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06:2月15日(日)


   1


 目が覚めた。

 カーテンは開けられていて、そこから穏やかな日差しが注がれている。


 千草(ちぐさ)は上半身を起こして布団を剥いだ。部屋にあるデジタル時計を見る。午前十時を過ぎていた。

 昨夜、眠りについた記憶がなかった。いつ寝て、一体何時間眠っていたのだろう。


 千尋(ちひろ)の布団は既に畳まれていた。

 千草は寝起きの服装のまま部屋を出る。裸足の裏にフローリングの冷たさを感じる。音を立てず階段を下り、ゆっくりと居間の扉を押した。


「おはよう」


 声の在処を探せば、ソファのところに千尋がいた。


「……おはよう」


 まだ去っていなかった。内心胸をなで下ろしながら挨拶を返す。


 千尋は今日、家を出て行くと言っていた。出て行った後でどうするのかは聞いていない。これまでいたところを逃げ出してきて、その後千草の家に滞在していたのだから、頼れるような人がいるとは考えづらい。そもそも戸籍も住居も持たないドッペルゲンガーは、人間社会の中で人間のように生きていくのは難しいように思えた。


 その辺りを千尋はどう考えているのか。ここまで家に置いてきた以上、出て行ったとしても千尋のことをそう簡単に忘れることはできないだろう。


「千尋、まだ行かないだろ?」


 あえて否定形で尋ねると、千尋は頷いた。何も言わず勝手に出て行くことはないと結論づけて、シャワーを浴びることにする。全身を洗いさっぱりとさせて、洗面所の鏡の前に立つ。服を着込み、タオルで髪の水分を拭きとっていたところでインターホンが鳴った。


 何だろう、と思いながら千草は居間へ向かう。宅配便が届くという話は聞いていなかったが。


 様子を見に行くと、居間のインターホンの前に千尋が佇んでいた。先ほどの穏やかな顔とは打って変わって考え込むような険しい表情をしている。千草も画面を覗き込んだ。


 画面を凝視しているのは、スーツ姿の男だった。年は二十代後半くらいだろうか、髪もスーツもぴっしりと整えられている。眼鏡の奥の目は鋭く細められていた。見たことのない顔だったが、宅配業者ではなさそうだ。柔和とは言いがたい顔つきは訪問販売に来たとも思えない。父の職場の人だろうか。


 千草がインターホンに出ることを躊躇っていると、千尋が服の裾を引く。


「……この人、知ってる。明行(あきゆき)っていう、」


 その声音は、怯えているとまでは言わないが、ややぎこちなかった。


「あきゆき?」


 千草が繰り返すと、千尋は頷いた。


「私が、仲良くしていたお嬢様の使用人。お嬢様が一年前、事故に遭って目を覚まさなくなってから、私をお嬢様の《代わり》にしてた人」


 それは、千尋が嫌がっていたことをずっと強いていた人だということだろうか。

 俯いた千草に、千尋は慌てたとも言える様子で言葉を加えた。


「あのね、《代わり》と言ってもばれないように時々で、基本的には一人でいたんだけど……お嬢様の十六歳の誕生日が近くて、婚約者と会う日が近づいてきてたから逃げ出したの。本人がずっと眠ったままなのに、私が婚約者と会い続けるなんて無理だと思って……」


 そうしてお嬢様の元を逃げ出してきて、千草に出会ったということだ。千草に会ってから、千尋はほとんどを千草の姿で、さらに人目のつかない家の中で過ごしてきた。


 千尋が逃亡した後、その後は探され続けていたのだろうか。だとしたら、お嬢様の姿のままであったならまだしも、この明行という男はどうやって千尋のことを見つけたのか。いや、まだ捜索段階の可能性もある。この訪問が確証のないものだとすれば誤魔化すことも十分に可能だろう。


 再び、インターホンが鳴った。


「出てくれる?」


 千尋が静かに言う。混乱に陥っている訳ではないようだったので、千草はゆっくりと指を伸ばす。「通話」と書かれたボタンに触れると、外と繋がる音がした。


「はい」

「こんにちは。私明行と申しますが、井々城千草さんでいらっしゃいますか?」

「……はい」


 父や母が一番に応対する可能性もあったはずであるのに、相手はいきなり名指しをして来た。もしかしたら両親が家を離れていることも知っているのかもしれない、とどんどん不安な方向へ想像が膨らむ。

 男──明行は淡々とした口調で続けた。


「単刀直入に申し上げますが……」


 千草の目をぴたりと見据えるように、モニターの画面を見る。


「そちらでドッペルゲンガーを預かってくださっていますね。その件で井々城さんにお話をさせていただきたいのですが」


 確証のない、どころではなく。


 鎌をかけているのでなければ、明行は調査によってドッペルゲンガーの、千尋の居場所を突き止めた上で家まで尋ねてきたようだった。外で声をかけて来たならその場で脱兎のごとく立ち去ることもできるだろうが、家はこれ以上逃げ場がない。しらを切ってみるか。千草は千尋を横目に見て、唾を飲み込む。


