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きっと、ずっと、そこにいた

作者: いずもん

 ベンチと看板しかない、いかにも田舎っぽさを醸し出している駅のホームにて。

 私は、腰の高さ位まであるキャリーバックを傍らに置いて、ベンチに座っていた。

 二十分程前から待っているというのにまだ電車が来ないのは、さすが田舎だと思う。

 こんな事なら事前に時間を調べておけば良かったと後悔しながら、いつになるか分からない電車の到着を待ち続ける。

 ふと、周囲を見渡せば。

 彼方まで田んぼしかない風景が見渡せて、暑い陽射しの中で農作業をしている人達の姿が見える。

 そして上を見上げれば、どこまでも続く青い空とわずかな雲。

 夏もそろそろ終わりだというのに、相変わらずの晴天だ。

 けれど、目を瞑り耳を済ませれば、聞こえる蝉の音は夏の終わりに比例して少なくなっている。

 代わりにというように、鳶の鳴き声が響き渡っていた。

 まさに田舎と言っていいようなのどかさ。

 私の生まれ育った場所。

 私の大好きな場所。

 そんな故郷をもうすぐ離れるのだと思うと、なんだか込み上げて来るものがあった。

 ここは、たくさんの事があった場所だから。

 しかし、しんみりと感傷に浸っている私を邪魔する声が、唐突にホームへと響き渡った。

「よし、間に合った! おーい、見送りに来たぞー」

 それは、聞き慣れた男の声だった。

 呑気な声は他でもない私に掛けられたようだから、仕方なく振り向く。

 そこには階段からホームに上ってくる、茶髪の男の姿があった。

 白のタンクトップからはみ出した皮膚が黒く日焼けした体格の良い彼は、ゆっくりとした足取りで私の下へと近付いて来る。

「見送りなんて要らないよ。今生の別れって訳じゃ無いんだし」

「でも、しばらく東京なんだろ? だったら、激励として見送りしないとな!」

 さも当然であるかのように満面の笑みになる彼は、どこか誇らしげだ。

 昔から変わらない、なんというか上から目線。

 けれど、この明るさは嫌いじゃない。

「にしても、お前ももう社会人かぁ。早いもんだな、俺達が出会ってから……えと、何年だっけ?」

「二年だよ、二年。大切な事なんだから、忘れないでよ」

「ははは、俺は忘れっぽいもんだからな! でも、年数は忘れても思い出は忘れてねぇぞ?」

 どうだか、と微笑混じりに返して、視線を田んぼの彼方へと移す。

 思えば、二年前に彼らに出会っていなかったら、私はどうなっていたんだろう。

 今とは全然違う自分が居た、二年前。

 私はそれを思い出すように、瞳を閉じる。



 ◆◆◆◆◆



 長い夢を見ていた。

 それは起きていても寝ていても同じ景色で。

 真っ暗な、色の無い無機質な世界が広がっている。

 こんなにも、関心の持てない世界は、私にとって意味のあるものなのだろうか。

 自問は、ただ内心だけで木霊し、返答などある筈も無い。

 続くのは、干渉する気の無い日々。

 だったら自分から閉ざしてしまえ。

 深く深く、心の奥底に篭り、殻を作る。

 私はそうやって生きてきた。

 けれどある日、その殻をノックして来た人がいた。

 それはいつも通り、喧騒がそこら中から聞こえる教室で机に突っ伏して寝ていた昼休みの時間。

 クラスメイトは私を避けるようにグループを作っているというのに。

 シューズが鳴らす足音は、不意に私の前で止まった。

「もしもーし」

 それは、程よい低音が奏でる男声。

 どうやら男子生徒が興味本位で近付いて来たらしい。

 今までに似たような事が何度かあったけど、全員無視してやった。

「ずっとその体勢、辛くない? あ、お腹空いたでしょ?」

 そうすれば、男子生徒達は興味を無くし、悪態をつきながら離れていく。

 普通なら失礼な態度だけど、それでいい。

 私はあなた達に興味なんて無い。

 だから、私に構うだけ時間の無駄なんだ。

「起きてる? 返事くらい欲しいなー」

 ……それにしても、さっきからしつこい男。

 起きている素振りは一つもしていないというのに、返事なんかする訳無いのに。

 おまけに肩を掴んで揺すってくるし。

 っというか、こいつの友達は止めなかったんだろうか。

 普通は止める。うん、普通なら。

「ほーら、ほーら、腹減ってるだろ? 今なら良いものあげるよー」

 次は頭を何かで叩かれた。

 柔らかく、それでいてビニールの音が響くそれは、なんだろう。

 もしかして、言動からして食べ物だろうか。

 ……どれだけ、失礼なの。

 どうやら、私が起きるまで止めないようだ。

 全く持って、面倒臭い。

 怪訝な顔でもすれば、もう構わなくなってくれるだろうか。

 思い、叩かれ続けながらも突っ伏していた顔を上げる。

 そこには、光があった。

 いや、正確に言えば笑顔だ。

 今まで見てきた人の、哀れみや同情、蔑みの表情とは全く違う。

 眩し過ぎる程の笑顔。

 私は怪訝な表情をしているというのに、あろうことかこの茶髪の男子生徒はその笑顔を崩す事無く、今度は私の額に一撃を入れて来た。

 かさりと音を立てたそれを目視すると、やっぱり食べ物だった。

 袋詰めされたサンドイッチ二個入り。

 でも、私にとってそれはどうでもよくて。

 気付けばずっと、彼の笑顔を見続けていた。

「お、やっと起きた。待ってたよー。君、お昼食べてないでしょ? 良かったら一緒に食べない?」

 言いながら差し出されたのは、私を叩くのに使っていたサンドイッチだ。

 そのサンドイッチを凝視していると、彼は笑顔のまま小首を傾げて、問い掛ける。

「これは、君のだよ。要らない?」

 即答として、首を振る。

 一応、手でお腹を摩ってみれば、空いている様子は無かった。

 食事は毎日、家でご飯とお味噌汁を少量、二食分しかとっていない私にとって、それは余計な摂取となる。

 一方で、残念そうにサンドイッチを私の机に置いた彼は、おもむろにビニールを剥がし始めた。

 ここは私の机だというのに、そして私は昼食を取らないというのに、さも友達であるかのようにその場でサンドイッチを取り出す男子生徒の姿に、正直驚く。

 それが表情に出ていたのか、手に取ったサンドイッチを口に銜えようとして一時停止した彼は、再度小首を傾げる。

