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0-1 苅谷織人

 0-1


「先生、今日はありがとうございました!」


 県庁の会議室を出たところで呼び止められて振り返ると、声の主がきっちり九十度頭を下げていた。

 突然のやりとりに何事かと周囲から注目が集まって、少しだけ居心地が悪い。


「いやいや、気にせんでくれよ。儂が勝手にした事だから。頭を上げてくれ、青柳君」


 青柳君は素直に顔を上げてくれたが、そんな事はないと頭を振って熱弁を続けてくる。


「謙遜なんてしないでください! 先生がいらっしゃったから! 世界でも屈指の考古学者である苅谷織人かりやおりと先生が動いたから! メディアの注目が集まるかもしれないから、あの人たちも今までみたいな強引なやり方ができなくなったんですよ! それに遺跡の説明だって、若造の私の言葉と先生のお話では重さが違いました! 本当にありがとうございます!」

「はは。それはほめ過ぎじゃよ」


 教え子に讃えられて悪い気はしないが、面映い気持ちも同じぐらいあった。

 そんな儂に気づかない青柳君は、ぐっと両手を握り締めると、真剣な眼差しを向けてくる。


「本当に、さすがは『戦う考古学者』ですね!」

「いや、その名前はやめてくれんかの? 本当に、ちょっと……」


 若気の至りとメディアの煽りのせいでついてしまったあだ名は本気で恥ずかしい。

 世界一有名な映画の考古学者ではあるまいし、儂は彼のようなヒーローではない。


「え、でも、盗掘者をロープ一本で撃退したって……」


 ダメだ。放っておいたらいつまでも語り続けそうだ。

 儂はあご髭を撫でながら、苦笑をしてみせた。


「ふむ。さっきの説明会でもそれだけ語れていれば良かったのになあ」

「あう」


 からかうと青柳君は顔を赤くしてうつむいてしまった。

 すまんの。あまり持ち上げられると恥ずかしいのだよ。昔話は特にな。

 いや、単純に青柳君がからかいやすいというのも大きいのだが。

 ともあれ、青柳君の勢いが途絶えたのは計算通り。ひとつ咳をついてから話を元に戻す。


「儂のような老骨の名前が役に立ったのなら嬉しいよ」

「でも、まさか南米から飛んできてくれるなんて思いもしませんでした」

「ふふ。かわいい教え子のためだ。それぐらいするさ」


 子供のいない儂にとって教え子は皆、孫のようなものだ。

 世界の裏側からだって駆けつけるに決まっている。


「それで、先生。いつまで日本にいらっしゃるんですか? 時間があるようなら私が……」

「お話のところすいません、青柳教授! 少しよろしいですか?」


 青柳君が会議室の方から声を掛けられた。相手は先の会議の出席者たちか。

 まだ何事か儂と話したそうな青柳君だが、自分の職務を優先するだけの判断はできたようだ。

 心残りの様子は隠せないものの、そちらへ頷いて返した。


「わかりました、すぐ行きます。先生、私の研究室に寄ってください! 絶対ですよ! 新しいおすすめも色々と用意しているんですから!」


 慌ただしく会議室に戻っていく青柳君を見送る。

 大学の研究室に寄ってほしいと言われたが、下手に顔を出せば面倒な連中に捉まってしまいそうだ。

 かわいい教え子の誘いは嬉しいが、まったくかわいくない教授連中と顔を合わせたくない。

 仕方ない。青柳君には悪いが、またの機会にさせてもらおうか。正直、最後の『おすすめ』という一言にも嫌な予感がするしの。


 一言断りを入れておきたいが、青柳君は職員の人たちに囲まれている。

 何やら青白い顔色の職員が必死に青柳君に訴えかけているが、彼は計画推進派の職員だったか。最後の抵抗だろう。

 ここで儂まで顔を出してしまえば、余計に感情を逆なでしてしまいそうだ。

 青柳君の背中に軽く頭を下げて、儂はその場を後にした。


「すまんな。またの機会に邪魔するよ」




 県庁を出て、モノレールの走る駅前の公園で一休み。

 急ぎの帰国だったので、この件以外に予定もない。発掘現場に戻ろうにもしっかり計画しておかなければ余計に時間が掛かってしまう。

 不意にできた空き時間。

 ここで色々と考えるのも悪くないだろう。


「ふう」


 ベンチに腰かけると、勝手に息がこぼれた。

 こういう時、年を取ったものだとしみじみ思う。

 昔は世界中を旅したというのに、最近は少し走っただけで息が上がるのだから情けない。とても次の調査にも同行したいとは言い出せないな。研究チームにも止められてしまうか。


