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05:2月14日(土) (2)

   2


 タタン、タタン、と、軽快な音が流れていく。JRは滑るようにして走っていく。

 車内は平日の朝夕ほど混んでいなかった。それでも念のため、他の人間にいつ接触してしまっても大丈夫なように、千草(ちぐさ)千尋(ちひろ)は並んで吊革に掴まっていた。


 千尋は慣れないJRに、それでも挙動不審にならないように千草を観察して行動しているようだった。


 最寄り駅から二駅ほど。快速列車は止まらない駅で降りる。


 駅構内に掲げられた看板に従って歩き、着いた先は植物園だった。

 入口で数百円を支払って、二人は園内へと足を踏み入れる。花壇にはさすがに花が咲いていなかった。入園チケットとともに渡されたパンフレットによれば、暖かい時期には三万株もの花が咲き誇っているのを見られるようだ。


「こっちかな」


 千草は呟く。千尋を見遣れば、薔薇園の方向やパンフレット、あちこちへ目線をやってふらふらとしていた。苦笑して軽く手を引く。


 まるでドームのような、一面ガラス張りの大きな建物へ向かった。

 扉をくぐる。今が冬で、ここが日本とは思えないほど暖かな空気が頬を撫ぜた。


「……わあ」


 千尋が感嘆の声を上げた。

 温室の中は、鮮やかな色彩に溢れていた。瑞々しい緑がほとんどを占めているが、一言に緑と言っても、陽の光を吸い込んでいそうな明るい黄緑や、しっとりとした深緑など、微妙に色合いは異なっている。その中に、白や赤色をした花が浮き立っている。大ぶりのものから、小さく密集したもの、これは花の部分かと疑いたくなるような見慣れない形のもの。温かい地域に咲く花を集めているのか、名前が分からないものが多い。


 両側に花の咲き乱れる通路を、足取り軽く、千尋は進んでいく。千草はその後ろをゆっくりとついて行く。


「あった」


 嬉しそうに千尋が呟いた。

 千草が追いついて屈んでみれば、そこには小さな葉が密集した中に、花がいくつもついている植物があった。青紫色の花だ。らっぱの形に伸びた花は、花びらが五つに分かれている。


「ストレプトカーパス」


 唇を小さく動かす。

 千草には馴染みのない花だったが、ふと千尋に初めて会った時に着ていた、セーラー服を連想した。濃紺の生地に青色のスカーフのついたセーラー服だった。そんなことを考えていると、こちらを見た千尋と目が合う。千尋は緩やかに微笑んだ。


「見て。これ」


 地面に立ててある札を指差す。


「ストレプトカーパスの花言葉。主張、真実、信頼に応える」


 札には学名や原産地のほかに、花言葉が示されていた。千尋はそれを読みあげる。


「……この囁きを聞いて、だって」

「へえ」


 花言葉は、熟語のようなものばかりかと思っていたが、メッセージ性の強いものもあるらしい。それを聞いたうえで改めて花を見ると、開いた花の奥から微かな声が聞こえてきそうな気がしてくる。小さな声を何とか聞き取るために、そっと耳を寄せそうになった。


 千尋は花びらに指を伸ばす。慈しむような触れ方だった。その瞬間、千草は「かしゃん」と音がしたような錯覚を抱いた。花は人間ではないから、ドッペルゲンガーが触れてもその姿をコピーすることはできない。そう理解してはいながら、ふっと頭に浮かんできた感覚だった。


 千草の中からその感覚が引かないでいるうちに、千尋は指を引っ込める。


「ありがとう。他にも色々、あるんだよね?」


 植物園のパンフレットを開き、園内マップを確認しながら朗らかに笑う。


「うん。そのはずだけど」

「楽しみ」


 今は二月だ。花を見るには時期が良くなかったが、幸いにも温室にはストレプトカーパスが咲いていた。千尋がストレプトカーパスを指定したことに深い意味はなかったようだが、有るのと無いのとでは変わってくるだろう。千尋は花を見ること自体が好きなのか、楽しそうに温室内を歩いている。まるでスキップをしているようにも見える。

 あまり気にする必要はなかったかもしれないが、極力希望を叶えてあげたいという、千草の心証の問題かもしれなかった。


 午後の日差しを、温室のガラスを通して柔らかく降り注ぐ。千草は自分とそっくりでありながら、決して同じとは言えない後ろ姿を追った。





   3


 パンケーキを食べにカフェへ行き、花を見に植物園へ行き。希望の叶った千尋は満足げな顔をしていた。千尋と千草は植物園を一通り見て回り、再びJRに乗り込んで地元の駅まで戻ってきた。