「ん? やっぱり欲しい?」

 全力で首を振った。

 すると彼は、そうかい、とだけ言い、サンドイッチを食べ始めた。

 ……それにしても。

 どうして私は、この男子生徒を追い返そうとしないのだろう。

 普段なら、聞かれる事全てを無視しているというのに。

 気付けば先程から、彼の問い掛けに首を振るだけだとしても、答えている。

 自分でも分からない事だから、仕方ない。

 けれど、ふと気付けば。

 私は彼の笑顔をずっと見ていた。

 色の無いこの世界で、唯一着色された笑顔。

 眩しいけれど、逸らす事無くずっと見ている。

 すると、その視線に気付いたのか、彼はハッとした表情になり、残ったサンドイッチを急いで口に放り込んだ。

 頬が膨らむ程、懸命に咀嚼する姿は、まるでハムスターのよう。

 暫く咀嚼が続き、飲み込む動作を大袈裟にすると、ようやく口を開く。

「なんで見てるのかと思ったら、名前教えてなかったね! 俺の名前は錦 智紀(にしき ともき)。よろしく!」

 言葉と共に、右手を差し出して来た。

 それは、握手という事だろうか。

 まだ会ったばかりで、それどころか会話もしていないというのに、どういう事だろう。

 何がどうなってるのか分からず、握手を返すべき右手が動かない。

 けれど、錦の右手はずっと差し出されたままで、一歩も引こうとしていなかった。

「えと……君の名前は?」

 なかなか踏み出せない私に対し、錦は助け舟を寄越してくれた。

 余計なお世話だと思いつつも、その優しさに感謝し、ようやく口を開く。

 上手く声が出せるかなと、不安に思いながら。

「……かおり。西園寺 香織(さいおんじ かおり)

 なんとか搾り出せた言葉は、小さい声ながらも、放つ事が出来た。

 聞こえたか心配になったが、錦が納得したように頷く姿を見て、ホッとする。

「それじゃ、香織。これからよろしく!」

 何故か、これからよろしくという形になっていた。

 でも。

 彼の笑顔に、着色されたそれに、興味がわいている自分に、気付いた。



 ◇◇◇◇◇



 私の部屋には、等身大の鏡がある。

 昔からこの家にあって、娘に当たる子供に受け継がれているような物。

 カーテンを開け、夏の夕日が差し込むこの部屋で、鏡には浴衣姿の私が映っていた。

 赤色を基礎とし、黄色や白色で鮮やかに彩られた花が描かれている。

 これは、私のお気に入りだ。

 だからこそ、着るのは一年に一回程度。

 その唯一の一回が、今日だ。

 一人で着付けしたのは初めてだが、自分で見る限りは上手く出来ている、筈。

 ……変じゃ、ないかな?

 くるりと半回転して、背中も見てみる。

 少し大きめの帯は、目を凝らせば傾いているかもしれないが、上出来だ。

 再度、鏡に正面で向き直し、映る自分に頷く。

 ちらりと、壁に掛けてある時計を見れば、もう時刻は五時。

 この村の神社では、お祭りが活発になっている時間だ。

 約束の時間も、もうすぐ。

 心が躍る。

 だって今日は、大好きな彼とお祭りに行く日だからだ。

 二度目のお祭りだけど、前回は屋台を全部回れなかったから、行けなかった所を優先する予定。

 計画はばっちりだ。

 鏡の横に置いてある、小さな巾着を手に取って、意気揚々と部屋を後にする。

 急な階段を、転ばないように気をつけながら早足で降りて。

 玄関に用意しておいた丸っこくて可愛い下駄を履いて。

 夕日の色に染まった玄関の戸を開けようとしたところで。

「香織? こんな時間に、どこに行くの?」

 母親の声に、呼び止められた。

 どこか心配そうな声色だった事に疑問を抱きながらも、軽快なステップで振り向く。

 そこには、壁に手をついて、眉尻を下げた母親の姿があった。

 なんだか寂しそうな表情と赤くなった目は、真っ直ぐに私を見ていて。

「どこって、お祭りに行くんだよ。今日は、特別な日なんだから!」

 代わりにとでも言うように、返事と笑みを返した私は、母親の目にどう映っていただろう。

 距離がある所為で瞳は見えないけれど、きっとちゃんと笑えてた気がする。

 その証拠に、母親の表情は一瞬、驚いたように見えて。

 次の瞬間には、弱々しい笑みを見せてくれた。

「そう……。いってらっしゃい、香織」

 嬉しそうな母親の声は、私をちゃんと見送ってくれている。

 だったら私も、答えなきゃ。

 先程よりも明るい、満面の笑みを浮かべて、

「行ってきます、お母さん!」

 言うのと同時、下駄が地面を打つ快音を鳴らしながら、引き戸を開けて玄関を出て行く。

 ……そういえば、久々にお母さんって言った気がするなぁ。

 なんて、歩き慣れた道を行きながら思う。

 自然と、含み笑いが込み上げてきた。



 ◆◆◆◆◆



 錦 智紀と名乗った男子生徒は、あれから何度も私に声を掛けて来るようになった。

 休み時間も、昼休みも、移動授業の時も、帰宅する時も。

 私のどこが気に入ったんだろう、と思いたくなるくらい。

 けど、一度それを聞いてみた時は、

「あ、やっと喋ってくれた! 頷きばかりじゃ、寂しいもんだよ? もっと喋ろーうっ」

 なんて言って喋り出し、結局理由は聞けないままだった。

 本当に、良く分からない人だ。

 ……私自身も、良く分からない奴だけど。

 何だかんだ言っても、彼を突き放す事はせず。

 少し鬱陶しく思いながらも、隣に居る事が常になりつつある。

 こんな無口な私なのに。

 こんな暗い私なのに。

 どうして錦君は、ついてくるのだろうか。

 そんな疑問がもんもんと心に積もる日々が続いた。

 だけど、数日後。

 良く晴れた休日、土曜日。

 朝食を取ってお腹一杯になり、和室の縁側でのんびり日向ぼっこをしていると、玄関の方から甲高いブレーキ音が響いた。

 来客なんて珍しい。

 親の知り合いなら、大抵車で来ている。

 私には元より友達は居ない為、誰が来たのかは検討もつかなかった。

 などと思っている内に、玄関の引き戸が開く音が聞こえて、

「香織ちゃん居ますかー?」

 それは、間違い無く錦君の声だった。

 事前に来るなんて事は当然、聞いていない。

 本当に、急に来たのだ。

 だからこそ、心から慌てている。

 ……人前に出るような服装じゃない!

