07:4月30日(土)
1
降り注ぐ日差しが眩しい。薄闇に慣れたこの目では、太陽を直視すれば焼けついてしまうような気さえする。
今週も、定刻に使いの者がやって来た。急かされて小さな部屋から出て、通い慣れた建物へと向かう。
足元で小石の擦れる音がする。それ以外は風で木々がそよぐ音しか聞こえない。気まぐれな春の風が、長さのある黒髪の毛先を戯れに掬っては広げていく。
先を行くスーツ姿の男──明行が振り向かずに声を放った。
「透子お嬢様が目を覚ました。ちょうど六日前だ」
「……え」
思わず口から零れ出た声は、久々に発した声でもあった。
ドッペルゲンガー──ここしばらく千尋とは呼ばれていない──は勢いよく顔を上げる。
本当に、と問おうとして声が掠れた。咳を何度か繰り返す。
「だって……二年前のは、嘘だったのに」
「ああ」
明行は低い声で続けた。
「あれは私の嘘だ……二年前、あの状態でお前に行方をくらまされる訳にはいかなかった。あの時のことに、透子お嬢様は何も関わっていない」
千尋がここを逃れ、千草のもとに滞在し、再び戻ってきてからニ年になる。明行に連れられて向かった先では、透子が変わらずに眠っていた。傍らでは機械が状態観察を続けていた。最早聞きなれた機械音を耳にしながら透子の手に触れ、千尋はその姿をストックし、見た目を変えた。
それからの生活は逃げ出す前と変わらなかった。一週間に一度透子の手に触れ、それ以外はほとんど何もない部屋で過ごす。二年の間で数回、透子の姿で着飾って、婚約者と会食したりパーティーのようなものに出席したりした。
「今度のことが本当かは、その目で見れば分かるだろう……。約束として、お嬢様と二人で話す機会を設ける」
低く聞き取り辛い声で明行が言う頃には、二人は部屋の前まで辿り着いていた。
明行は扉を開け、千尋へ中を指し示す。中に入るつもりはないようだった。千尋が入室し、音もなく扉が閉められる。
部屋の中には音がなかった。
白いカーテンが風に揺れていた。ふわり、広がったカーテンが収まって、大きな窓の下に人影が浮かび上がる。
ベッドの上で身体を起こしている少女がいた。
千尋が一週間前にこの部屋を訪れたときは、人形のように眠り続ける姿があったのだが。
今は生きた人間として、気配に反応し、目線を動かす存在があった。
透子と千尋の目が合った瞬間、透子はほっとしたように目元を和らげた。ずっと眠り続けていた影響だろうか、彼女はベッドから動けないようだった。千尋は一歩ずつ踏みしめるようにして透子へ近づいていく。
千尋は唇を開いた。何か言葉を口にしようと思った、それを留めるようにして透子は言う。
「あのね、さっき明行に聞いたのだけれど……二年前、私の十六の誕生日の前に、あなたはここを出て行って……、なのに、明行に連れ戻されたんですって。……ごめんなさい」
零される言葉に申し訳なさが強く滲んでいた。
「私はあなたと対等な友達のつもりでいたけれど、周りはそうじゃなかった。私が眠り続けている間ずっと、あなたは苦しい思いをしていたんでしょう?」
透子は左手を持ち上げた。
長いこと管からの栄養で保っていた身体は痩せていた。白すぎると言えるほどに白くなってしまっている。これまで千尋が透子の姿をストックするために触れてきた左手は、ふらふらと力なく落ち着く先を求めていた。
千尋は床へ膝をついた。両手で透子の左手を包み込む。
双子よりも互いによく似た、黒髪の少女二人の視線が改めて噛み合う。透子の目は、病み上がりとは思えないほどに強い意思を覗かせていた。
「……、」
千尋は目を閉じる。透子の目から逃れるようにと言うよりは、瞼の裏へ大切に仕舞いこむような仕草だった。そして透子の手から自身の手を離し、足首へ持っていく。ずっとつけていたミサンガへ触れた。
かしゃん、と軽い音がした。
瞼を上げれば、視界に収まる自分の手足は、井々城千草のものに変わっていた。黒髪の、高校二年生のときの姿に。
透子は両目を瞬かせた。透子の知らない人間の姿である。
「この姿が……ここを一度出て行ったときに、私がお世話になった人」
「私に、千尋という名前をくれた人」
「……ちひろ」
透子は呟くように言った。
「そう。千尋。良い名前ね」
その名を何度も繰り返して舌へ馴染ませる。
「ねえ、今触れてもいないのに姿を変えたのはどうやったの?」
首を傾けた透子に、千尋は服の袖を捲くって見せた。手首から肘の先へ向かって、マッキーで千草のフルネームとメールアドレス、電話番号が記してあった。
千草は自身の腕にマッキーで書き込みをした状態で、髪の毛をミサンガへ仕込んでいたのだった。別れの日に渡された青いミサンガは単なる記念品ではなく、千尋だけに分かるように連絡先を控えたものだったのだ。
透子は驚いた様子ながらも、事情を聞いて頷いた。
