1 カルロ・メリヤ
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見上げれば空があった。
うむ。普通の空だ。
林のエアスポットみたいにできた広場。
木々の合間から見える奇麗な青空に、白い雲が流れ、温かな太陽が隠れて、すぐに明るさを取り戻す。
自然の営みである。
いや、普通というのは違うか?
この『俺』にとっては普通であるが、この『儂』にとっては見慣れない空だ。
儂の感覚からすると、空気がとても澄んでいる。
少なくとも故郷の日本とは比べ物にならないだろう。
開発されていない国の辺境を旅した時と同じか、それ以上に澄んでおる。
「ふうむ……ぬ?」
唸りながらも起き上がる。
すると、体中から痛みが走った。
見下ろせば手足に打ち身や擦り傷。
どれも大した傷ではない。草木で切ったとか、転んでぶつかったとか。そんな具合だろうか。
何がどうなっておる?
「あー、あー、あー」
段々と頭が働いてきたぞ。
というか、思い出してきた。
『儂』の名前は苅谷織人。考古学者。享年、七十歳。
『俺』の名前はカルロ・メリヤ。孤児院の子供。十歳。
どうやら転生と言っても赤ん坊からのスタートではなく、十歳から覚醒するようになっていたらしい。
これまではカルロとして生きていたが、儂の目覚めと同時に同化したといったところか。
カルロというのもあくまで儂がベースになったものなのか、まったく違和感なく馴染めている。
「それで、儂……俺は」
さすがに十歳で儂はないな。
カルロに合わせて俺と言っておこう。
口調も気を付けんといかん。独り言で調子を確かめてみよう。
「俺は何をしてたんだっけ?」
ゆっくりと思い出してみると、すぐに記憶が蘇る。
町へおつかいに行ったら、町の子供たちにからまれてしまい、儂の『卵』を奪われて、追いかけて町はずれの林まで来て、そこで取っ組み合いになり、弾みで卵が茂みに入ってしまった。
子供たちは逃げてしまい、儂は一人で茂みに入って卵を探していて、途中で斜面になっていたのに気付かずに転げ落ちた、と。
で、それがきっかけになったのか、偶々だったのかはわからないが前世の記憶を取り戻したらしい。
ゆっくりと立ち上がってみる。
少しは痛みがあるものの、ちゃんと立てた。
大丈夫だとは思っていたが、骨が折れたりという心配はいらないだろう。
改めて見回してみると、足元には手のひらサイズの『卵』が転がっていた。
「ああ、よかった。ここにあったんだ」
探していた『卵』だ。
一見すると普通の白い卵に見える。
しかし、よく見ればうっすらと表面には模様が浮かんでいた。
世界で儂だけの卵。
と、その辺りはいったん置いておいて。
今は早く帰らなければならんな。
転げ落ちた時に気を失っていたのだろう。
空の具合からするに既に昼過ぎ。
家――孤児院で兄弟が待っているはずだ。
「まずいな。これはアリアが――アリア姉が怖いぞ」
儂は卵をつぎはぎだらけのポシェットにしまい、転げ落ちてきた坂を上りきった。
林の中でできるだけ服の汚れを落とそうとしたが、気休めぐらいにしかならない。
これ以上、時間を掛けては家族が探しに出てしまうかもしれず、諦めてそのまま孤児院へと向かった。
町はずれの古い建物がメリヤ孤児院。
近くの町に行くのにも三十分近く歩かないといけない立地にある。
林からだと十分ぐらいで帰れたのだが、やはり想像通り玄関で少女が待っていた。
儂の三つ上の十三歳。
亜麻色の長い髪を二つに分けて束ねた少女。
傍目から見てもわかるぐらいおろおろと辺りを見ては、玄関の前でちょろちょろと小動物みたいに歩き回り、止まったかと思ったら町の方へ続く道を背伸びして見つめている。
儂は見つからないようにそっと近づいた。忍び込んで、せめて服を着替えておきたい。
すると、何やらぶつぶつと呟き声が聞こえてくる。
「カルロ。カルロは大丈夫かしら。十歳でお遣いは早すぎたんだわ。カルロはかわいいからさらわれちゃったりしてるかもしれないわ。そうよね。きっとそうだわ。カルロがお昼に帰ってこないなんて、そうとしか思えないもの。どうしましょう。えっと、まずはシスターに町へ連絡してもらって、できるだけたくさんで探してもらえばいいわよね。大丈夫よ。カルロはあたしが守ってあげるから。お姉ちゃん、頑張るわ」