 着替えようにも、自室は二階。

 しかも階段は玄関の目の前だから、今の服装が必ず見られてしまう。

 ピンク一色のパジャマ姿。

 どう考えても、見られて嬉しい姿じゃないというか見られてたまるか。

 けれど、どうすれば見られずに二階に上がれるだろう。

 いや、別に錦君を意識しているからとかそんなんじゃなくて、ただ単に人前に出れる姿じゃないってだけで。

 そんな私の葛藤を他所に、玄関で錦君に応対した母親が、様子を見にやって来た。

 凄くニヤニヤしてる……。

「……な、何?」

「何って、格好良い男の子が、迎えに来てるわよー。彼氏作ったのなら、紹介してくれたっていいじゃない」

「ち、ちが! あの人は、えと……」

 えと。

 どういう人だって、言えばいいんだろう……?

 彼氏では絶対無い。

 だとしたら?

「と、友達! 友達だから!」

「はいはい、友達ね。そのお友達を待たせちゃいけないわよー」

 言い終わる前に部屋を出て行った母親は、きっと茶化したかったんだろう。

 けど、私にとっては必死になる程、恥ずかしい事だった。

 声を荒げ興奮した為に、顔が赤くなって無いか心配しつつ、意を決して部屋を出る。

 出来るだけ相手に見られないよう、早足で階段まで向かうと、玄関の壁に寄り掛かって居る錦君の姿がそこにあった。

 彼は私が来た事に気付くと、片手を上げて微笑する。

「や、おはよう! 可愛いね、そのパジャマ」

「う、うるさいっ!」

 あまりの恥ずかしさに、初めての罵声を浴びせて、一気に階段を駆け上がる。

 一段抜かしで行くとバランスが崩れそうになるが、そんな事などお構い無しに、上がり切って左手にある自室に飛び込んだ。

 そのままの勢いで箪笥の引き出しの中を見て、目に付いた服を取り出す。

 こんな時、まともな服が無い自分が恨めしい。

 とりあえず、取り出したのはテディーベアのプリントがされた水色のTシャツとジーパン。

 それを畳の上に一旦置いて、着ているパジャマを脱ぎ捨てる。

 次いで、取り出した服を着ながら、ふと疑問に思う。

 ……錦君、何しに来たんだろう。

 慌て過ぎてて、用件を聞かずに自室に来てしまった。

 パジャマの姿で出向くのは嫌だったけど、せめて話だけでも聞いておいた方がよかったのかもしれない。

 もしかしたら、連絡事項があったか忘れ物を届けに来てくれたとか、そんなちょっとした用事だったのかもしれない。

 普段から人付き合いが無い所為で、上手く立ち回れなかった自分に後悔しつつ、箪笥の横にある等身大の鏡を見ながらTシャツを着付ける。

 準備と言えば、これくらいだ。

 人様の前に出るのだというのに、化粧も無し洒落た服も無し。

 今までは外に出る事なんて、親とぐらいしか無かったから、お洒落なんて全く興味が無かった。

 誰かと遊ぶ事も、出掛ける事も無く過ぎて行く日々。

 それは、今もそう……なんだけど。

 いざこうして、誰かが来るって事に直面すると、自分の容姿が気になって仕様が無い。

 俯き気味になった視線を鏡に向ければ、服こそ水色で明るいけれど。

 無造作に伸びた黒髪が、目を僅かに隠して暗さを強調する。

 どう考えても、服が不釣合いだ。

 それでも、パジャマよりかはマシだと自分に言い聞かせ、重い足を踏み出して玄関へと向かう。

 先程、錦君が居た場所を見れば、そこに姿は無く、代わりに玄関の引き戸が開けっ放しになっていた。

 ……外で待ってるのかな?