「あなたは、その人から姿も名前も―沢山のものを貰ったのね。私も今度は、あなたに何かあげられるかしら……」
千尋のミサンガを見遣り、自身の髪へ触れる。背中の中ほどまである髪は、癖もなくさらりと伸びている。透子はその髪を見て、何か思い当たったのか、ゆっくりと微笑んだ。
「私もあなたに、姿と……自由ならあげられる。ねえ、千尋。どうか、これからは自分のために生きて」
一際強い風が吹き込んで、カーテンをふわりと膨らませる。白いカーテンは二人を包み込んで、シルエットを柔らかく浮かび上がらせた。
2
送信者:Toko<toko_06@az.co.jp>
件名:初めまして。透子です
本文:
井々城千草さん
はじめまして。透子といいます。
私のことを、明行から
聞いたでしょうか。
私は先週、睡眠状態から目覚めて
今日はじめてドッペルゲンガーのあの子…
千尋に会いました。
私が眠っている間ずっと、
あの子は閉じ込められて、
必要なときに
私の代わりをしてくれていました。
あの子を私のもとから解放しました。
私の妹ということにして、
あの子の戸籍を作ります。
生活費も毎月振り込まれるように
手配します。
あとはあの子の自由だけれど、
あの子はあなたのところに
向かうかもしれません。
そのときはどうか、
あの子のことをよろしくお願いします。
私が言うのも変だけれど。
あなたなら、
会ったことのない私の信頼にも、
応えてくれそうな気がして。
…なんてすみません、勝手ですね。
でも、あの子はあなたのところに
行ったらいいなと思うし、
そのときはどうか、
あの子にまた良くしてやってほしいと、
思うのです。
こんな囁きのような言葉は、
書き出したらきりがないので
そろそろやめておきますね。
もし何かあったら、
このアドレスに返信をください。
よろしくお願いします。
それでは。
透子
3
届いていたメールを何気なく開き、いてもたってもいられなくなって立ち上がった。
午後から食料品の買出しにでも行こうかと、思いを巡らせている矢先だった。1DKの中でスマートフォンを抱えたまま右往左往する。ジャケットを羽織り、財布と鍵をポケットへ詰め込んで、千草はアパートを飛び出した。
「──はっ……」
自転車を漕いで駅へと向かう。
今日が休日で良かった、と強く思った。
平日であったなら、授業中に気が気でなかったかもしれない。
ペダルを意識的に速く回す。息が切れてくるが、逸る気持ちには及ばない。
駅の窓口へ飛び込んで、新幹線の自由席の当日券を購入した。お釣りを受け取るのも忘れかけるほど焦っていて、新幹線が来るまで時間があるのに気付いて苦笑する。
ドッペルゲンガーと──千尋と出会い、別れてから、二年が経った。
それから音沙汰は全くなかった。
先ほど届いたメールが、千尋に関連する初めてのものだった。あまりメールらしくない文面を三度読み返した。
二年の間に、千草を取り巻く環境もだいぶ変わった。高校二年生の終わり頃であったのが、大学一年生になり、真新しい日々を繰り返し、無事単位を取得して進級が決まった。親元を離れて一人暮らしを始め、基本的なことを自分でやる生活にも慣れた。
千尋を見つけ出そうと、見つけ出してやろうと思い続けているうちに二年が経った。
千草は新幹線に乗り込む。今住んでいる地域から、実家のある街までは一時間ほどかかる。
地元の駅に着いて、まばらに人の行き交う中をすり抜けて行く。高校生活で毎日通った、慣れた駅だ。
ポケットからスマートフォンを取り出す。新着メールは入っていない。
自由になった千尋が、どこへ向かうかは分からない。
そもそも自分と会いたがっているかも分からない。
それでも、気持ちが急いて足が動いていた。
歩道橋を駆け上がる。一段飛ばしで上へ向かう。角を曲がって直線へ入り、手すりから手を剥がして顔を上げた。
「……はぁ……」
喉が焼けつく。身体は水分を欲しているが、先に何かを買いにいこうとは思わなかった。
一気に階段を駆け上がったことで視界が滲む中で、目を凝らした。
歩道橋の欄干に手をついている少女がいた。
風で黒髪が広がって、表情が見えない。千草はゆっくりと足を踏み出して呼吸を整えた。
「……見つけた」
囁くように言うと、少女がゆっくりと振り返る。
「千草」
満面の笑みを浮かべる少女──千尋に、千草もまた口角を上げた。
ストレプトカーパスの零し言、了
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
千草のクラスメイト、浅川葱生の話は
「ほおずきの宿あやかし見聞録」にてお読みいただけます。
ほかに、少しだけ千草が出てくる短編「飢水の六」と
森遥のささやかな短編「はるかかなたの水中話」を近日中に転載予定です。