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04:2月13日(金) (4)

   5


 千尋(ちひろ)は思い出す。

 知識を引き出す、ではない。本当の姿を持たない自分自身に蓄積された、思い出を浮かべる。


 それは、人間の暦で四年ほど前のこと。


「ねえ、あなた」


 あどけなさを残した透明な声を、今でも鮮明に覚えている。


「あなた、私の妹かしら? もしくはお姉様?」

「……えっ、ううん、違う」

「まあ! 声も私とそっくりなのね!」


 その少女は、十歳を過ぎた見目をしていた。さらさらと流れるような黒髪に、ドレスとも言えそうなワンピースを纏っている。その髪の先には葉や木屑がつき、ドレスは砂埃に塗れてしまっていた。口調も相まっていかにも「お嬢様」という風情をしているのに、彼女は汚れを一向に気にしていないようだった。

 透明な瞳は虚ろではなく、寧ろ木陰の中にあってさえも綺羅綺羅していた。それがこんなにも近くで、自分を一心に見つめている。混乱もあってくらくらとする。


「あら、ねえ大丈夫?」


 よく手入れされた庭園。日差しが穏やかに降り注ぐ敷地内には、低木や樹木で囲われた、人の視線を集めない場所がある。木漏れ日の当たる隠れ家といったところか。その芝の上に、二人の少女が倒れこんでいた。勢いよくぶつかって二人とも転倒してしまったのだ。


 いや、正確には。ドッペルゲンガーと少女がぶつかり、その弾みでドッペルゲンガーが少女の姿をストック、同時に姿を切り替えてしまったのだった。縺れ合い、組み敷かれたような形で。


 少女は自分そっくりのドッペルゲンガーを認めるや否や、汚れも痛みも忘れた様子で話し出した。とても興奮しているようだった。


 ドッペルゲンガーは人間の目を避けて、人間のいなさそうな方へ、いなさそうな方へと進んできたはずだった。それが人間と接触してしまい、しかも姿を晒してしまったものだから非常に戸惑った。ろくに口が回らず、この場をうまく切り抜ける言葉も出て来ない。それを悟ったのか、少女が声のトーンを少し落とした。


「あなた、本当に私の親戚ではないの? こんなにそっくりなのに」


 尋ねながら、少女は立ち上がる。両手で服の裾を払った。それで服の汚れが落ちるはずもなかったが。

 そうして少女はドッペルゲンガーの手を引いた。二人は立ち上がり、向かい合う。


「……私。私は」


 ドッペルゲンガーは唇を小さく動かす。

 正直に言っていいものか。この少女も目を見開いて叫び、手のひらを返したように助けを求めはしないか。


 なあに、と言わんばかりに、少女が首を傾げる。


「私は、ドッペルゲンガー」


 囁くような音量で言って顔を伏せた。喉がからからに渇いているのが分かる。


「ドッペル、ゲンガー?」


 訝しむ声が届いた。そしてその後、あまりにも沈黙が続くものだから、ドッペルゲンガーはおそるおそる顔を上げた。

 あなた、と少女は言った。


「ドッペルゲンガーって何かしら?」

「……っ」

「私、知らないの。教えてくださる?」


 その言葉には、何の思惑も含まれていないようだった。


「あの、触った人間の姿になれるの。さっきあなたにぶつかってしまったから、それで変わってしまった……」


 説明に、少女は両目を大きく見開いた。


「凄いわね、私も出来るようになりたいわ」


 心から感心した様子で少女は言って、ドッペルゲンガーの手を、自身の両手でぎゅっと包み込んだ。


「そこにある建物が私の家なの。ねえ、良かったらまた遊びに来て。私、学校では遠巻きにされていて、お友達がいないの」


 少女は──その見るからに育ちの良いお嬢様は、名を透子といった。名を体で現しているような少女だった。


「私とお友達になってくださらない?」


 その目が寂しさを湛えていたのが印象的で。ドッペルゲンガーはしばしば庭園を訪れるようになった。庭園の傍らにある屋敷の使用人やそこに出入りする人間に接触したり、髪の毛という身体の一部を入手したりして、庭園に近づくのが不自然ではないように振舞った。


