04:2月13日(金) (2)
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父と並ぶようにして駅へと向かい、改札で別方向へ別れた。千尋はホームに滑り込んできたJRに乗り込む。そして揺られている間中、通勤通学客に接触しないよう車両の隅に縮こまっていた。こんなにも人間の密度の高い、狭い空間にいたのは初めてかもしれない。息の詰まる三十分間を抜け出すと、駅から歩いて高校の門をくぐった。
勿論初めて訪れる場所だったが、千草の靴箱の位置や教室の場所は、意識すれば頭にふっと浮かぶ。千草に触れたときにそれらの情報はすべてコピーされていて、必要に応じて脳裏に過ぎるようになっている。
上靴へ履き変えて、千尋は目を閉じる。一度深く深呼吸した。
私の名前は千尋。名前のなかった私に、千草がくれた名前だ。《誰か》ではない、ただ私一人のための名前。
けれど今日は一日、千草の制服を着て、千草として振舞おう。
JRの人ごみも学校の空気も、すべてが千尋にとっては新鮮だった。しかしそれに目を瞠るのは帰宅して千草に会ったときにする。今は演技に徹しようと決意して、千尋は瞼を上げた。
階段を上って教室へと入る。着いたのはホームルームが始まる十五分ほど前である。教室にはクラスメイトがちらほらといる程度だ。千尋の姿に気付いたクラスメイトが挨拶をして来て、千尋も「おはよう」と一言返す。
席について、一息ついてからリュックサックへ手を伸ばした。中に入っていた小説を取り出して栞の挟んである箇所を確認する。
ホームルームが始まるまで、あるいは千尋の友人達が登校して来るまで、まだ時間がある。
──もう誰かの代わりは嫌だった。それでも、《誰か》を抜け出すために、他の誰でもない「千尋」という存在であるために千草は姿を貸してくれたのだから、迷惑をかけないようにしなければと思う。
千尋は小説を読み始めた。始めからではなく、栞の挟んである箇所の続きから。
あっという間に時は過ぎ去り放課後のホームルームとなった。担任の話す連絡事項を聞きながら、その裏で千尋は小さく息を吐いた。
結論から言えば、何の問題も起きなかった。
一時間目は現代文、二時間目は数学。三時間目は地理、四時間目は保健。お昼休みを挟んで、五時間目はリーディング、六時間目はライティング。同じ英語なのに担当教師が変わった。最後に、七時間目は化学だった。
千尋は一日の授業で、合計五回も担任に問題の答えを求められた。三回目辺りから、普通こんなにも当てられるものなのか、と気になってクラスメイトがどのくらい指名されているか数えてみたのだが、千尋を含め数人の生徒の発言回数が明らかに多いことが分かった。不公平だ、と思う。
ただ、一般常識や最近のニュースを問うような質問を除いて、宿題の回答や教科書の問題は、あらかじめノートに書いてある答をそのまま述べるだけで良かった。千草は、主要教科の予習をあらかた済ませてから授業に臨んでいたようだった。
「……『感情をどのように受け取るのか決めるのに、文化は非常に大きな役割を果たします。顔の表情を解釈する時には文化を考慮する必要があります』」
どこをどう訳せばこんな日本語が出てくるのか。自分ではよく分からない和訳を千尋が読み上げると、英語教師は満足げに頷いて、繰り返しつつ補足を話し始める。千尋は慌ててそれをノートに書き写す。
正直なところ、授業を受けるということはかなり疲れるものだった。
板書だけでなく、教師の話はきちんと聞いて、ノートに書きとめておかなければならない。千草のノートは三色のペンを取り入れながら綺麗にまとめられていて、再現に苦労した。
担任教師が話し続けている。特に連絡事項はないらしい。中身は雑談だった。
「ってことで、まだ四個しかチョコ貰ってないんだ。先生はまだまだ募集中だから、よろしく」
「せんせー、それ一個も貰えてない俺にケンカ売ってるわけ」
「日ごろの行いが良ければ義理の二個や三個は貰えるでしょ。あとは部活後に期待しときなさい」
ざわめきの波が教室内を渡っていく。生徒達は早く帰して欲しいという顔をしながらも時おり笑いを零している。
今日一日、千尋の心身は疲労したが、正体を疑われるような事態にはなっていない。教師にも、浅川葱生を始めとする友人達にも「いつも通りの井々城千草」を見せることができただろう。あとは帰宅するのみで、無事に月曜日を終えることが叶いそうだった。
しかしながら、そもそもの問題が残っていた。千尋はまだ生徒の誰とも接触できていなかったのだ。どうせ一瞬変化して、また千草の姿に戻るのだ。これだけ周りに人間が溢れているのだから相手は誰でも良いだろうと思っていたが、人が多いということが却ってネックになっていた。ドッペルゲンガーが人間と接触するとき、プラスチック製の物質を落としたかのような、かしゃん、という音が鳴る。小さな音ではあったが、静かな場所や至近距離に人間がいる場所では、「何、今の音?」と疑念を抱かれかねない。リスクを犯してでもさっさと誰かと接触してしまうか、好機が訪れるのを待つか、決めかねているうちにこんな時間になってしまったのだった。