 改札を出て、駅前通りに入る。家の方向へ歩を進めると、歩道橋へと差しかかる。交通量の多いこの交差点には横断歩道が設けられていない。


 千草にとってはいつも通る場所だが、一段一段踏みしめるようにして階段を上りながら、ふと思う。


 ここは千尋──その時はまだ名のない、ドッペルゲンガーだった──と出会った場所だ。


 それから昨日、自分が欄干から落ちかけた場所でもある。


「……千尋」


 声をかければ千尋が振り返る。

 歩道橋の真ん中で立ち止まった。人がやって来る気配はない。


「千尋が怒るだろうことを、伝えようと思うんだけど……」


 ゆっくりと口を動かす。途端に口内が乾いた感じがする。


「何か、千尋に対して失礼な……謝らなければいけないようなことばっかりしてる気がするな。自己中心的で、ごめん。でも言わなきゃいけない気がする」


 内容を告げずに謝る。千尋は目に疑問の色を過ぎらせた。首が少し傾けられる。吹く風が去り際に金髪で遊んでいく。

 千草は欄干へ手をついた。身は乗り出さず目線だけで、歩道橋に交差する車道を見下ろす。


「昨日。ここから落ちそうになったとき」


 掠れた声で続ける。千尋は声を発さない。ただ視線だけ、縫いとめようとするかのように千草を見つめているのが分かる。


「千尋に助けてもらったけど、あのとき……。死んでも良かったなと、思ってた」


 続ける。


「まあ良いかなって。真下を車が沢山走ってることを知ってても、死にたくないって、思わなかったんだ。寧ろ」 


 そこで言葉を切った。


 ──死にたいなあ、と。


 その言葉は舌には乗せなかった。


 それは今まで誰にも、友人にも両親にも明かしたことのない本音だった。


 死にたいなあと、ぼんやりと思う。


 千草自身にも理由は分からない。学校が嫌だから。家庭が嫌だから。現実から逃げ出したいから。そんな説明のつきそうな理由は、朧気にも思い浮かばなかった。学校は友人がいてそこそこに楽しいし、勉強はさほど苦ではない。両親は互いに仲睦まじいし、あれこれと口うるさく言ってくることもない。悩みという悩みもない。思い当たる節がないのだ。にも関わらず、それは恒常的な感情として、千草の中で淀んでいるのだった。


 自殺を試みるような、強い欲求や願望ではない。


 生みの親より先に死ねば両親は悲しむだろうし、友人は「どうして」と嘆くだろう。ショックを受ける者もいるかもしれない。ありとあらゆる手段による自殺は、すべからく他人に迷惑をかける。警察、友人、親、その土地の所有者や交通機関の管理者。賠償金も必要になってくる。それを分かっている限り、千草が実際に死のうとすることはないのだろうと思う。


 ただ。ただ、薄く薄く引き伸ばされた感情が、もうずっと剥離することもないまま喉元から背中にかけて張り付いている。


 それはいつからのことだったか。分からないほどに、ずっとずっと自分の中にある。


 たとえば今日、千尋と出かけるといった、楽しい出来事を過ごしている間には感じない。ただそれがひと段落すると、これだけ薄いにも関わらず、存在だけは認識できる。決して剥がれることのないままそこにある。


 何でだろうなあ、と何度も自問した。

 答は未だに出ていないし、今後も出るような予感がしない。


 この感覚を抱いたまま生き続けるのだと思っている。思っていた。


「……千尋と、出会って」


 歩道橋で出会った少女は、ドッペルゲンガーだった。


 接触したどんな人間の姿もとることができた。見た目も声も同じ。オリジナルの知識も有し、まるでオリジナルであるかのように演技をすることもできた。そして、人間として生きることを望んでいた。


「そのとき、人知れず自分が死んでも、千尋が……《井々城千草》として生きていくことが出来るんじゃないかって。考えが、頭を過ぎって」


 人ならざるドッペルゲンガーを受け入れて、宿のない者を家に泊まらせて。そうすればその考えを実行に移すタイミングも巡ってくるのではないかと、つい考えた。


 《代わり》が嫌だと、それを何よりも行動原理としていた存在に、それそのものを課そうと考えた。


「千尋は千尋で、誰の《代わり》でもなかったのに。付き合っていくうちにそれが分かった。甘いものが好きで、花が好きな。俺とも、きっと『お嬢様』とも違う、れっきとした一人の存在。なのに、そんなことを」


 涙のように言葉が落ちる。しかし実際の涙は一滴も浮かんで来なかった。

 打算的で、非人道的な。そんな振る舞いをした自分が泣くのはおかしなことだ。


 千尋は何も言わなかった。普段のくるくると変わる表情が嘘のように、無表情で千草を見つめている。

 いっそ怒ってくれれば良いのにと思った。けれどそう思うことさえ、自己愛に満ちた発想であると感じた。


「それは」


 千尋が口を開いた。千草の声で、淡々と問う。


「それは、私を家に置いてくれてから、ずっと思い続けていたこと?」

「……。……いや」


 千草は首を振る。


「きっかけは、それだった。でもその後は、千尋といるのが心地よくて、楽しかったってことだけだ。……言い訳めいてるけど」 

「そう」


 相槌を打って、千尋は一歩踏み出した。二歩、三歩、四歩。あっという間に二人の距離が詰まる。


 千草は喉を鳴らす。言うべきではなかった、と強く思った。千尋のために言うべきではなかった。「言わなければならない気がする」などと、結局は「言いたい」自分を繕った言葉だ。


 殴られても罵られても、軽蔑されてもおかしくない。至近距離で、噛み合った視線を焼け付くように感じながら千草は思う。目を逸らしたかったが、同時に、逸らしてはいけないという感情が頭の中で鳴り響く。


 千尋は唇を薄く開いた。しかしそこから何の音も発さないまま、千草の手を取った。

 音は、鳴らない。

 ふいと気まぐれを起こすような調子で、千尋は身体を翻して歩き出す。手を振りほどけずに千草が引かれる形になる。


 歩道橋の硬い地面へ、二組の足が落とされる。


「……、」


 千草から、前を行く千尋の表情は見えない。


「色んなことが、頭の中を巡ってるけど」


 家の方向へ向かいながら千尋が言う。


「あなたは私を見て怯えないで、宿をくれて、名前をくれた。それも事実」


 風に紛れて消えてしまいそうな、囁くような声だった。



次回の更新で完結です。

…と書いていましたが、すみません、あと2回とさせてください。(9/19追記)

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