 そう思いながら、玄関に揃えて置かれているスニーカーを履き、外に出てみた。

「お、やっと来た。待ってたよ、香織っ」

 馴れ馴れしく下の名前で呼ぶ陽気な声は、家の前の道路から聞こえた。

 そこには自転車に跨り、片方の足を地面に、もう片方の足をペダルに載せ、片手を上げた錦君の姿。

 彼は上げた片手で荷台を何度も叩きながら、早く早くと急かしてくる。

「ここ乗って、ほら。時間は一分一秒と惜しいもんだよ!」

「乗ってって……どこ、行くの?」

 若干、眉を潜めながら問い掛けてみる。

 すると錦君は、荷台を叩いていた手を拳にして私に突き出し、親指を立てた。

「そりゃもちろん、ドライブさ!」

「ドラ、イブ? でもこれ、自転車じゃ――」

「自転車でも十分ドライブだよ。なんなら、チャライブって名付けても良い!」

 何だか、チャラいって言葉に似てて変。

「とにかく、お出かけだよ。果てし無くどこまでも、日が暮れるその時までっ」

 口端を吊り上げた笑みを見せる錦君には、もう何を言っても無駄な気がした。

 とりあえず、誘われるがままに荷台に跨り、サドルに手を添える。

 よし行くぞ! と気合を入れる錦君の背を見ながら、不安な事が一つ。

 ……荷台に、というか自転車自体、乗った事無いんだけどなぁ。

 というか、このお尻のゴツゴツした座り心地はずっと続くんだろうか。






 風を切って走るのは、なんて気持ちの良いものなんだろう。

 それは、四月の寒くも無く暑くも無い、心地の良い温度が相成っていた。

 今、私が乗っている自転車の荷台から見るゆっくりと動く景色は、車窓から見るものとはまた違った感じだ。

 とは言っても、見えるのは果てし無く続く田んぼと夕焼け空だけなんだけど。

 初めは危なっかしいくらいふらついていた自転車も、今はすいすいと進んでいる。

 私が自転車に乗った事の無い所為で全くバランスが取れなかったのは、本当に申し訳無くなる。

 あまりにもバランスが悪くて転びそうになった時は何度も謝ったが、錦君は笑って許してくれた。

 普段の会話でもそうだが、彼は意地悪な時と優しい時に差が無いから困る。

 悪い意味じゃないけれど。

 とりあえず、運転が安定するまで村の中を走り、頃合いを見て隣村を目指す事になった。

 なんでも錦君は、山を挟んだ向こう側にある隣村から来ているらしく、自分の村を案内したいんだとか。

 いくら出会って数日だとは言っても、知らなかった事だし驚いた。

 彼はずっと、私の住んでいる村にある高校まで、山の向こうから遥々登校して来ていたのだ。

 聞くところによると、山の中を通るトンネルがあり、そこを毎日使っているそうだ。

 それは今回も同じで、山道を通ってトンネルへ。

 抜けた先はまた山道を通り、二時間も掛けて隣村に到着したのだった。

 その間、ずっと錦君は前を向きながら話をしてくれていたけど、私は相変わらず相槌を返すくらいしか出来ない。

 ずっと、そんないつも通りが続いた。

 違うのは居る場所だけ。

 そうして時間は刻々と過ぎていき、現在、夕方に至る。

 錦君曰く、帰りは遠回りをするらしい。

 本当はその提案に、どこへ行くのか質問して話題を作るものなんだろうけど。

 思いつくだけで実行に移せないまま、自転車に行き先を委ねる。

 なんて、面白くない女なんだろう。

 きっと錦君もそう思ってるだろうに。

 目前で一生懸命ペダルを漕いでいる彼の後ろ姿は、ただ左右に揺れるだけ。

 その大きな背中を見ていると、姿だけで無く存在までもが、自分がちっぽけに思えてくる。

「……錦君は、私と居ても……面白く無い、でしょ?」

 気付けば、無意識の内に言葉が漏れていた。

 それも、ようやく出た言葉は、悲観。

「無口で、面白味も無くて、地味で……そんな私と居る、より……友達と一緒の方が、楽しいでしょ……?」

 一度出たら、止まらなかった。

 まるで、それまで感じていた不安を全てぶつけるかのように。

 自分でも分かる。

 それは人として、本当に失礼な事だって。

「……それとも、友達との罰ゲーム? 独りぼっちの私に、話し掛けてこいって、そんな――」

「俺は、ちょっと心配性過ぎるんだよなぁ」

 不意に、私の言葉を遮るようにして、錦君が言葉を発した。

 こちらに顔を傾ける事は無く、前を向いたまま。

「グループの中に居ると、一人ひとりの些細な変化が気になって、大丈夫か? とか、何かあった? とか聞いたりさ。そのくせ、初めて会う人がそのグループに入って来たり、人の多い所に行くと余所余所しくなって無口になってしまう」

 なんかさ、

「そんな面倒臭い性格が、友達は気に入らなかったらしくってね。面と向かって言われっちゃったよ。お前、面白くない奴だなって」

 後ろ姿だけでも伝わる、悲しみの感情。

 錦君に会って、初めて見た感情だった。

 ……声、掛けるべきかな?

 思いとは裏腹に、何を言えばいいのか思いつかない。

 いや、思いついたところで口が開くか、声が出るか分からない。

 中途半端な現状では、ただ口が開き、声にならない空気が喉から漏れる。

 だが、視線の先の錦君は、それまでとは違った明るい声を上げた。

「お、ここだここ! 坂道を一気に下るから、しっかり掴まってて――ねっ!」

 力の籠った語尾が聞こえたと思った瞬間、体が浮いた感覚。

 それはまるで、頂上に上り切ったジェットコースターが急降下した感覚に似ていて。

 後ろ姿ばかり見ていた視線を周囲に移せば、急な坂道をもの凄い速さで下っていた。

 思わず、きゃ、と高い音で始まり、あ、と坂道が続く限り叫ぶ。

 耳に響く自分の甲高い声が鬱陶しいけれど、今はそれどころじゃない。

 とにかく本能的に叫び続け、息が途切れれば息継ぎして、また叫ぶ。

 対し、錦君は私の反応が可笑しいのか大笑いしていた。

 刹那、浮遊感が無くなったと同時に、衝撃が荷台を通してお尻に伝わり、はうっ! と変な声が出た。

 錦君の笑い声が増す。

 ……わ、笑うなぁ……!

 恥ずかしさを紛らわすように錦君の背中を叩く。

 すると自転車は急停止し、

「ふぎゅっ!?」

 油断していた私は、顔から錦君の背中に突っ込んだ。

「はははは! ふ、は、腹がいてぇ!」

 また大笑いする錦君の背中を力強く叩き続ける。

 背中に顔を埋めているから見られていないだろうけど、顔がかなり熱い。

 きっと、真っ赤になってる。

「ははは、は、いて、痛いって香織! って、そうじゃなくて、ほら、あれ見てよっ」

 何かを見て欲しいらしい。

 まだ顔は熱いけれど、仕方なく背中から剥がれて、錦君が指差す方を見る。

 声が、出なかった。

 そこにあるのは、地平線の彼方へと広がる海と、今まさに沈もうとしている太陽。

 橙色に変化した太陽の光が海を同じ色に染め、波で揺れる水面が美しさを引き立てている。

 私の頭じゃ、これくらいしか表現出来ない。

 でも、この光景はそんな簡単に表現出来るものじゃなくて。

 言葉に出来ないもどかしさと、その美しさに見惚れる感動が入り混じって、もうなんだかよく分からない。

 開いた口が塞がらない程、私は見入っていた。

「そう、それだよ。その顔が見たかったんだ。俺が初めて見た時と、同じ表情が」

 声を掛けられ、ふと我に返り、錦君の方へと向く。

 いつの間にか顔だけをこちらに向けていた彼は、笑っていた。

 先程までとはまた違う、微笑みと言う名の優しさがある笑み。

「いつも暗い君を見て、ふと色んな表情が見たいって思ったんだ。それが、声を掛けた理由だよ」

 知りたかった理由は、単純なものだった。

 初めて彼を見た時、眩しかったのは。

 声を掛けてくれた時の笑顔に、純粋故の明るさがあったからなのかもしれない。

 そんな大切な事に今まで気付かなくて、いつも悲観的になっていた自分はなんなんだろう。

 思い返せば返す程、恥ずかしくなって、申し訳なくなって、俯いてしまう。

 しかし、目を合わせていないというのに、錦君は言葉を続ける。

 俯く私に向かって、とても嬉しそうに。

「そしたら、やっぱり君は良い表情を持ってた。明るさが、ちゃんとあった。でも、俺はもっともっとたくさんの笑顔を見たいな。だから……さ、香織。――俺と、付き合ってくれないかな?」

 思考が、止まった。

 瞬きも止まって、呼吸も止まって、何もかもが止まって。

 時間さえも止まったような、そんな感じまでした。

 けれど、次の瞬間には反射的に顔を上げていて、錦君と目が合った。

 彼は恥ずかしそうに片手で後頭部を掻いているが、視線は外さないでいる。

 私自身も、頬が紅潮しているのが分かる程、熱い。

 それは、ただ恥ずかしいからなのか。

 それとも、嬉しいからなのか。

 正直なところ、分からない。

 錦君を、そういう感情で見た事が無かったから。

 でも、一緒に居ると、楽しい。

 もっと一緒に居たいと、最近になって思うようになってきている程に。

 この気持ちはつまり、好きだという事なんだろうか。

 分からない、本当に分からない。

 ……この先も一緒に居たら、もっともっと楽しい日々が過ごせるのかな?

