながらにそんな感想を抱いた。体内と外気の温度差で真っ白になった息は、風に乗って流れていく。


 井々城(いいしろ)千草(ちぐさ)は歩道橋の上で欄干にもたれかかり、過ぎ去っていく車を見るともなしに見ていた。待ち合わせなど、ここにいなければならない事情がある訳ではない。下校時に単なる気まぐれを起こしただけのことだ。千草は雑踏に消えゆく人の後ろ姿や、目眩く勢いで走り去る車を俯瞰するのがそこそこ好きだった。


 手すりに手のひらをつけたまま腕を伸ばす。それによって肩からずり落ちたリュックサックを元の位置に戻した。

 千草は黒いダッフルコートを着込み、カジュアルなデザインのリュックサックを背負っていた。コートの下は同じく黒色の学生服である。詰襟の、いわゆる学ランというものだ。襟の校章はここからJRで三十分ほど揺られたところにある共学制高校を示していた。千草はそこの二年生だった。と言っても、あと一ヶ月ほどで二年次を修了し、三年生に進級する。


「…………、」


 再び唇の隙間から息を零し、ふとコートのポケットからスマートフォンを取り出す。本体を金属ケースで包んでいるために指先へひやりとした感覚が忍び寄る。最早慣れたことなのでさほど気にせず、画面を点灯させた。それは現在時刻を確認するための行為だったのだが、メールが一件届いているのに気がつく。


 また迷惑メールだろうか、と眉に皺を寄せながらメールアプリを開く。どこにもメールアドレスを提供していないはずなのに、ここ最近迷惑メールが頻繁に届くのだった。貴方に一千万円を寄付したいのです、なんてあからさまに怪しい文面、引っかかる奴がいるのかと毎回首を傾げる。

 幸いにも、メールの差出人は知った相手だった。


『お鍋にカレー作っておいたよ。行ってきます。よろしくね』


 末尾に可愛らしい絵文字の付された、母親からのメールである。今日の夕方から数日の間、母が家を空けることは大分以前から知らされていた。千草も高校生であり最低限の家事はこなせるし、毎日仕事のある父親も了承済みのことだ。ただ母がこうして出発を知らせる連絡を送ってきたので、既知の内容だと置いておくようなことはせずに千草もメールを返すこととする。


『りょーかい。行ってらっしゃい』


 指を滑らせてボタンを押すと、ひゅいん、と独特な音がして、あっという間にメールが送信された。一度「了解」と漢字で入力していたものを砕けた文面に直したところは、やはり母親の血を引いているのだなと改めて思う。


 返信を終えてスマートフォンをポケットへと戻し、千草は欄干から手を離した。そろそろ素直に帰宅しようとスニーカーの爪先の向きを変える。


 そこで後方から、


「──はぁっ……」


 勢い良く階段を駆け上がる音が聞こえたかと思うと、続いて、肺から思いきり息を吐き出すような、荒い呼吸が現れる。千草が思わず首を回すと、そこには膝に手をつけて上半身を折り、肩で息をする人影があった。

 自分で階段を一気に上ったせいだとは思うが、あまりにも辛そうなので目を離せなくなる。


 セーラー服姿の少女だった。少女、と言っても年齢は千草と同じくらいだろう。二月だというのに制服の上には何も羽織っておらず、しかし激しい運動をした直後だからだろうか、全く寒そうではなかった。セーラー服は青みがかった黒一色で、スカーフは深海を思わせる深い青色をしていた。スカートは切られることも腰のところで折り返されることもされていないらしく、膝の隠れる丈である。その下からは黒いタイツに包まれた足が伸び、ローファーへと収まっていた。千草の見たことのない制服だった、少なくとも近隣の学校のものではない。緩く着崩されたとは決して言いがたいその着こなしと自身が目にしたことがないという理由から、私立の女子高ではないかと千草は推測する。


