04:2月13日(金) (3)
3
紙袋が揺れる。
千尋はJRを降りて、駅前通りを歩いていた。風が建造物の隙間を縫っていく。道行く人々は肩を縮こまらせていた。ドッペルゲンガーは、気温の変化というものに疎いようだ。さして寒いと感じることもなく、ただ形式上ダッフルコートはきちんと着こんでいる。
人の波を抜けて、歩道橋へとさしかかる階段をゆっくりと上っていった。ふと、以前この階段を上ったときのことを思い出す。ちょうど一週間前だ。セーラー服姿でこの階段を上った。そして急な激しい運動に耐え切れずによろめいてしまったのだった。今振り返ってみれば、お嬢様の身体で随分と無茶をしたものだと思う。千草のこの体ならあそこまで息切れは起こさないだろう。
階段を上りきって、車道を横切る形で渡された橋へ足を踏み出す。下の車道では何台もの車が絶え間なく走り去っていた。
「……あれ」
千尋は思わず声を上げた。
歩道橋の真ん中、ちょうど以前、千草が立っていた辺り。そこに今日もまた佇む人影があるのだった。
カーキのモッズコートを着込み、そのフードを目深に被っている。フードはファーに縁取られていて、その奥の人間の顔を隠している。身長を見るに男の可能性が高い。
背丈や雰囲気が千草に似ている、と思った。
もう少し近づいて見極めようと、千尋は歩道橋を進む。
人影は欄干に両手を突いていた。手首に白いビニール袋が通されている。何か買い物した商品を提げているようだ。袋は風に煽られてがさがさと音を立てているが気にした様子はない。人影は車道の方をずっと見つめていた。そこに何か気になるものでもあったのか。彼が少し身を乗り出したところに、一際強い風が吹く。
ぐらり。
欄干から上の位置にあった上半身が、鍵括弧の形に折れたかと思うと。
彼の体が、歩道橋の外へ向かってゆっくりと傾いていく。
落ちる、と思った。
その瞬間、橋の下の景色が頭を過ぎる。車が途切れることのない車道。
千尋はコンクリートで固められた地面を蹴った。
右手を放り投げるようにして、コートを掴む。厚い布地はしっかりと握り込むことができた。手の甲に、腕にめいっぱい力を込めて、それを離さないようにする。
とにかく彼を助けなければ。
その思いで必死にコートを引っ張る。
ああいやでも、紙袋を落としてはいけない。せっかくあの子がくれたのに。
頭の片隅でそんなことを思う。勢いよく床に落下でもさせたら、貰った中身が台無しになってしまう可能性があった。
幸い、傾いたのは上半身だけだったので、千尋一人の力で彼を救出することができた。これが、手一つで橋と繋がっていて、全身がぶら下がっているような状況であれば支えきれなかったかもしれない。
彼が落下するのは免れたことを確認すると、千尋は気が抜けて座り込んだ。
「──はっ……」
声をかけることもできず、ただ冷たい空気を肺へ押し込む。
とうにフードを剥がした人影に、動揺の様子は見られなかった。コートを引っ張られた衝撃のためか何度か小さく咳き込んでいたが、すぐに落ち着いた様子で振り返る。
千尋と彼の目が合った。
「……千尋」
囁くように呟いたのは、千草だった。
4
学ランにダッフルコート姿の千尋、モッズコートでフードを被った千草は、連れ立つようにして帰宅した。千草は放心しているのか、ほとんど喋らず、千尋もそれに従って沈黙する。二人の手の先で紙袋とビニール袋がそれぞれ揺れていた。
千尋は部屋に戻ると、まず学ランを脱いだ。Tシャツにパーカーというラフな姿に戻る。
「千草、」
声をかける。千草は首を傾けて反応した。
「大丈夫?」
先ほど、歩道橋から落下しかけた出来事を指しての発言だった。幸いにも欄干から引き上げることができたので、衝撃を受けた以外は、身体に傷を負ったようには見えない。歩道橋から地面までの高さはそれほどなかったかもしれないが、あのまま落ちていれば行きかう車と接触していた可能性が高い。ただでは済まなかっただろう。
うん、と千草はゆっくりと首肯する。
「千尋、迷惑かけてごめん。大変だっただろ」
怖かったでもびっくりしたでもなく、千草は開口一番にそんなことを言った。
大変だったのだろうか。千尋は内心で疑問に思う。たしかに同じ体格の人間一人を支えることは容易ではなかった。しかし気持ちの面で言えば、人間に触ってしまうかもしれない、力が足りないかもしれないなどということは全く考慮していなかった。ただ体が動いてしまっていたのだ。
その反応に、千草は薄く笑んだ。それ以上を話すつもりがないという意思表示の表れにも感じられた。