 二人が会う場所は大体庭園だったが、雨の日や肌寒い日は建物の中へ入れてもらえた。そうすると、他の使用人の目を遠ざけて二人で遊べる。


「見て、どれが好き?」


 この間の誕生日に貰ったという図鑑を広げて透子が言う。同じ顔立ち、同じ身長の少女が二人ぴったりと寄り添って、植物図鑑を覗き込んだ。


「私はね、この青いのが好きよ。ストレプトカーパスっていうの。でもね、直接見たことがなくって。明行に頼んで持ってきてもらおうかしら」


 透子は屈託なく笑う。


 明行というのは透子付きの使用人で、透子が生まれたときから透子のことを世話していた。彼女の行くところ、どこにでも付いてくるような男だった。透子はあらかじめ「明行には隠し事ができない」と説明しドッペルゲンガーの了承を得た上で、明行にドッペルゲンガーの存在を紹介したのだった。


 明行は口数の少ない青年ながら透子には甘いようだった。しかし、ドッペルゲンガーのことは胡乱げに見ていた。初めて透子の姿に変化するところを見たときは卒倒さえしそうだった。その眼差しは、ドッペルゲンガーが姿を変えるときに、気味が悪いという感情さえ孕んだ。ただ透子がドッペルゲンガーを気に入ってくれている限り、彼はドッペルゲンガーを「お嬢様が定期的に遊ぶおもちゃの一つ」として許してくれているようだった。


 ドッペルゲンガーは屋敷に入る際は適当な使用人の、出る際は明行の姿をとり、透子に会いに来た。

 二人で本を読んだり、明行を巻き込んでトランプをしたり。透子の学校の話を聞くことや映画を観ることもあった。透子の両親が姿を見せたときは、慌てて物陰に身を隠したものだ。


 透子の傍にいない時にも、ドッペルゲンガーは次を楽しみに、人間の波を渡り歩いて生きていくことができた。


 本当に、心からの友人のような関係にあると思った。


 花のように可憐ながら、手折れそうなほどに弱々しくもない。彼女が綻べば場の空気が一気に柔らかくなる。


 そんな透子に、友人が少ないとは思えなかった。

 家柄ゆえに、透子の周りの者は媚を売るか遠巻きに見るか、利己的な感情を含む接し方しかできなかったのかもしれない。


 事実はどうあれ、透子は稽古事や勉強の隙間を縫ってはドッペルゲンガーと会おうとするのだった。そして唯一無二の親友として、接してくれた。ドッペルゲンガーが自身と全く同じ姿をしていること、人間ではないことなど一切気にしていないようだった。


 お嬢様とドッペルゲンガーの交流は、使用人によって巧妙に隠蔽されながら続いた。透子がテスト勉強で忙しいこともあったが、そんなときドッペルゲンガーはただ傍らに座っていることもあった。


 ドッペルゲンガーの生の中で、一番姿をとっている時間が長いのが透子になった。

 自分が人間である、人間と同等のものであるような錯覚をした。楽しかった。


 唐突に始まった日々が、唐突に終わったのが一年ほど前。

 透子が、交通事故に遭ったのだった。





「……千草(ちぐさ)


 居間のソファに埋もれていた千尋は、扉を開ける音を耳にしておもむろに顔を上げた。姿は既に千草と同じものに戻っている。二階にいる間に握手をするようにして接触を果たし、音を微かに響かせて姿をコピーした。その直後にすぐさま姿を変える。これでまた一週間はこの姿を保てるだろう。


 居間へ現れた千草に、千尋は目線を合わせた。


「行きたいところ、思いついて。花を見たい。ストレプトカーパスっていう花」


 ストレプトカーパスという花を千草は知らないようだった。千尋も、透子とともに図鑑で見たことがあるだけだ。


「それから。……パンケーキというものを、食べてみたい」


 重ねてそう言うと、千草はきょとんとした顔をする。

 行きたいところに連れて行ってくれるという、その言葉に甘えることにした。ここまで散々千草に甘えている、という自覚はあるが。


「それで、日曜日にここを出て行こうと思う」


 散々お世話になったから。ありがとう。


 その言葉に、千草は思いきり両目を見開いて。そして、ゆっくりと瞼を伏せた。



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