 わかっている。

 当たり前の話だ。

 既に齢、七十。

 同年代の人間よりは動ける状態を維持しているが、それでも若い人間には遠く及ばない。いくら鍛えようとも肉は落ち、技術と経験で誤魔化すのもそろそろ限度だった。

 現場から遠くなるには十分な年齢である。引退するつもりはさらさらないが、第一線から退く時期なのは否定できない。

 しかし、自分の居場所は大学や博物館にはないのだ。


「……冒険がしたいのう」


 考古学界の重鎮と呼ばれるようになって長い。

 だが、そんな肩書なんてどうでもいい。


 儂はただ未知を埋めたかった。

 過去の地層に埋もれた謎を掘り当てたかった。

 歪められた歴史の真実を知りたかった。

 浪漫を求めていた。


 七十になろうと儂の心は冒険を求めている。

 若造の頃から変わらない。

 きっと、死ぬまで。いや、死んでも変わらないだろう。儂はそういう生き方しかできない人間だ。


 だというのに、儂の足は動かない。

 体だけの問題ではないのだ。

 現代社会、発展した科学の力もあり、世界の不明は暴かれ尽くそうとしている。

 細々とした発見はある。

 検証を重ねるのも大切だ。

 しかし、そこに心の奥底を抉る程の、暴力的なまでの感動はなかった。

 若い頃に見えていた未知は既に日常へと落ちてしまい、最早、探し物を探すような状況に陥ろうとしている。


 冒険の当てがない。

 なんと、虚しく、寒々しく、悲しい事か。

 思わず溜息が漏れる。


「はあ……」

「せーんせっ!」


 不意に後ろから抱きしめられた。

 誰かがベンチの裏から両腕を回して、儂の首に抱きついてきたようだ。背中に感じる柔らかな感触と声から相手が女性だとわかる。

 などと冷静に分析できるのにはわけがあった。

 単純に驚く事ではないからだ。

 最初の頃は心臓が止まる心地だったが、今ではすっかり慣れてしまった。

 こんな事をする人間に心当たりはひとつしかない。


「また、君か」

「もう、先生ったら。『だぁれだ?』って聞くまでがお約束なのに」


 そう言いながらも不快ではないのか、彼女は身を離してくれた。

 が、そのままベンチを回り込んできて、隣に腰掛けてくる。やたらと距離が近い。ほとんど密着するような位置。

 長い髪をわざわざ目の前で後ろに流してみせてくる。


「変わらんな。公共の場では見苦しい言動は控えるよう言ったはずだ、芙蓉ふよう君」

美佐枝みさえって呼んでほしいな」

「芙蓉君。いい加減にしないか」


 強く苗字を呼ぶ声に諌めを込めるが、彼女はまるで聞く耳がない。

 それどころか心から嬉しそうに微笑んだ。


 芙蓉美佐枝。

 儂の教え子の一人、だった女性。

 彼女を評すると『容姿端麗』『成績優秀』そして『由緒正しい家柄』などという単語が頻繁に出てくる。

 大学時代、男子から絶大な人気を得ていたという話もよく聞いていた。

 天使だ、女神だなどと称賛する学生も珍しくなかった。

 客観的に見ても、その表現が過剰とは断じられない。

 だが、言葉通りの人間ではないと儂はもとより、多くの者が知っている。


「今回の件も君の手引きなのだろう?」


 世界の裏側から帰国した一件。

 都市開発計画の一端で遺跡が破壊されそうになったのだ。

 青柳君が研究者を代表しして反対運動を進めてくれたのだが、まるで成果を得られなかった。

 どうやら役人か、土建業者か、そのあたりで大きな金が動いていたらしい。

 メールで相談を受けた儂が来ていなければ、あのまま遺跡は潰され、新しいビルが建っていただろう。


 その都市開発を主導していたのが『芙蓉』グループだった。

 芙蓉。芙蓉、美佐枝。まさしく彼女の実家である。

 儂からの率直な糾弾を受けても、芙蓉君は艶然と笑みを深めて、わざとらしく溜息までついてみせるだけ。


「あら。先生ったら酷いわ。わたしは実家の計画に少し意見を挟んだだけなのに」

「ああ。実に絶妙な加減だった。元からあった大型商業施設に、なくても問題はないが、あれば役に立ちそうな多目的ホールの建設を交ぜたのだろう? ちょうど、隣の遺跡を巻き込む形での」


