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宏が組手の相手を殴らない理由を聞いてからは、渡辺は宏にどう組手稽古をさせればいいか、よくわからないまま日にちが経った。もう稽古の最中に声を荒らげて宏に発破をかけることもなかったし、稽古後、相手に反撃するように説教をすることも無くなった。自分なりに正しい道理を持ち、殴られながらも必死に殴り返すことをこらえている宏に対して、何をどう教えればいいのか、わからなかったのである。そうして結局、宏は稽古中一度も相手に手を出さないまま、組手大会本番を迎えることになった。
大会は、板橋区にあるK総合体育館というところで開かれた。だだっ広い床の四方に、2階から見下ろせる観客席がついている、立派な会場である。そこに、全国からやってきた、道着を着込んだ数百人の子ども達と、その姿をハンディカムで追う親たちが集まった。会場には4ヶ所、ビニールテープを真四角に貼って作られた、7メートル四方の試合場が設置された。そうしてその周りに見学のため親たちが人垣を作るなか、そこで朝から夕方までひっきりなしに子供どうしの試合が行われるのだった。
試合は年齢の小さい順に行われるので、小学生低学年の部に出る宏には比較的早く試合の順番が回ってくる。宏はグローブのような白い拳サポーターと、やはり白い胴、レガースを着け、宇宙飛行士のヘルメットに似た面を被り、まるでガンダムのように着ぶくれした。そうして、試合場の脇にちょこんと正座して、自分の順番を待つのだった。そんな時にも宏に緊張感はまるで無く、
「痛て、いてて・・・足がしびれちゃった」
などとぶつぶつ言いながら、しきりに脚を組み替えている。渡辺はその試合場の周りに出来た人垣の中に混じりこんで、その後ろ姿を見ながら、苛立ち、心の中で宏を罵った。
(これからお前は殴られるんだぞ!この大勢の前で!公開処刑だ。わかってるのか!それでも練習の時と同じく、闘わないつもりか?)
その渡辺の隣では、宏の母親が、宏の妹を抱きかかえながら、自分の息子の姿をじっと見つめていた。そうしてときどき渡辺に向かって、
「出番まで、あと、4試合ですね、先生」
などととのんきに話かけてくる。渡辺はいてもたってもいられなくなり、
「宏くん!宏くん!」
宏を呼びつけた。
「試合が始まったら・・・左に回ってください。相手が近づいてきても、後ろには下がらないこと。左に、左に回ってください。いいですか?」
左へ回れ!それが渡辺ができる、唯一のアドバイスなのだった。右利きの選手が時計回りに回るように左斜め前に歩を進めると、相手との距離を一定に保つことができ、うまくいけばいつまでも攻撃を回避できるのである。これが反対に右側に逃げたり、まっすぐ後ろにに下がってしまうと、距離を詰められてやがて攻撃を受けてしまう。
渡辺はこの場になっても、宏に闘え!殴れ!とは言えないのだった。教えられることはただ一つ、相手から上手に逃げる、その逃げ方だった。
宏は珍しくこの若く気難しい(と宏には映って見えていた)先生から受けた技術的なアドバイスを、どんな気持ちで受けたのか、よくわからない表情のまま、ぽけっとして聴いた。そうして、
「いいですか?」
と渡辺に念を押されると、返事だけは元気良く、
「はあい」
と答え、また試合場の脇に戻り、
「よいしょ!」
と言いながらそこへ座るのだった。