 と、少女がおもむろに顔を上げた。かなり長さのある髪が流れ、その下の両目が露わになる。少女と目が合ったように感じて、千草の心臓が小さく跳ねた。不躾な視線を向けていたのに気づかれて咎められるかもしれない。しかしその心配は杞憂に過ぎず、相手の方は気にした様子もなく呼吸を整えていた。

 その場で慌てて立ち去るというのも何となく憚られて、千草は欄干へと手を戻す。


 現れた少女は、驚くほど透明な目をしていた。


 そう感じた。それは日本人らしからぬ色合いであった、という意味ではない。少女の髪も瞳も濡羽色をしているのが、歩道橋の端と中心という距離を以ってしても分かった。ではなぜ透明などと思ったのか。問われたところで千草自身にも上手く説明はできなかっただろう。

 世の中の何も知らなさそうな。あるいは、全てを既に知っていそうな。善も悪も、酸いも甘いも知った上でそれでも純真に微笑むことができそうな。長ったらしく言葉を尽くして形容するならばそんなところか。


 彼女はうつくしく微笑むのだろうな。


 「美しい」などと、普段は国語の授業でしか使わないような言葉を自然に脳裏に浮かべた。クラスの男子達による「雨夜の品定め」ならぬ「放課後の品定め」もその場で相槌を打っているくらいで、異性の話題には基本的に乗ってこない千草がそんな形容詞を用いたと知れば、前の席に座る友人などは目を丸くするに違いなかった。

 しかし思い浮かべこそしたものの、さすがに舌には乗せなかった。初対面の女性を突然賛美するなんて新手のナンパを実践する気は毛頭ない。


 少女はようやく落ち着いたようで、歩道橋を渡りきろうと歩み始めたところだった。改めて外見に目を向ければ、少女はコートを着ていないどころか鞄の一つも持っていなかった。両手は完全に開かれていて財布も携帯電話も見当たらない。スカートのポケットにでも収まっているのか。


 少女はゆっくりとした、心もとない足取りで進んでいく。そんなにも体力を消耗するのならば階段ダッシュなどしなければ良かったのに、と千草がつい思ってしまうほどである。千草の真横を通りしな、ぐらり。少女の体が傾いた。


「……え」


 千草の目が思わず見開かれる。

 少女が抵抗もなくコンクリートへ向かっていくのを見て、咄嗟に手を伸ばした。千草の腕が差し込まれ、少女を片側から抱えこむような形になる。少女が倒れてしまうのは回避できたようだ。その瞬間。


──かしゃん。


 プラスチック製の何かが落ちたような音がした。それは微かなものだったが、その発生源があまりにも千草の近くであったために、鼓膜が捉えざるを得なかった音だった。人を急に支えた衝撃で何かを落としてしまったのかと、そう思ったのも束の間のことである。


「大丈夫ですか」


 千草がそのままの体勢で声をかけると、少女は肩をぴくりと震わせた。意識はあるようだ。昏倒して救急車を呼ぶような事態にならなくて良かったと、千草はほっとしながら少女を直立の姿勢へ戻してやる。少女の正面へ回りこんで、そして、絶句した。


 千草は目の前の人物をよく知っていた。いや、つい先刻まで、話しかけたことどころか見かけたこともなかったのだが。それが今、完全に既知の存在となっていた。


 少女の、背中の半ばまであった黒髪は短くなり、疲労に消え入りそうだった肩は幅を増し、驚くほどに透明であった瞳は凡庸な色に変わっていた。


 少女が──いや、千草が、千草を、見つめていた。


 自身と全く同じ見た目をした人物がそこにはいた。


 ただし、濃紺のセーラー服姿で。


 理解できない。と言うよりは、脳が理解を拒否している。

 千草は混乱の中で、自身のセーラー服姿を見るという気持ち悪さについて思いを馳せた。学校祭でも女装は拒否してきたのに、などと、思わず場違いな言葉が零れ落ちそうだった。



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