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宏の組手稽古の指導に音をあげた渡辺は、秋の深まったある日、とうとう宏の母親に相談をした。
その日、組手稽古が終わって練習生を解散させると、渡辺は宏を迎えに来ていた宏の母親のそばへ近づいた。そうして、宏の組手稽古について話をした。
「宏くんの組手についてですが、見ての通り(宏の母親も、宏を迎えに来た際に何回か組手稽古を見学していたのだった)まるで闘ってくれません・・・」
母親はキュッと眉根を寄せた。組手大会出場の申し入れをしてきた時と同じく、宏の妹を抱きかかえていた。そばでは宏がNintendoDSで遊んでいる。
「そうですか・・・」
「この状況で、このまま大会に出るということになると、ちょっと」
まずいから、大会出場は諦めませんか、というところまで言いたかったのだが、それは母親への遠慮から口には出さず、飲み込んだ。
「あ、それなら私、わかるかも知れません」
「え?」
「この子、学校でいじめられてて・・・親がいうのも何なんですけど、このキャラクターでしょう?このあいだも学校からの帰り道、ランドセルをしょっているところを後ろから蹴られて・・・それはいいんですけど、その勢いでつんのめって、もう少しで頭を電柱にぶつけるところだったらしいんです」
「はあ」
「やり返しなさいって言ってるんですけど、そう言うと『学校の先生が、人を叩くのはいけませんって言ってたから、叩くのはいけないんだよ。だから叩かれたからって叩き返しちゃいけないんだよ』って言うんです。組手の時も、それを守ってるつもりなんだと思います。親としては、子供が一方的にやられるのが見てられないから、やり返して欲しいんですが・・・空手だって、そのために習わせているんです。だから私としては、なんとか組手大会には出て欲しいと思っています。今のところ、全然だめなようですけど」
「・・・そうですか」
その日、渡辺は一人暮らしをしているアパートに帰り、シャワーを浴びた。浴びながら、宏のことを考えた。
宏の母親の話に、渡辺は少なからずショックを受けていた。何も考えず、ただ恐怖から組手稽古で手を出さないのだと思われていた宏が、実は「人を殴るのはよくないから殴らない」という、高等な哲学を持って、それを実践していたのである。
昔、須藤元気という格闘家が、あるテレビ番組に出てこんなことを言ったことがある。
「本当に強い人には、格闘技は必要ないと思います。相手に殴られて、嫌な気持ちがしているのに何もできない人、これは弱い人ですね。僕はいま、格闘技をしているから、殴られたら殴り返します。だから、何もできない人よりは強いです。でも、殴られても、そんなことは気にせずに、相手にせず、殴り返さないでいる人のほうが、もっと強いんです。そういう人には格闘技は必要ないですよね。僕はまだ格闘技を必要としています。だから、僕はまだ弱いんです」
渡辺はこの須藤元気の哲学に、全く共感していた。渡辺も、自分の心の弱さを鍛え直すために格闘技をしているし、その究極の終着点は「相手を殴らないこと」だと考えている。だが、この日、宏の考えを母親から聞いて、宏は須藤元気の言うところの「格闘技を必要としない人」ではないのかと、渡辺には思えたのだった。もしそうであるとしたら、「人を殴るのはよくないから、殴らない」という正しい心を持ってそれを実践し、格闘技が必要ない宏に、今まで殴ることを強制し、組手大会までこれからも強制していく自分は、全く何をしているんだろう・・・。渡辺はシャワーを浴びながらそんなことを次から次へと思うのだっった。
それに、息子がいじめられているのをどうにかしたい、という母親の思いも、今となってはよくわかり、見捨てられないのだった。宏の気持ちを考えると、組手大会への出場と、それに伴う練習は、やめさせるべきに思えた。しかし実際に渡辺には、母親の気持ちを見捨ててそう説得するだけの力も度胸も、ないのだった・・・。