 家を出て、今後千尋がどのような生活を送ろうとしているのか千草は知らない。それでもお嬢様のところから一度逃げてきた以上、もう戻りたくないと感じているのなら出来るかぎりのことをしてあげたいと思った。

 沈黙に、明行が画面の向こうで怪訝そうな顔をする。


「井々城さん?」


 その問いに応えたのは、千草ではなく千尋だった。


「ああ、すみません。今起きたばっかりなので、もうちょっと後で来てくれませんか。ドッペルゲンガーは、今俺の横にいます」

「なるほど。それは失礼しました。ではお昼過ぎ……十三時頃、再度伺っても?」

「はい」

「ありがとうございます。一度失礼しますね」


 明行は滑らかに一礼して、画面の外へ消えて行った。一時までは三時間ほどある。駅前辺りででも暇を潰すのだろうか。


 訪問者のいなくなった居間で、千草は千尋に向き直った。


「千尋」


 呼びかけると、千尋は薄く微笑んだ。


 インターホンというものは、訪ねた側から家の中の様子を窺うことができない。相手の顔を見るのは一方向の機能だ。明行はきっと全ての発言を千草がしたものだと思っていることだろう。しかしその実は、千草と全く同じ声を持つ千尋による発言だった。千尋自身が「家にドッペルゲンガーがいる」と言ってしまった。明行にどんな意図があって訪ねて来たのかは分からないが、今後誤魔化しは聞かないに違いない。


「今後どうしたら良いか、考えたんだけど答が出なくて。ずっと千草のところにお世話になっている訳にはいかないし、私には身分証明書も戸籍もない。逃げ続けている以上、お嬢様の周りの人間は私を探し続ける。お嬢様が眠ったままだっていう事情を知っているから。……明行がどんな話をして来るか分からないけれど、一度しっかりと向き合ってみるべきだなって、千草を見て思った」

「……そう。分かった」


 千草は頷いた。頷くほかない。


 それが千尋の本心ではなかったとして、本当は明行も無視して自由に暮らしていきたかったのだとして、今の千草にはどうしてあげることもできなかった。高校生の自分には財力も権力もない。両親に相談したところで戸惑うだけだろう。

 あまりに慣れすぎていたが、千尋はドッペルゲンガー──人間とは生まれも身体機能も違う存在なのである。中身が人間になりたがっていたとしても、人間と違いを感じないような振る舞いをしていても。


 目を閉じる。


 明行が再び尋ねてくるまで、三時間ある。

 今、千尋が逃走を図ってもすぐに見つけられてしまうだろうし、千尋自身もそれは考えていないはずだ。


 ……さて。


 では今自分に出来ることは何だろう。

 思考を巡らせ、この後の行動を決めて千草は目を開けた。


 固定電話の受話器を取り上げ、登録されている電話番号を呼び出す。コール音が続く。一回。二回。三回。ぷつ、という音とともに電話が繋がった。


「もしもし、お母さん? ああいや、大した用じゃないんだけど……。前にさ、ミサンガ作るのにはまってたよね。あれの材料とテキストってどこに仕舞ったの? え? ああうん、ちょっとね。……ありがと」


 不思議そうにしている千尋の視線を感じながら千草は電話を切った。

 続いて、手にしたマッキーの蓋を取る。きゅぽん、と子気味良い音がして、それを構えた。





   2


 居間の食卓テーブルに明行が座る。その向かい側には千草、そして千草の隣に千尋が着いた。


 生活感溢れる空間に、ダークスーツを隙なく着込んだ明行は浮いて見えた。彼もまた、千草とそっくりでありながら髪色が金である千尋を見て驚いたようだった。表情の読み取れなかった目を見開く。しかしすぐに気を持ち直したようで平静に戻った。


「井々城さん。改めまして」


 明行は懐から名刺を取り出し、千草へ差し出した。


「明行と申します」


 その名刺は非常にシンプルで、明行のフルネームと電話番号だけが記されていた。企業や役職といったものは一切載っていない。


「私の仕える透子(とうこ)お嬢様の、友人であるドッペルゲンガーを預かっていただきありがとうございました。ご連絡もなしに、唐突に迎えに上がることになってしまい申し訳ありません」


 預かる。

 千尋が自分の意思で逃げ出してきて千草の元に滞在していたことを、別の視点から言えばそういうことになるらしい。千草から考えるとかなり都合の良い解釈に感じるが。


 千草が言葉を返さないのに構わず明行は続ける。


「透子お嬢様は一年ほど前に事故に遭い、以来ずっと睡眠状態にありました。……しかし、つい先日、目を覚ましたのです。透子お嬢様は落ち着かれて、ドッペルゲンガーに会うことを望んでいます」


