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その宏が組手の試合に出るというので、渡辺は焦った。組手試合というのは、防具を付けて、実際に殴り合い、蹴り合いをする試合のことである。その年の暮れに子供向けの全国大会があるので、それに出るとのことだった。しかし、練習に一向に身を入れず、まるで空手が上手にならない宏がそんなものに出たら、結果は火を見るより明らかだった。ボコボコに殴られて負けるに決まっている。
渡辺は慌てて、宏を大会に出すために、夏のある日の練習後に申し出をしてきた母親をいさめた。
「組手試合への出場は、強制ではありません。無理をして出る必要はないと思いますよ」
「ええ、でも・・・空手をしている以上は出したいんです」
若き指導員の提案は、にべにもなく断られた。宏の母親は、まだ30半ばといったところだった。小柄で、すらりと痩せていて、白いTシャツに小ぶりだが形の良い胸がツンと突き出ている。そのTシャツに脛まで伸びたフリル付きの青いスカートが、よく合っていた。透き通るように肌が白く、メガネをかけた小さな丸顔はよく整って、肩にかからないくらいのショートヘアーにすっぽりと包まれている。宏と似ているところと言えば色白なこととメガネをかけていることくらいで、なぜこの親から宏が生まれたのかと不思議に思ってしまうくらい、清楚で美人の母親だった。やはりメガネをかけた、宏の妹になる小さな女の子を抱きかかえている。
「そうですか、わかりました。でも、無理することはないと思いますよ」
そう口では言いながら、渡辺は心の中で舌打ちをした。
(そもそも空手を好きでもない子供に空手を習わせること自体反対なのに、この上本人が望んでいないのに組手試合をさせるとはどういうことだろう。さすがに世田谷のいいところに住んでいる教育ママは、やることが違いますね。)
若輩者の弱さで表面上は折れたものの、本音ではちっとも納得しておらず、内心そんな悪態をついていたのである。
そこで渡辺は、空手道場の館長に、日曜日でなく別の練習時に会ったとき(その日は渡辺は指導員としてでなく練習生として稽古を受ける立場にあった)、このことを相談してみた。
「布田が年末の組手大会に出ようとしている件ですが」
「うん?」
熊のような見た目をした、40過ぎの館長は、いつもの通り口数少なく、頬ひげをわずかに動かしただけで、渡辺からの相談を受けた。
「布田はまだ青帯ですし、基本がまだできていません。出るにはまだ早いように思えますが」
「布田は青帯になってもう半年になる。本人が出ると言ってるなら、チャレンジすればいいだろう」
「ですが」
「うん?」
館長はまた頬ひげを動かして応えた。しかし、このわずかなリアクションに、はっきりとした否定の意味合いが含まれていることが、2年あまりの付き合いがある渡辺にはわかった。
「いえ、なんでもありません」
「うん」
館長に宏の組手試合出場中止を断られた渡辺は、仕方なく宏に特訓をつけることにした。大会は12月に開催される予定だったから、それまでには約4ヶ月の余裕がある。渡辺は9月に入ると早速、2週間に一度、全体練習の後30分間、組手の稽古の時間を設けることにした。
全体練習後に居残りで稽古をするというのは、宏にとっては初めての経験である。宏はいかにも嫌そうな顔をしながら、組手をするためにグローブやすね当てをのろのろと着けて準備をするのだった。
渡辺は宏にごく基本的な構えだけを教えると、早々に組手稽古を始めさせた。本番まで3ヶ月以上猶予があると言っても、組手稽古ができる時間は限られている。細かな闘い方の指導などをするより、より実戦を多く積んだほうがいいはず、後は子供の対応力に任せよう、との考えだった。
照明が煌煌と光る体育館に、組手大会に参加する6人の生徒たちが2人一組になって散らばった。その中の1人が、宏である。もう時刻は夜7時を回って、体育館の外は暗く、秋の虫がうるさく鳴いている。宏は今すぐにも帰りたそうに、きょろきょろと周りをせわしなく見回していた。
「はじめ!」
渡辺の掛け声と共に、生徒たち6人がいっせいに動き出し、闘い始めた。渡辺の注目は、はじめから宏1人に注がれている。宏はーーこんな生徒は渡辺も初めて見たというくらいーーひどい闘いっぷりを見せた。闘わないのである。先ほど教えた基本の構えはどこへやら、へっぴり腰にようやく両手だけ顔の前に上げたひどいファイティング・ポーズで、ひたすら相手の攻撃から逃げ回るのだった。
「宏!闘え、闘え!」
見ていられず、思わず渡辺は声を荒らげた。しかし宏は相変わらず、イカやタコのような軟体動物が海底を這うようにぐにゃぐにゃと後退して相手の攻撃を避けるばかりで、ときどき攻撃を受けては、また後ろに下がるのだった。
あっという間に規定の3分間が過ぎ、組手稽古は休止となった。その後、子供たちは別の相手と組んでまた3分闘い、終わればまた別の相手と組んで・・・といった流れで稽古は進んでいく。だが宏はいくら相手を変えても、例え相手が女子であっても、ひとつも手も足も出さなかったのである。
組手稽古が終わると、渡辺は宏を呼びつけた。宏はまた、
「あーあ、汗かいちゃったよ。ひどいなあ、これは」
と言いながら、タオルで丁寧に汗を拭っているところだった。呼ばれた宏が不思議そうな顔をしながら渡辺のそばにやってくると、渡辺はしゃがみ込み、宏の顔の前に手の平を開いて、立てて差し出した。
「宏くん、ここにパンチしてみてください」
宏は右手を突き出して渡辺の手の平を打った。
ぺち。
「そうです。次は左」
ぺち。
「蹴りは?」
ぺちん。
「そうそう、そうです!これを、組手稽古の時も相手に出すんです。なんで出せないんですか?」
渡辺は普段、子供たちに指導する際は敬語を使わない。それを宏にだけ使う理由は、心のどこかで宏を軽蔑しきっているためだった。人は何も期待しない相手に何かを教えなければならない時、このようなやんわりとした敬語が口から出てくるようである。宏は沈黙して、度の強いメガネの奥からきょとんとした眼差しを渡辺に向けている。
「なんでですか・・・?」
もう一度問うと、ようやく渡辺に遠回しに非難されていることに気づいた宏は、沈黙の先からしゃくり声をふるい出させ、メガネの奥の瞳からは涙を溢れさせた。
「うええええ」
「ああ、わかりましたわかりました」
この日の稽古は、宏が泣いて、お終いとなった。
それからも、渡辺は2週間に一度組手稽古を続け、宏はそれに休まず参加をした。しかし宏は相変わらず相手から逃げ回るばかりだった。そうして練習後渡辺に怒られる、というルーティンが続いた。
「宏くん、手を出すんですよ。怖いのはわかります。でも、手を出さないと何も始まらないんです」
「ほら、構えて・・・ここにパンチ!」
ぺち。
「そう!もう一回!」
ぺち。
「そう、それを出すんですよ」
渡辺はいろいろとなだめ、すかしたが、結局宏が組手稽古の時に手を出すことはなかった。いくら渡辺が説得するために稽古後語りかけようが、無表情を持って応えるだけで、まるで反応しないのだった。