 そう思うと、返事はすぐに決まった。

 自分なんかで良ければと言おうとした声を喉元で止め、自分に対する卑下の言葉を除いて。

「よ、よろしく……よろしくお願いします!」

 精一杯の大声で伝えたその言葉は、錦君の表情を大きく変える。

 嬉しそうに目を見開くその表情に、私もつい頬が緩む。

 そして、すぐに恥ずかしくなって俯く。

 本当に、本当に恥ずかしい一瞬だった。

 けれどそれは、これから末永く一緒に居られるかもしれない合図だったから。

 勇気を出して、伝えて良かったと思う。

 ……明日から、なんて呼ぼうかな。

 なんて、早くも内心、浮かれ気分な私は、俯いたまま微笑む。

 まだ恥ずかしくて、顔は上げられないけれど。

 智紀と、これからはそう呼んでみよう。



 ◇◇◇◇◇



 カランコロンと、下駄が地面を蹴る音が響く。

 逸る気持ちを抑えられない足取りは、自然と小走りになり、音の鳴る間隔が短くなる。

 けれど途中、落ちている石に躓いてしまい、無様にも大股で倒れそうになる体勢を立て直した。

 浴衣の裾が絡みついてきたため、余計に脚を動かし辛くなり、地面を踏む力が強まって下駄が大きな音を立ててしまう。

 恰好悪いと、そう感じた瞬間、急に恥ずかしくなって辺りを見渡すが、どうやら誰も見ていなかったようだ。

 その事に安堵し、吐息一つ。

 私以外、誰も歩いていない道を、今度はゆっくりとした足取りで行く。

 それもその筈、この道はお祭りのある隣村へ向かう道としては遠回りとなる、海沿いだからだ。

 まだ海は見えていないけれど、近道であるトンネルへと続く道は、とっくに反対方向。

 でも、待ち合わせ場所はもうすぐそこだ。

 果たして、待ち合わせ場所である既に廃れたバス停の前に、青い浴衣姿の智紀が立っていた。

 私が来たのに気付いた彼は、はにかんだ表情を見せ、大きくゆっくりと手を振る。

 そんな事されて嬉しく思わないわけがなく。

 またしても小走りになる私は、今度は転ばずに彼の前に到着した。

「ご、ごめんね! もしかして、結構待ってた?」

 眉尻が下がり、焦りながら放つ問いは、しかし首を振る動作で否定の意を返される。

 同時に見せる微笑は、いつも大丈夫と言う時の表情だった。

 その事に安堵し、思わず吐息が漏れる。

 ……とは言っても、やっぱり待ってたんだろうなぁ。

 前回のお祭りの時もそうだった。

 後日聞いたけど、二十分も前から待っていたとか。

 その時も、微笑を見せて大丈夫だと言ってたから。

 でも、その優しさが、智紀の良いところなんだけどね。

 ……なんて、心の中で惚気てる場合じゃない。

 日が暮れて花火が上がる前に、隣町に着いておきたかった。

 それならトンネルを通る道を使えばいいのだけど、今日みたいな日は人通りが多いため、避ける事にした。

 智紀は人混みが苦手だしね。

 それに、海沿いの道には、通っておきたい理由がある。

 だからこそ、急いで智紀の手を取る。

「さ、行こ、智紀! 今日は屋台、全部回るよ!?」

 威勢良く目標を言葉にして掲げ、彼と一緒の歩みを始めた。

 最後に歩いた時からどれだけ時間が経っていても、全く変わらない風景は、さすが田舎だからだろうか。

 でも、変わらないでいてくれた事は、私にとっては嬉しい事であって。

 だから今は、私が先導に立って、海沿いの道に向かって歩む事が出来る。

 他愛の無い会話をしながら歩き続ければ、時間などすぐに過ぎるものだ。

 それに比例して、目的地へもすぐに到着し、海側を見れば今にも沈みそうになっている夕日が見える。

 久々に見たその景色は、最初に見た頃、目に焼き付いたものと、全く同じ美しさを醸し出していた。



 ◆◆◆◆◆



「ほ、ほら、大丈夫だって。悪い人じゃないからさ? ね?」

 智紀の優しい声に諭されるが、納得いかなかった。

 だから今は、智紀の背後に隠れて、前に居る人と顔を合わさないようにしている。

 前に居る人――一瞬だけ見えたけど、茶髪だった。

 不良だと、そう直感した。

「あぁ~……嫌われちまったか? 俺」

 生憎、不良は嫌いだ。というか怖い。

 出来る事なら関わりたく無いから、無視を決め込むつもりだ。

 ついでに、不満を無言で智紀に伝えるため、掴んでいる横腹を抓る。

「い、いたいたい! それ駄目だって! 爪、爪が食い込んでる!」

 そんなの知らない。

 内心で冷たい言葉を送っても伝わらないけど、きっとこう言っていると気づいてくれている。

 だからだろうか、引き剥がそうとする手の力はかなり強く、か弱い私の手は容易に外された。

 次いで、左手を思い切り引かれて無理矢理、前へと出される形となった。

「目も合わせてくれないって、相当だぞ……」

「いやいや、これは香織が人見知りだからさ。――ほら香織、せめて顔だけでも見てあげて?」

 右下の地面を見ながら、智紀の声を聞く。

 ちょっと困った言い方になってきている事に、若干の罪悪感が生まれ、

「お? ……おぉ」

 一瞬だけ見てやった。

 ちょっと目つきの悪い、困った顔をした男が、そこにいた。

 けれど、その表情が変わるより早く、私の視線はすぐに地面へと移す。

 なにこの意地悪。なんだか楽し――

「――っ!!」

「はいはい、そんな意地悪しないの。一度見たんだから、もう何度目を合わせようが一緒だよね?」

 智紀に無理矢理、頭を掴まれて、男と顔を合わさせられてしまった。

 もちろん、目は合ってないけど。

「この人は、隣村に住んでいる俺の友達なんだ。昔から仲が良いから、幼馴染みってのになるね」

鈴村 大河(すずむら たいが)ってんだ。よろしくな、香織ちゃん!」

 鈴村……大河。

 紹介された名前を内心で復唱する。

 鈴村。鈴村君。

 正直、智紀以外の人と仲良くなるつもりは無い。

 ……けれど、智紀の幼馴染みかぁ。

 という事は、智紀を昔から知っているのだ。

 ちょっと、妬く。

 でも、今までずっと友達で居るって事は、智紀を嫌っているってわけじゃなくて。

 それは当然の事なんだけど、智紀が友達に嫌われた理由を知っているから。

 この人は優しい人で、きっと智紀を理解している人なんだな、と思う。

 だったら私も、仲良くなれるかな……?