どうしようか。
言葉を舌の上で転がしているうちに、ホームルームは終わりを告げられる。椅子を引きずる音が教室の直方体いっぱいに満ちて、生徒全員が立ち上がった。
「さようなら」
「はい、また月曜ね」
声を揃えて礼をする。決まりきった挨拶をもって生徒達は一斉に机を教室の後方へ下げる。その後、三々五々、自宅や部活動へ向かっていった。
「今日も掃除当番だな」
前の席の浅川葱生が、若干憂鬱そうな口調で声をかけて来る。昼食を共にした際に、今日はお菓子を作るから早く帰りたいのだと言っていた。同調も否定もせず、千尋は小さく笑ってみせる。
教室掃除があることについては、事前に千草から教えられていた。それによれば、悪気がなくともさぼってしまえば、怒られるとまでは言わないがクラスからの評価が下がってしまうという。
「些細な積み重ねが信用や不信用に繋がるんだよ」
真面目な面持ちで言う千草はいわゆる優等生というやつなのだろうと、今日一日を経て千尋は理解しつつあった。
千尋は教室の角にあるロッカーへ向かい、葱生とともに床にモップをかけ始める。
人間の中に紛れて、人間と同じことをして、一日を過ごした。そう考えれば、掃除も面倒だとは思わなかった。寧ろ授業を受けることよりはよっぽど楽だった。
体感時間としては瞬く間に掃除を終える。教室の隅へ寄せていたリュックサックを回収し、一度それを机の上へ載せる。
鞄のポケットからスマートフォンを取り出した。パソコンのアドレスへメールを送り、これから帰宅する旨を千草に連絡しようと思ったのだ。千尋がスマートフォンのボタンへ親指を滑らせると、指紋認証によってロックが解除された。ドッペルゲンガーは、指紋という細部に至るまで精密に外見をコピーする。
しかし、ロックを解除しメールアプリを立ち上げたはいいものの、フリック操作に慣れない指はなかなか文章を紡いでくれない。
「これ、か、ら……」
小さな声で文字を口に出す。一字ずつ確かめるように打ち込んでいく。
ようやく全て入力し終えて、メールが千草の元へ羽ばたいていったときには、教室から生徒はいなくなっていた。
そんなに時間をかけてしまっただろうか。思わず教室内を見渡す。そこへ、
「井々城。……あの」
声をかけてくる者があった。
廊下から様子を伺っていた女子生徒が、意を決した様子で千尋へ近づいてくる。
千尋はその女子の全身を視界に収めた。知識の引き出しへ照会をかけると、滞りなく回答が提出される。
森遥。千草のクラスメイト。所属はテニス部。いつも髪型を高い位置で一つに結っている、女子だった。
「……あの、」
遥は同じ言葉を繰り返した。目線は上靴へと向けられていて、その表情を察することはできない。
「はい」
思わず千尋は畏まった返事をした。どうしたら良いのだろうか。アーカイブをいくら探っても、遥に関しては先ほどの情報しか出て来ない。何の用事で話しかけられているのか皆目検討がつかなかった。
沈黙が生まれる。静寂は薄く引き伸ばされて教室を横断し、やがて廊下へと染み出していく。
困り果てた千尋が、遥の表情を窺おうと上半身を屈めようとしたところ、
「これ」
遥が勢いよく顔を上げた。顎に直撃を受けそうになって、千尋は慌てて後ずさる。
前に出された両腕には、紙袋が提げられていた。
「良かったら、食べて」
顔を耳まで真っ赤にして、今にも泣き出しそうな潤んだ目をして。
千尋がそれに驚きを感じているうちに、遥は両手をさらに前へ突き出した。紙袋を押しつけるようにして千尋へ渡す。瞬間、
──かしゃん。
千尋の手が遥の手に触れる。それと同時に微かに音が生まれる。遥の情報をコピーすることができた証だった。
慌てて顔を上げる。遥のポニーテールがなびいて、廊下に消えていくのが見えた。ぱたぱたぱた、と上靴が床を蹴る音が遅れて届く。遥は紙袋を渡すことで用事を果たしたのか、一目散に去って行った。
教室には、再び一人、千尋が残される。
千尋は千草の姿を保ったままだ。しかしこれでいつでも、ストックしている遥の姿に変わることができるようになった。今日一日の目的は達成したことになる。だが。
紙袋を抱えたまま、しばし呆然とする。硬直が解けてようやく袋の中を覗き込むと、可愛らしくラッピングされた箱が入っていた。これは千草に宛てられたものだ。いくら千草の姿をしているとは言え、千尋がこれを開けてみることはできない。
千草の見た目をして、千草がするような振る舞いをした。
けれどやはり、千尋は千草本人ではない。
この紙袋には思いが込められすぎている。千草が受け取るべき、受け取るはずだったものだ。
遥を追いかけて、自分は千草ではないのだと、訂正をしに行くつもりはなかった。それはあの少女にとってあまりにも酷なことだろう。千尋にできることは、遥の言動をしっかりと千草に伝えることくらいか。結局のところ家へ向かうしかないのだ。
チャイムが鳴り響いた。
リュックサックを肩にかけて、千尋は上靴を床に鳴らした。