 結果、その意見が計画に加えられた。

 遺跡よりも利益が大きい、と。


 考古学者としてはあるまじき考えだが、儂は遺跡の保全が何よりも優先されるとは考えていない。

 日本は狭く、山の多い国だ。有用な土地を活かすというのは正しい。そのために遺跡が邪魔になる事は往々にしてある事なのだ。

 必要な取捨選択なら受け入れねばならん。

 だが、必要不可欠でもない事情なら止めねばなるまい。


 儂ならそう考えると知って、この娘は動いたのだろう。


 睨んでみるがまるで意味がないどころか、芙蓉君は満面の笑顔を浮かべた。

 食虫花を連想させる美しくも、おぞましい魔性の相貌。


「さすが、先生。わたしの事をわかってくれていて嬉しいわ」

「何度も同じ事をされれば、嫌でもわかるに決まっているよ」


 何も儂が卓越した推理力や調査力を持っているわけではない。

 このような芙蓉グループの働きによって、知名度の低い遺跡が破壊されそうになる案件が、この数年で何度も起きている。

 その計画の裏には必ず、彼女がいた。

 そして、今回もそうだっただけ。


「そんなに儂が憎いのかい?」

「え、憎むなんてどうして?」


 何を言われているかわからないとばかりに、不思議そうに芙蓉君は否定した。

 自らの胸に手を当て、まるで宣誓するように続ける。


「こんなにもわたしは先生を愛しているのに」


 蕩けるような笑みとは、今の彼女のような表情を指すのだろうか。

 それが心の底から溢れた言葉だと嫌でもわからせる程の、暴力的なまでに激しい愛情で満たされていた。


「でも、先生はわたしの愛を受け入れてくれないでしょ? わたしに『特別』な愛はくれないでしょ? 言ってたもんね。わたしは教え子としてしか見れないって。大切にはしてくれたとしても、他の生徒と一緒。絶対に『特別』にはしてもらえないんでしょ? だったら、わたしはプラスじゃなくたっていい。マイナスな気持ちでも、それが『特別』ならそれでいいのよ。先生だけの『特別』な敵になるわ。そうしたら、先生はわたしを『特別』に思ってくれるのだから。ねえ、わたしね。先生に呆れられたいの、憤られたいの、憎まれたいの、恨まれたいの、呪われたいの、蔑まれたいの、疎まれたいの、忌われたいの、見下げ果てられたいの、詰られたいの、貶されたいの! だって、それだけわたしの事を想ってくれるんだから!」


 そのためなら、何度だって先生の大事な物を奪ってあげる。


 段々と高揚していき、声を大きくして叫ぶ芙蓉君。

 人から女神とさえ形容される美女が、このように倒錯した激情を晒すというのは、率直に言って恐ろしい光景だった。


「先生がわたしを愛してくれるなら、なんだってしてあげるわ!」


 見栄えのいい彼女の告白に、公園中の注目が集まるのを感じた。

 美女の過激すぎる告白相手が、儂のような老いぼれとわかって好奇の色が深まるのも、見るまでもなくわかる。

 人だかりができるとまではいかずとも、居合わせた誰もが儂らを見ていた。無遠慮な視線と一緒に、スマートフォンのカメラまで向けられる。


 老い先短い儂はともかく、若者が余計な醜聞に晒されるのはよくなかろう。

 たとえ、自業自得だとしても。道を誤っていても、彼女は儂の教え子なのだから。むしろ、だからこそ、正してやらなければなるまい。


「芙蓉君、声が大きすぎる。少し歩くぞ」

「あら、先生ったら積極的」


 戯言たわごとは聞かなかった事にして、儂は芙蓉君の手を握り、公園から離れた。

 駅前はもちろん、県庁や大学のような人目の多い場所は避けて歩くと、すぐ近くにある川沿いの遊歩道が見つかった。川と言っても海が近いせいか、辺りには濃い潮の香りがした。

 のんきに空を舞う海鳥ばかりで、人の姿は少ない。


 先程の公園からそこまで離れたわけではないし、走ったわけでもないでの野次馬が追いつくのは簡単だろうが、見ず知らずの他人の諍いの見物にわざわざ追いかけてくるような輩もいないだろう。