 よしっ、と内心で自分に気合を入れて。

 ゆっくりと、逸らしていた目を鈴村君の方へと移す。

 そして、目が合った。

「さ、西園寺……香織……です。よ、よろしく……です」

 絞り出すように、自分の名を口にする。

 すると、鈴村君の表情が驚きに変わり、次の瞬間には口の端を吊り上げ、八重歯混じりの白い歯を見せた。

「おう! よろしくな、香織ちゃん!!」



 ◆◆◆◆◆



「香織、お友達が来てるわよ」

 襖をノックする音がして、お母さんが来客を報せる。

 けれど、お母さんがするのはそれだけで、襖を開けようとはしなかった。

 私は暗い部屋の中、綺麗に畳まれた布団の上で横になりながら、その襖をじっと見つめる。

 返事をする気力も無いため、何も言わず黙っていると、続けざまに言葉が来た。

「もう何回も来てくれてるんだから、たまには会ってあげたら? ……鈴村君も心配してるのよ?」

 鈴村君。

 その名前を聞いて、目つきの悪い顔が浮かんだ。

 智紀の幼馴染み。私の友達。

 私、智紀、鈴村君の三人で毎日のように遊んでいた日々を思い返し、ため息がこぼれる。

 伸ばしていた脚を曲げ、膝を顔の位置へ。

 脚を抱え込むようにして縮こまり、膝を額につける。

 最後に見たのはいつだったっけ……。

 暫くの間、そうして目を瞑っていると、痺れをきらしたお母さんは、わかったわ、と言った。

「今日も鈴村君には帰ってもらうわね。……ご飯、少しは食べてね」

 そう言い残し、ドアの前から鳴り出した足音は、遠退いて行った。

 ……ごめんなさい。

 言葉に出さず、そのため誰の耳にも届かない謝罪を、内心で呟く。

 ふと、閉じていた目を開けて顔を上げれば。

 そこには愛おしい彼が、笑顔で寄り添ってくれていて。

 安心感で満たされた心に、眠気が浸透していった。



 ◆◆◆◆◆



 夏の日差しが鬱陶しい。

 ついでに蝉の鳴き声も。

 そんな事を思いながら、休日の学校のグラウンド隅に一人佇む私は、手で目元に陰を作りながら、周囲を見渡していた。

 探しているのはもちろん、智紀と鈴村君だ。

「どっから来ても、絶対に阻止するからね……!」

 わざわざ口に出し、自分に気合を入れる。

 そんな私が立っている場所の少し離れたところには、空き缶が一つ。

 石灰で書かれた丸に囲まれているそれを気にしながら、彼らがどこから来るのか警戒。

 ……と、集中しているのは良いものの、この二試合目が開始してから二十分以上経過しているけど。

 あの二人、蹴りに来るつもりはあるのだろうか。

 ……さっきも、卑怯な手を使ったし。

 鬼になった人は、目を瞑って十秒数えるルールとなっている。

 一試合目の時、その十秒を数え終えた後、目を開けると。

 缶のすぐ横に、鈴村君が立っていた。

 目が合って一瞬、固まる。

 だがすぐに、見つけたと宣言しなきゃ、と思い出した時は既に遅く、缶は天高く蹴り上げられていた。

 蹴った本人は、してやったりとでも言いたそうなドヤ顔で逃げ去り、私は開始早々飛んでいった缶を追い、今の二試合目に至る。

 きっと次も、同じようにえげつない作戦を練っているに違いない。

 なんて、考えていると。

 ふと、鈴村君が私達に加わってからの一週間を振り返る。

 思えば、前より活発に遊びに出るようになった。

 放課後になる度、山の中へ入って行ったり、目的も無くぶらぶら歩いたり、駄菓子屋で雑談したり、河原で遊んだり。

 さすがに、河原で遊ぶ準備をしていた時、鈴村君に着替えを見られたのは忘れ……やっぱりなんでも無い。

 女の子には一つや二つ、忘れたい過去があるのだ。

 というか、事故だったわけだし。

 そんな思い出に浸っているからといって、別に智紀と二人っきりだった頃が楽しくなかったというわけじゃないけど。

 なんというか、良い意味で煩くなった……?