いかん。
着替えている時間なんてないな。
このままでは大事になってしまう。
恐ろしい事に、彼女の独り言が実現してしまう可能性が高いのだ。
儂は観念して声を掛ける事にした。
「アリア姉」
「きゃっ! え? あ、カルロ!?」
忍び寄ってしまったせいで驚かせてしまった。
だが、少女――アリア姉はすぐに儂と気づくと、目に涙を浮かべていき、涙の滴が溢れ出すのと同じタイミングで抱きついてくる。
「ああ! カルロ、無事だったのね! 帰りが遅かったから心配してたんだから!」
ぎゅっと力いっぱいしがみつかれて、危うく首が変な方向に曲がりかけた。
やたらと柔らかい感触が顔を覆うが、中身が七十すぎの儂にとっては彼女も孫という感覚に近いので問題ない。
それよりも先に筋を痛めそうだとか、窒息しそいうだとか心配になってしまう。
思い込みつが激しく、心配性で、泣き虫だが、とても働き者のアリア姉はわりと腕力があった。
「アリア姉! 大丈夫だから! ちょっと道に迷っただけだ!」
呼びかけるが、実際はちゃんと声にならなかった。
ならばと背中をタップしてストップをかけるが気づいてもらえない。
ポロポロと涙を零しながら、ぎゅうっと力を増していくばかり。
このままではアリア姉が義弟殺しになってしまうぞ。
何よりも……。
「アリア。カルロが帰ってきたのかい?」
あかん。
この声はロミオ兄。
今、一番来てほしくない人だ。
儂がアリア姉を怖いと思う最大の原因でもある。
声を掛けられた拍子に緩んだアリア姉の腕から抜け出し、息を整えながら見上げる。
眼鏡をかけた長身の優男が儂たち――いや、アリア姉を見ていた。
泣いているアリア姉を。
優男――ロミオ兄はメガネの位置をくいっと直し、緑色の髪をざっと後ろへと流してから、玄関脇にあった箒を握り締めた。
「アリアを泣かしたのは君かい、カルロ?」
怜悧な容貌に似合わない、優しく、温かみのある声と微笑みだった。
年頃の女子なら悲鳴じみた歓声を上げそうだ。
が、その目は汚物を見るように冷たく凍えて、座りきっていた。
その手の趣味の人間が歓喜しそうだ。青柳君とか。
もちろん、そんな趣味のない儂は言い訳できんものかと考えるが、許されたシンキングタイムは二秒程だったらしい。
箒の穂先(?)が鋭い音を上げて、儂の鼻先につきつけられた。
南米の部族の戦士が見せた槍さばきを思い出させられる、堂に入った構えだ。
「僕の妹を泣かせるとは、いい度胸だ。覚悟はできているだろうね?」
このロミオ兄。
色々とこじらせている人物である。
なんというか、家族愛が深いというか、深すぎるというか、いや、兄妹愛というべき……それも違うか。主にアリア姉に対してのみ発揮される愛情をこじらせている。
「ちょっと! ロミオ兄! 儂も弟でしょう!」
あ、儂って言ってしもうた。
しかし、訂正している時間もないし、誤魔化している余裕もないし、そもそも誰も聞いていない。
「弟だからこそ厳しくしつけるんだよ」
その台詞が心からのものだったら儂も同感だが、彼は単なるシスコンというやつだ。
折檻の割合は優しさが一厘で、私怨が九割九分九厘じゃないか。
「せめて、言い訳をさせてくれん……させてよ」
「? ああ。話はたっぷり聞くよ」
こんなのでもいい兄なのだ。
勉強もできるし、家事も万能だし、武術も優秀でありながら、年下の面倒見もいい。
頼れる我が家の長男殿だ。
「だが、その前にお仕置きだ」
アリア姉が絡まなければのう。
箒が振り下ろされてくる。
十歳相手と本気なら避けられなかったかもしれんが、今の儂なら回避可能よ。
「こら、カルロ! 逃げるんじゃない!」
「逃げなかったら叩かない?」
「その時は手加減をしてあげよう」
やっぱり、ぶつんじゃないかい。
まったく、理不尽すぎる。
「アリア姉!」
「二人とも、もうお昼の時間だから遊ぶのは少しだけよ?」
これだから天然は困るのだ。
どうやら孤立無援らしい。
結局、儂はその後も前世の経験をフルに活用して逃げ回ったが、四歳という年齢差は如何ともし難く、段々とロミオ兄を本気にさせてしまう結果になり、手痛い一撃を尻に受ける事になるのだった。