 儂は正面から芙蓉君の目を見た。

 澄んだ目だ。

 澄み過ぎているとも言える。

 清さも過ぎれば、濁りよりも性質が悪くなるのだろうか。


「儂は教え子と恋愛はしない」


 情に呑まれてはいけない。

 はっきりと言葉にして拒絶した。


「それでもわたしは先生を愛し続けるわ」


 返事はぶれなかった。


 このやり取りも何度目だろうか。

 何が琴線に触れたのか、儂のような老人に愛を歌うのだ。

 学生時代から、卒業しても、ずっと、ずっと。

 愛憎の境界がぼやける程に。

 彼女の『愛している』と言うのが、儂には『憎い』と聞こえる。

 果たして、彼女が語る通りなのか、鬱屈した感情が反転したのか。当人にもわからなくなっているのかもしれない。


 しかし、彼女は儂の教え子だ。

 かわいいとは思うが、生徒としてだ。異性としては意識しようがない。

 教授したのは考古学であり、情緒や常識ではないが、無責任に放り出すわけにはいかないだろう。


「そろそろ若気の至りと認めて、君にふさわしい相手を探したまえ」

「いいえ。わたしを満足させてくれるのはこの世で先生だけよ。先生ほど、強い人は他にいないもの」


 まるで言葉が届いていないのう。

 彼女が高校生の時分に講演会で会ったのが最初で、大学から大学院まで儂の下で研究者として過ごし、卒業後から五年。

 芙蓉君は変わらないな。

 まさか、研究者時代に『君は根気がいいな』と褒めたのが原因ではないと信じたいたいものだが。


 ともあれ、今の主題はそれではない。

 道を正すとしても、ひとつずつ解決していかなくてはなるまい。


「とにかく、動機は理解できんし、受け入れるつもりはないが、儂と関係のないものまで巻き込むのは見逃せんよ」

「ちゃんと、お互いに引き際は用意してるじゃない」


 彼女が口を出すのは枝葉末節の部分ばかり。計画がおじゃんになっても、本命が遅れたりしないように配慮しているのだ。これがまた実に巧みな按配で、まったく、才能の無駄遣いにしか思えん。

 愛に盲目なようでいて、手配は完璧。

 だからこそ、儂は彼女を正せると考えてしまうのだが、それも彼女の計算の内だとしたら恐ろしいのう。


「だから、そもそもその諍いに無関係なものをだな?」

「あら。遺跡で先生と関係ないものなんてないでしょう?」


 それは、そうだが。

 儂=遺跡と言っても過言ではない。

 眉間にしわが寄っている自覚がある。儂が考古学を捨てない限り、この娘の暴走も止まらないのか。


「それでも止めたいなら、わたしを殺してくれてもいいのよ?」


 これが挑発とか、性質タチの悪い冗談なら良かった。

 儂を見つめる芙蓉君の目、これは本気だ。

 遺跡発掘の関係で世話になった部族の青年が、名誉を掛けた決闘を申し込んだ時の目と同じ覚悟の色がある。

 彼女の理論で言えば、殺したいほど想われたい、と言ったところか。


 まったく、古風にも過ぎる。

 無理心中のような価値観ではないか。

 もっと最近の若者らしく、合コンでも参加すればいいのに……いや、いかん。孫のように思える教え子に不埒な輩は近づけさせんぞ。


「殺してなんて言ってはいかんよ」

「はーい。先生が言うならそうするわね」


 儂の言葉に従順に見えて、実際は右から左に聞き流されているのと大差ないの。

 よし。ちょうどよく時間がある。今日はとことん芙蓉君の更生に取り組もうじゃないか。


「芙蓉君。これからお説教の時間だ」

「ええー。うーん、でも、ま、いっか。そうね。先生とお話しするのも楽しいし。今日はそれで満足してあげるわ」


 何故に上から目線か。

 生まれも育ちも姫扱いのせいだろうな。ゆくゆくはその辺りも矯正してやりたいところだが、まずは一歩ずつ。

 人に聞かせられない話題だから、店に入るよりはこの辺りの方がよいか。

 幸いこの遊歩道は川岸の手すりぐらいしかない道で、人通りはほとんどない。

 せめて座れる場所はないかと辺りを見回したところで気づいた。


「む?」


 見覚えのある男がいた。

 肩で息をしながら、こちらに早足で近づいてくる。暴れでもしたのかシャツはしわだらけで、髪もぼさぼさだ。

 あれは、遺跡の取り壊しを推進していた職員の男だったか。さっきは青柳君に食い下がっていた男が、どうしてここにいる?