 人は多い方が楽しい、というのはつまり、こういう事なのかな。

 もし、一人、また一人と友達が増えたとして。

 その時、私はもっと笑えるんだろうか。

 だとしたら、次は、

「女の子の友達が良いな、なんて――あっ」

 敢えて思いを口に出したその時。

 視線の先、百メートル程向こうの校舎の影から、あからさまに腰から下をはみ出している男子生徒の姿があった。

 あの体付きは、智紀か鈴村君で合ってる……と思う。

 何故、曖昧なのかといえば、あの二人は顔、特に目付き以外はほとんど同じだ。

 肩幅も、腰周りも、脚の太さも、一緒。目付き以外は。

 そして、二人を見分ける術であり、この缶蹴りのルールで相手を判別する為の顔は、上半身と共に今も隠れたままだ。

 直接見に行くのもいいんだけど、顔を判別出来る位置からでは、私が缶の下へと戻るよりも早く、相手に蹴り飛ばされてしまう。

 ……私、走るの苦手だし。

 それに、もっと注意しなきゃいけないのは、向こうにいる頭隠して尻隠さず野郎の片割れだ。

 もしかしたら、彼は囮なのかもしれない。

 だから私は、缶が無事か確認する為に振り返り、

「よっ! やっと振り向いたね」

 満面の笑みを浮かべた智紀が缶を蹴る快音が、グラウンドに響き渡った。






 結局、あれから続けて三回も鬼になった。

 来たる五度目の鬼。

 私は自棄になって、開始と同時に缶を自分で蹴ったら、思った以上に空へ飛んだのには驚いた。

 そして、落下地点に近かったであろう鈴村君が出てきて、キャッチしたのは本日のファインプレーと言ってもいいかもしれない。

 おいおい何してんだーと、笑いながら缶を戻してくれた鈴村君を指差しながら、

「鈴村君みっけ」

 そう言ってやった私も、ファインプレーだ。いや、もうこれは本日のハイライトと言ってもいい。

 とてつもなく仕様のない賞賛だなぁ。

 ただ、宣言してやった時の鈴村君の顔は、面白かった。

 なんかこう、鳩が豆鉄砲食らったような顔ってやつ。

 細い目でも見開けるんだー、とおちょくりたくなる。

 そんな事を考えていると、智紀がリタイアしてきて、五試合目の缶蹴りは終了した。

 さすがに連続で缶蹴りをやってると疲れる……。

 だから今は、校舎内に入り、一階の空き教室の窓際で休憩をとっていた。

「香織、何度も鬼、お疲れさん」

 いくら智紀に言われたのだとしても、笑いながら言われたら嬉しさ半減だ。

 それを態度で示すように、私は椅子に座って机に両手を伸ばして倒れ込み、アヒル口。

 不機嫌アピールってやつだ。

 すると私の正面の机上で胡坐を掻いて座っている鈴村君は腹を抱えて笑い出す。

「おま、それ! はっはっ! なんつー顔してんだよ!」

「――っ! う、うるさい馬鹿!」

「馬鹿だってさ、大河。でも、当然の事言われても動じないよなぁ」

「うるせぇ! 誰が当然の馬鹿だコラ!」

 私の横の机上で、両足をぶらぶらさせて座っている智紀は、今にも掴み掛かって来そうな勢いの鈴村君に、両手の平を向けて宥めながら、いつものように笑う。

 そして、何かを思い出したかのように、人差し指を立てて、

「そういえば、もうすぐ夏祭りだね!」

「なんだよ藪からポウに」

「……え? 藪から……ポウ?」

「夏休みがもうすぐって事よりも、夏祭り優先なのな、お前。しかも、夏祭りって八月の終わりだし」

 あ、無視した。

 プチ腹が立ったので、鈴村君の座っている机の脚を蹴ってみる。

「俺はっ夏祭りっはどうもっ苦手だっな――って、やかましいわ! 蹴るな!」

 大声を上げた際に剥き出しになった八重歯が怖かった為、すぐさま蹴るのを止める。

 すると鈴村君は、全く……と呟きながら、視線を智紀に戻した。

 ……鈴村君、夏祭り苦手なのかぁ。

 私も正直、苦手だ。

 幼い頃はよく、両親と行っていたけれど、ここ数年全然行っていない。

 人との関わりを嫌っていた、というのが主な理由だ。

 でも今の私なら、行けるかもしれない。

 ……いや、行きたいな。智紀と。あぁ、それと鈴村君もか。

 一方、智紀は鈴村君の言葉を聞いて、ハッとした表情を見せた。

「そうか、今年も実家の手伝いか」

「お手伝いというのもあるが、今回は俺も作ったんだよ」

 面倒臭そうな表情で舌打ちする鈴村君の顔を、小首を傾げながら見上げる。

「……お手伝いって、屋台やるの?」

 問うと、鈴村君はこちらを見て一瞬、驚いた。

 だがすぐに、あぁー、といいながら面倒そうに後頭部を掻いて。

「俺ん家、花火屋なんだ。毎年、夏祭りで花火打ち上げてんの。で、今年は俺も大玉一つ作って、披露しなきゃなんねぇの」

 お前言ってなかったのかよ。

 そう、話の矛先を智紀へ変えて、抗議の言葉を放つ。

 対する智紀はばつの悪そうな顔で、理由を言う。

「大河の家へ遊びに行った時にでも、驚かせてやろうかなと思ったんだけどね。なかなか、君の家行こうって切り出せなくて」

 だって、

「お前ん家、火薬臭いんだもん」

「いやいやいや、待て待て待て。火薬臭いのは工房だけだぞ」

「やーい! お前ん家、かっやくやーしきぃ!」

 両手を筒状にして口元に当て、そう言い放った智紀は、突然机から降りて、走り出して行った。

 そのまま、教室の外へ。

 廊下を走る靴音が遠ざかって行くのを、呆然としながら暫く聞いて。

「え、それ悪口!?」

 素っ頓狂《すっとんきょう》な声を上げた鈴村君の問いに答える言葉は無く。

 私と鈴村君の二人だけが、教室に取り残された。

 沈黙の時間が流れる。

 けれど、それは居心地の悪い沈黙ではなく、それよりも。

 ……鈴村君、花火屋さんの人だったんだ。

 初めて知る事実への驚きが、今の二人っきりの状況に困る事よりも印象強かった。

 でも、鈴村君は花火に対して、苦手意識があるようだ。

 どうしてだろう?

「……素敵だと思うよ? 花火」

 気が付けば、内心で思っていた言葉を口にしていた。

 すると鈴村君は、廊下に向けていた視線を私に移す。

 その細められた目は、明らかに不機嫌だ。

「何が素敵だ。そんなもん、お前ら観客の感想じゃねぇか」

 いいか?

「クソ暑い工房で、一日中篭って火薬弄って、手は真っ黒になるわ危険と隣り合わせだわで、良い事なんてなんもねぇ。……じいちゃんも、花火の爆発事故で死んじまうしで……クソッ」

 クソッ、クソッ、と何度も言葉を吐き捨てる。

 その言葉は、お祖父さんを奪った花火への恨みなのか。

 失敗した時に、死んでしまうかもしれない事への恐怖なのか。

 眉に皺を寄せ、歯を噛み締める表情は、そのどちらでもあるかのように思える。

 けれどそこから分かるのは、鈴村君はきっと、お祖父ちゃんが大好きだった、という想い。

 でも、確信じゃない。

 だからこそ、それを確信にしなきゃ、いけない気がする。

「……鈴村君は、お祖父ちゃんが大好きだったんだね」

「あ? そうだよ、悪いかよ」

「悪いなんて言ってないけど……」

 攻撃的な言葉に、思わず眉尻を下げてしまう。

 初対面の時とはまた違った、怖さが、少しだけあった。

 そんな私の表情を見てか、ふと視線を逸らした鈴村君は、ばつの悪そうな顔。

「その、なんだ、すまん。……じいちゃんは、ガキだった俺に、いつも花火を見せてくれてた。真昼間だってのに、手持ちの花火をたくさん持ってきては一緒に遊んで。手が真っ黒だからと、俺に触れる時はわざわざ新しい手袋をして」