 明行はここで初めて千尋を見た。


「そのため、私はドッペルゲンガーを迎えに来ました。」


 千尋はこれまでずっと他人事であるかのように反応を示さないでいたが、


「……目覚めた……?」


 明行の言葉に衝撃を受けていたようだった。問いと言うよりは独り言のように呟く。


 千尋はお嬢様と友人関係にあったという。それがお嬢様が動けなくなったことで、姿を変えられるという性質のために、お嬢様の《代わり》とされた。お嬢様と呼ばれる少女は上流階級の娘なのか、何なのか──目覚めない状態にあることを公開できなかったようだ。その事情のせいで千尋がお嬢様の姿であり続け、ついには嫌気が差すところまで来てしまったのだろう。


 けれど、目覚めたというのならば。


 千尋とお嬢様は以前の関係に戻れるかもしれない。千尋は住む場所や《代わり》であることに悩まされずに済むのではないか。逃げ出す要因を作ったのはどうやらお嬢様の使用人達で、お嬢様自身は信頼できる人物であるようだから。


「車を近くにとめてあります。差し支えなければそのまま向かいましょう」

「……、」


 千尋は俯いたままだった。顔を伏せているので何を考えているのか分からない。千草も無言でそれを見守る。


「……行きます」


 千尋は顔を上げ、目線を明行にしっかりと合わせて頷いた。その答を受けて、善は急げとばかりに明行は立ち上がる。


「あの」


 千草は慌てて明行を引き止めた。


「明行さん。一つ約束してください」

「何でしょう」

「そのお嬢様と、千尋が話し合う場をきちんと設けてください。お嬢様は千尋のことを考えてくれる人なんでしょう」


 明行は千尋の方を一瞥した。ドッペルゲンガーという種族名と、千尋という固有名が繋がったようだった。目の奥に興味の色を覗かせる。


「……分かりました。約束しましょう」


 その約束という言葉をどこまで信用していいのかは分からない。それでも声をかけざるを得なかったのだった。


 玄関へと向かう明行の背中を千草はただ見つめた。





 自宅の前に、黒く艶めく車が停まっていた。見るからに高級車だった。通りがかる人がいなくて良かった、と千草は思う。住宅街に不釣合いな車は注目を浴びていたことだろう。


「千草」


 車の後部座席の扉を開けた状態で、千尋は振り返る。手にはセーラー服の入った紙袋を提げていた。始めに出会った時に着用していたセーラー服である。


「ありがとう、色々。学校に行って、パンケーキも食べて、花も見れた。楽しかった。……それから、名前も。大切にする」

「うん」


 言いながら、千尋はポケットに触れてみせる。そこには先ほど渡したミサンガが入っている。


 千草は先ほど、明行が来るまでの時間で青色のミサンガを二本編み上げた。刺繍糸を三本編んだだけの簡単なものだ。その一つを千尋へ渡し、もう一つは千草が自分で持っている。目立たない足首につけるよう伝えていた。

 ミサンガの存在をポケット越しに確認し、千尋は顔を上げた。二人の視線がかっちりと噛み合う。


「あの、ね。生きていくために、自分だけの目標を見つけるようにしてみて。私が《人間になりたい》と思ったように」


 それは、自分自身を生きるための。ドッペルゲンガーによる提案だった。

 千草はゆっくりと頷く。素直に実践できるかは分からなかったが、


「……千尋。また」


 握りこんで強張った手をゆっくりと開き、別れの形にする。千尋は両目を見開いて、一拍後、ゆっくりと微笑んだ。心から嬉しそうでありながら、同時に、今にも泣き出しそうにも見えた。


 車のドアが閉められる。


 後部座席の窓は黒く塗られていた。千草がどれだけ覗き込もうとも、自分の顔が映りこむばかりで中の様子は分からない。


 運転席に座った明行が会釈をする。直後、車は滑り出るようにして走り出した。

 千草は、車が角を曲がって見えなくなるまで見つめていた。


 千尋は「また」と言わなかった。


 今後千尋がどう生きていくか、千草とまた会えるかは分からない。ただ九日間をともに過ごしたドッペルゲンガーがどうか幸せに生きたら良いなと、思う。


 出会った日の、千尋の告白を思い出す。


「《代わり》でも《誰か》でもなくて、《私》になりたかった……」


 消え入りそうな声だった。誰にでもなれるからこそ、《誰か》ではありたくないドッペルゲンガーの嘆きだった。


「……立派に、《私》だったと思うよ。千尋」


 唇を小さく動かして紡いだ言葉は、澄んだ青空へ向かって溶けていった。




次の07で完結です。

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