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いよいよ宏に試合の順番が回ってきた。
「白、キタノコウヘイ君!赤、ヌタヒロシ君!」
そう場内でアナウンスされると、宏は試合場の中央へ行き、相手のキタノ君と正対した。キタノ君はずんぐりむっくりした体型で、宏より頭一つ背が低かったが、体重は宏以上にありそうに見えた。宏は審判と、試合相手であるキタノ君に礼をすると、一歩下がって相手と距離を置き、ファイティング・ポーズをとった。
「はじめ!」
審判の掛け声とともに、キタノ君が勢いよく飛び出し、宏に近づき、ワンツー・パンチを放った。宏は渡辺に言われた通り、左に回りながらそれを避けた。キタノ君はそのままの勢いで宏を追いかけ、次々とパンチを打ってくる。宏はいつも通りのへっぴり腰で、左斜め前へ、左斜め前へと動き、なんとかそれを避け続けた。
しかし、すぐに捕まる時がやってきた。宏が自分の右側へ、右側へと動いてくることに気づいたキタノ君は、宏の動きに合わせて、思い切り右の回し蹴りを放ったのである。
ぼんっ。
鈍い音がして、蹴りは宏のわき腹にめり込んだ。
「やめっ!白、1ポイント!」
有効打だったので審判が一旦試合を止め、キタノ君に1点が入った(宏が参加している組手試合はポイント制で、有効打を放った選手にポイントが与えられていき、時間切れになるか、5点差がつくと試合終了となる)。そうしてすぐ選手2人は試合場の中央にまた正対させられ、試合が再開された。
「はじめ!」
試合が再開されると、またもキタノ君は前に出て、パンチを雨のように出してきた。宏はそれをすんでのところで左に回り、避けていく。そこを、先ほどと同様に、キタノ君の右回し蹴りが待っていた。
ばんっ。
小気味いい音がしたが、攻撃をするとポイントが与えられる対象になる胴から、蹴りの当たりどころが外れていたため、やめ、はかからなかった。しかし、思い切り蹴りを受けて、宏の左へ左へ回る動きが止まった。そこへパンチが、宏の顔面へ2発、3発、4発と注がれた。
「やめ!白、1ポイント。・・・はじめ!」
渡辺が恐れていたことが起こってしまった。一方的に、ボコボコに殴られること。再び試合が始まると、宏は殴られた恐怖からか、もう左へ回ろうとはしなかった。まっすぐ、後ろに下がってしまったのである。宏が何も攻撃をしてこないことに気づいたキタノ君はますます調子に乗り、勢いよく前に出て、今度はあっと言う間に宏を捕まえた。何発も顔を殴り、おまけに回し蹴りを顔に放った。またもや審判の「やめ」の声がかかった。
蹴りを受けた宏は相手から顔を背け、床へ倒れこんだ。そうしてそのまま、すぐには立ち上がろうとしなかった。その面の奥の顔は、恐怖と悔しさに引きつり、赤くなってーー泣いていた。
宏は審判に促されると、立ち上がり、健気に試合場の中央に戻った。途中、右手で涙を拭おうとしたが、面には透明のプラスチックのフェイスガードがされていたため、手は顔に届かなかった。その姿を見た観客から、失笑が漏れた。
教え子が一方的に殴られ、泣いているところを、渡辺は声もなく見つめていた。隣では宏の母親が、顔を真っ青にして試合を眺め、小さな声で「がんばれ。・・・それっ」と言っている。渡辺が思うことはーーできるならば今すぐにでも宏と体を入れ替え、代わりに闘いたい、ということだった。
「はじめ!」
また試合が始まったが、同じような展開が待つばかりだった。キタノ君は勢いづいて前に出てきて、宏は後ろに下がってその攻撃を浴びてしまい、散々に打たれた。
やがてかかる「やめ!白、1ポイント」の声。ブレイクした時に見える宏の目は、涙で真っ赤に腫れている。ーーその目を見た時だった。渡辺の心の内の何かが、ばりばりと音を立てて崩れ落ち、代わりにどす黒い怒りが湧き上がり、一瞬のうちに全身を包んでしまった。気づいたら、渡辺は自分でも思いもしなかったことを、宏に向かって叫んでいた。
「宏!殴れ!殴れ!お前が殴られているのを見ると、俺がムカつくんだ。だから殴れ!」
自分でも何をめちゃくちゃなことを言っているんだろうと、渡辺は言ってしまってから思った。周りの親たちが引いているのが、よくわかった。宏の母親も、「えっ」という顔をして、渡辺の方を振り向いた。しかし、言ってしまった以上はもう仕方がない。わけもわからないまま、再び、宏に声をかけた。
「殴れ!殴っていいぞ!俺が許す!」
宏は、彼の先生の方をちら、と振り返り、怒鳴って上気しているその顔を見た。そうして、またキタノ君と正対するため、試合場の中央に向き直り、渡辺には背を向けた。試合再開の声がかかる。
「はじめ!」
するとーー渡辺の声が、どう彼の心に響いたのか、わからないがーー、宏はキタノ君目がけてまっすぐに走って行き、右腕を、背中の方からぐるっと横回しに回して放つ、めちゃくちゃな殴り方で、思いっきり殴ったのである。キタノ君は完全に油断していて、したたかにそのパンチを面の頬の部分に受けた。
「やめ!赤、1ポイント」
そう審判の声がかかり、ドッと湧いたのは、渡辺と宏の母親である。
「よしっ!もう一回!もう一回!」
と渡辺が叫べば、
「いけっ!ひろちゃん!やれっ」
と母親が続く。その後も2人は、試合が終わるまで、周りの観客に大いにドン引きされながら、やっちまえ、食らわしてやれ、という品のない大応援を続けたのである。
しかし、宏の反撃はそれまでだった。キタノ君の油断はその一発を許すまでしか続かず、その後はそれまで通りパンチの雨とときおり放たれる鋭い蹴りを宏に浴びせ、やがて5点差をつけて試合を終わらせた。宏は勢いを取り戻した相手の猛攻に改めて心を折られてしまったのか、再び逃げ腰一辺倒になり、キタノ君の思い通りの攻撃を許すこととなったのだった。