「見つ、けた、ぞ!」


 その視線は儂ではなく、隣の芙蓉君に向けられている。

 よくない目だ。

 興奮して充血した眼球が揺れていて、焦点が合っているかも怪しい。治安の悪い国のスラムで生きる人たちのそれと似ていた。

 そんなふうに警戒していたおかげだろうか。


「お前ええええっ!」

「きゃっ!?」

「――!」


 間に合った。

 男が無言のまま芙蓉君に飛び掛かってきたのに割り込み、突進の勢いを側面に逃がせた。バランスを崩した相手はあっさりと転倒する。

 しかし、何もかもうまくはいかん。


「ぐっ!」


 掴まれた手を振りほどけず、儂も巻き込まれてしまう。

 そのまま石敷きのタイルの上を揉み合いながら転がった。なんとか上を取って押さえつけたいのだが、抵抗が激しくうまくいかない。

 もう十年若ければ……と悔しがっても仕方あるまい。ここは互角を演じられただけ良しとしよう。

 年の功というか、世界各地を回った経験のあれこれのおかげで拮抗できているが、身体能力の差は歴然だった。

 いや、それだけはないな。

 この男、儂と取っ組み合いをしながらも芙蓉君を睨み続けている。こちらに集中していないおかげで対抗できているのか。


「おまっ! お前のせいで! 俺は破滅だあっ!」


 おいおい。

 開発計画に便乗して何をしていたんだ。

 芙蓉君は計画がおじゃんになっても、企業利益に損失は出ないように配慮しているのだ。

 それなのに破滅するなど、彼独自の何かが混じっているとしか思えん。

 彼女のその辺りの優秀さを儂は信頼しておる。


 はっきり言って自業自得でしかないが、そんな理屈が通じる人間はそもそもこんな凶行には及ばないだろう。

 説得は難しい、か。

 ならば、まずは何を置いても取り押さえなければ芙蓉君が危険だ。


 しかし、弱った。

 このまま時間をかけては儂の方が先に力尽きてしまう。

 助けを呼ぼうにもここは人が少ない。

 芙蓉君も突然襲われたショックで固まってしまっている。できれば逃げてほしいところなのだが、今の儂には指示を出す余裕もない。


 と、男の目が初めて儂に向けられた。

 表情がさらに醜く歪み、儂を睨みつけてきた。


「じじいいいいっ! お前も、お前も、お前もおおおおおっ!!」


 直近に標的を変更か。

 少しでも教え子から危険が遠ざかったのは喜ばしいが、儂は大ピンチだ。

 集中されてしまえば長くは抵抗できそうにない。

 実際、掴まれた腕が悲鳴を上げていた。


 これは、ダメだな。

 心の中で謝ろう――彼に。


 ここからは手荒くするぞ?