千草はスマートフォンを鞄から取り出した。日中に来たメールは差出人を確認した上で開かないままにしてある。ついっ、と指を動かしてそれらのメールに目を通し、
「明日の午前中に、お父さんも祖母ちゃんのところに行くって。で、明後日……日曜の夜に二人で帰ってくる」
その内容を千尋へ告げた。ということは、この土日の間は父の姿を気にしなくとも良い。しかし日曜の夜以降は両親二人が家にいることになるのだろう。父は日中ずっと仕事で、家にいる折も千草の部屋を訪ねてくることはなかった。ただ母はどうかは分からない。突然に部屋の扉を開けて、我が子が二人いると場を目撃してしまうかもしれない。第三者が、オリジナルとコピーの両方を目にするのが一番危うい気がする。いくら千草の身内とは言え、ドッペルゲンガーの存在をこれ以上明けっぴろげにしていくつもりはなかった。
そもそも、千尋がこの家に滞在して一週間になる。いい加減に今後どうするか決めなければならない。現時点で、解決策が全く見つかっていないとしても。
「そういえば、本題。誰かに触れた?」
千草が、パーカー姿の千尋を見つめて言った。思考の泡が弾ける。この質問には素直に頷けた。
「結局どうしたの? ぶつかったり、髪に触れたり?」
「手に触れた。あの、それを貰うときに」
千尋は紙袋へ目を遣る。そして、姿を変えようと意識する。意識的に見た目を変えようとするときに、何か動作をする必要はない。ただストックしたデータを引き出すように、脳から全身へ命令を出すだけだ。
──かしゃん。
人間と接触した際と同じ音がして、四肢を確認すれば、千尋はクラスメイト・森遥の姿に変わっていた。着ていた服は裾や袖が余り、肩口に髪がかかる。髪ゴムがないのでポニーテールにはならず、下ろした形になる。
千尋の目線へつられるようにして紙袋を見ていた千草は、音に驚いて視線を動かした。そこに遥の姿があるのを認める。
「森さんか」
細められた目は、既に驚きの色を失っていた。
千尋は紙袋を手に取り、それを千草へ差し出した。
「森さんがくれたよ」
遥が放課後の教室で、意を決して言ってくれたときのような表情を再現することはできない。せめて台詞はそのままに、
「これ。よかったら、食べて」
……って。
千草の腕へ紙袋を押しつける。千草は素直に受け取った。
礼を述べて紙袋を覗く。中には綺麗に包装された箱が入っていた。ラッピングの様子を見るに、手作りのお菓子だろう。今日は二月十三日、金曜日。今年の二月十四日、バレンタインデーはあいにく休日で、学校で誰かにお菓子を渡すのならば今日を狙うのが良かったのだろう。学校は今日一日浮き立った、楽しい雰囲気であったに違いない。
そう言えば先日、それを匂わせるようなことを遥から言われていた。
「……井々城って、甘いものの中では何が好き?」
「井々城、私、頑張るね」
あのときの言葉がふっと頭に浮かぶ。
千草は照れもせず、表情を変えぬまま淡々と、
「ああ、そっか」
頷いて、
「ありがとう」
礼を重ねた。それに対して、千尋は千草を見据える。
「そのお礼は、森さんへのもの? 私へのもの?」
無邪気にも見える仕草で首を傾けた。長い髪が微かに揺れる。
「私に言ったって森さんへ気持ちは届かないよ」
千尋は、森遥の姿で、森遥の声をして言う。あえて千草の姿には戻らなかった。
「彼女がバレンタインのお菓子をくれるかもしれないって、もしかして分かってた?」
沈黙が降る。アナログ時計のない部屋は秒針の音さえしない。ただ時は確実に過ぎていく。砂時計の砂が零れ落ちていくように。
「……うん」
やがて千草は頷いた。
くれるかもしれない、ではなく、くれるのだろうな、とさえ思っていた。別に千草は人の感情に鈍感ではない。遥が好意を寄せてくれていることは、周りから仄めかされなくとも分かっていた。分かっていた上で、ほとんど意識に上らせていなかったというのが事実だ。
そう、と千尋が頷いた。その目の冷めた色は、遥がそこに立っているようでもあった。
「森さんの気持ちに対して誠意がなかった。森さんには、直接お礼を言いに行くよ。ホワイトデーもお返しする。千尋にも、ごめん」
千草は頭を下げる。千尋はゆっくりと眼差しを和らげた。千尋が、ドッペルゲンガーである自身とコピ──元のオリジナルとを混同させられることを嫌がっているのが改めて感じられた。
「あの、さ。……明日とか、行きたいところあったりする?」
お詫びの意味も込めながら、遠慮がちに提案する。千草は先ほどのレジ袋を持ち上げて、がさりと揺らした。