「ぬん!」


 頭突き。

 鼻の頭に。

 額の一番硬い場所をぶつける。

 一度、二度、三度、四度、五度。

 鼻血が噴き出しても、暴れられても、構わずに続ける。


「ひいっ! やめっ!」


 すると、儂を掴んでいた両腕で頭を抱えて、背を向けて縮こまる。

 儂は素早く立ち上がり、後ろから股のつけ根を蹴り飛ばした。

 どうやったところで鍛えられない場所への攻撃に、男は悲鳴を上げて転がり回る。

 よし。これでしばらくは痛みで満足に動けないだろう。


 この隙に儂は芙蓉君の肩を掴み、警察に連絡するよう伝えようと……。


「こひゅー! ひー! ひー!」


 いかん。声がうまく出ん。


 心臓が暴れてすぐにオーバーヒートしそう、というか、したかもしれん。

 取っ組み合いをしている間は無視できたが、少し止まったら汗が噴き出して、息をするのも難しくなってしまった。

 これでは芙蓉君の肩に縋りついているようではないか。

 まったく。儂の求めているのは冒険だ。こんな暴力は勘弁してもらいたい。


「せ、先生! しっかりして!」


 芙蓉君。

 心配してくれるのは嬉しいが、まずは逃げてくれ。それから警察に連絡だ。

 そう声に出したいのだが、うまくできない。


「あああああああああああああああああああああああっ!?」


 背後から絶叫が上がった。

 振り返る間もなく背中に衝撃を受け、芙蓉君を巻き込みつつ倒れる。


 タイルに額を打ち付けるが、まるで痛みを感じない。

 それよりも背中が痛い。

 いや、熱い。

 まるで松明でも押し付けられているようだ。

 熱が脈打って、腹の奥を焼かれる心地を味わった。


 見上げれば男が荒い息をしながら儂らを見下ろしている。

 シャツも、顔も、手も真っ赤に染まっていた。

 その手に棒状の何かを持っているが……あれは万年筆だろうか?

 口元をひきつらせているが、笑っているのか、何かをしゃべろうとしているのかもわからん。

 だから、自分で何が起きたのか考える。


 儂の実感。

 男の状況。

 前後のあれこれ。


 つまり、儂は刺されてしまったわけか。


 原因は見積もりの甘さか。

 かなり厳しくしかけたつもりだったが、老いぼれでは満足にダメージを与えられていなかった、と。

 本当に歳は取りたくないものだ。


「ぬう……」


 頭だけは冷静に動いている。

 もしかしたら色々と無理をし過ぎたせいで、頭のネジがおかしくなってしまったのかもしれない。

 ……いかんな。

 あれだけ熱いと感じていたのに、急激に寒くなってきたぞ。


「せ、先生! いや! いやあっ!!」


 芙蓉君が耳元で叫んでいるが、その声もどこか遠く感じる。

 背中のどこを刺されたかもうまく感じ取れないが、体の奥からなくなってはいけない何かが流れ出していく感覚に寒気を覚えた。


 いよいよ儂も『その時』が来たという事か。

 それで覚悟を決められた。

 今はガタガタと震えている男だが、儂を刺した衝撃から立ち直ればすぐに芙蓉君を襲うだろう。


 やらせるものかよ。


 ああ。そうだ。儂のかわいい教え子を傷つけさせてなるものか。

 この老いぼれが体を張って守らなくては、長く生きた意味がない。

 たとえ問題児であろうと、儂の教え子なのだから。

 そのためならなんでもしようではないか。


「先生!? ダメ! 動いちゃダメ!」


 芙蓉君が止めるが、聞いてやれん。

 そうだな。

 声を出すのも辛いのだが、せめて一言ぐらいは残さねばなるまい。


「生きろ」


 すまんの。これが精一杯のようだ。


 そんな情けない有様だというのに、自分でも驚いてしまう程、儂はスムーズに立ち上がる事ができた。

 火事場の馬鹿力、というよりは消える前の蝋燭の輝き――最期の輝きだろう。

 流れ出ていく何かの勢いが増すが、この数秒だけ動いてくれればそれでいい。


 男へと突進する。

 男が万年筆を突き出してくるのも見ない。

 腹部に衝撃を受けても、構わずに前進を続ける。

 すぐに儂と男は川岸の手すりにぶつかり、それでも儂は身を前へと押し出した。

 儂と男の上半身が手すりを乗り越えて、そのまま地面を蹴ればあっさりと儂らは柵の向こう側へと落ちていく。


 僅かな滞空を経て、水面へと落下。

 海の近くとはいえ、そこそこ深さのある川だ。

 男が暴れるが、儂はしがみついて放さなかった。

 とはいえ、本当に限界が来てしまったらしい。すぐに手から力が抜けてしまうが、その時には既に水面とは距離ができていた。

 パニックと、着衣と、老人の抵抗。

 男が泳げて、この状況から生還したとしても最早、芙蓉君を襲う余裕はあるまい。


 芙蓉君が追いかけて来やしないか心配だが、儂の言う事を守る彼女ならしっかり生きてくれるだろう。

 彼女を惑わせる儂という存在がいなくなれば、今までのような無法な真似もしないはずだ。


 喉の奥から最後の空気が零れていった。

 もう儂の中は空っぽで何も残っていない。

 溺れるよりも先に、すぐに意識も消えてしまうだろう。


 七十年の人生に想いを馳せ、かわいい教え子たちの幸せを願い、そして、最後に胸に去来したのはひとつだけ。


 もっと、冒険がしたかったのう。


 そして、儂は暗い水の底へと落ちていった。

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