 気にしなくて良かったのになぁ、と懐かしそうに言う。

「唯一、風呂ん時はさすがに手袋できねぇから、直接手に触れる事が出来たっけ。……ごつごつで、大きくて、火薬なんて一生懸命擦ってようやく取れるくらいついてて」

「……そうなるくらいに、花火に触れてる人だったんだね」

「花火一筋の人だったからな。花火の作れない時期になると、暇を持て余したかのように、俺に作り方を教えてきたり」

「……だったら、尚更、鈴村君は……お祖父ちゃんの意思を受け継がなきゃ」

 私もお祖父ちゃんやお祖母ちゃんが、もう居ないけれど。

 幼い頃の記憶を辿れば、鈴村君のお祖父ちゃんのように、私に付きっ切りと言って良いほど接してくれてた。

 自分達の育てた子供が立派になって、同じように命を育んだ、孫。

 たくさんの苦労を経験してきた中で、きっと、長生きしてよかったと思える、証なんだ。

 その孫に、苦難の多い辛い仕事だと分かっていながらも、教えるという事。

「お祖父さんも、何度も嫌だった時があったかもしれないよ? さすがに、それは、分からないけどね。けど、そんな大変な事でも、続けてたのは、きっと、うん」

 うん。

 自分の心に思い浮かんだ言葉は、きっと正解だ。

 ……私も、これに、救われたのだから。

「孫の、鈴村君の笑顔が見たかったからじゃないかな?」

 長い時間を掛けて作り上げる花火は、一瞬の一時の笑顔の為に。

 その喜びは、鈴村君が生まれた事で、より一層増して。

 だから花火職人として、頑張ってこれたんだと、そう思う。

「多分、鈴村君も、喜ぶ人達の顔を見たら、嬉しくなるよ。うん、きっとなる!」

 言いながら、鈴村君の上げる花火はどんなのだろうと想像し、自然と笑みが零れる。

 すると視線の先、鈴村君はきょとんとした表情で、私を見ていた。

「え、が……お、か……――っ!」

 声を絞り出すように呟いたかと思えば、急に顔を逸らした。

 体も一緒に捻り、少し俯き気味。

 一体、どうしたというのだろう。

 ……もしかして。

「……えと、泣いて……るの?」

「違うわっ!」

 振り向き様、全力で否定された。

 その表情は、頬を真っ赤に染め、いつもの憎たらしい細目が見開かれている。

 別の表現をするならば、慌てふためいている。

 私、結構真面目に話したつもりなんだけどなぁ。

 どちらかと言えば、問い掛けた内容の通りであって欲しかった。

「やっぱり、鈴村君は……最低」

「へぁ!? どうしてそうなる! ……え、俺何かしたか?」

「煩い! ばーかばーか!」

 鈍感な鈴村君には、あっかんべーで十分だ。

 そう思うがままに、右目の下を人差し指で引っ張り、舌をペロっと出してやる。

 と、その時だ。

 コンコンと、窓を叩く音が聞こえて。

 それは、向かって左の窓からの音だった。

 突然すぎた為、そのままの顔で振り向いて見れば。

 ラムネの瓶を片手に三本持ち、もう片方の手で窓を小突いている智紀が、そこに居た。

「え、何その顔、初めて見る! 可愛いねっ!」

 瞬間、机に突っ伏した。

「あら、見えなくなっちゃった。とりあえず、大河! ここ開けてくれない?」

「ラムネ二本くれたら考えてやる」

 意地悪だなぁ、と笑い声混じりの言葉の後、窓の鍵を開ける音が聞こえた。

 次いで、智紀が教室の中に入ったであろう靴音。

 智紀が動く度、手に持った瓶同士のぶつかり合う音が響く。

 まるで風鈴のように、心地良い。

「で、なんだか楽しそうだったけど、何話してたの?」

「意味分からん事言って走ってくお前には、関係無い話だ」

「あ! そういうの、仲間外れてって言うんだぞ。そんな子にはラムネあげません!」

「いや、ラムネは寄越せよ。もちろん、二本だ。お前は一本を香織ちゃんと仲良く飲んでろ」

 突っ伏しているせいで、どんな状況か分からない。

 けれどきっと、いつものように笑いながら言い合ってるだろう。

 なんか、私が会話の中に巻き込まれてるけど。

 ……それにしても、智紀と同じラムネを、かぁ。

 想像しただけで、恥ずかしさで顔が熱くなる。

 でも、夏祭りの時は、同じラムネを一緒に飲みたいなぁ。

 聞き耳を立ててると、今その夢が叶いそうだけど、夏祭りは別だ。

 飽くまで、夏祭りの、だ。

 女の子の夢は、細かいのだ。



 ◇◇◇◇◇



「おじさーん、ラムネ一つ下さい!」

 台の向こうにいる、厳つい顔のおじさんにそう言うと、無言で頷いた。

 そして、台の上に置かれたクーラーボックスの中に手を突っ込み、ラムネの瓶を一つ取り出す。

 氷の浮いた水だから、かなり冷たいだろうに。

 さすが大人は我慢強い。私が無理なだけなんだが。

 差し出してきた瓶を受け取り、百円を渡す。

 その際に触れたおじさんの手は硬く、氷水など屁でもなさそうだった。

「ありがとうございます!」

 笑顔と一緒にお礼の言葉を送ると、おじさんはまた無表情で頷いた。

 さてと、と切り替えの一言を呟き、隣に居る智紀にラムネを差し出す。

 すると智紀は、手の平をこちらに向けて、やんわりと断った。

 苦笑いしている表情は、なんだか申し訳なさそう。

 そんな智紀に、頬を膨らませてムスッとしながらも。

 内心では、前回は一緒に飲めたから良しとしよう、と思う。

 若干、残念ではあるが、いらないのなら仕方ない。

 智紀に差し出していたラムネを引っ込め、上部の包装を剥がし、開封用のキャップを瓶の口にセットする。

 次いで、片手で瓶をしっかり持ち、もう片方の手の平をキャップに添え。

 思い切り、手の平を叩きつけた。

 そうする事でキャップは、瓶の封代わりになっているビー玉を中に落とし、衝撃で炭酸の泡を溢れさせた。

「おわっとっと! つ、強くし過ぎちゃったかな?」

 こんなものだよ、と言いたげな智紀は、しかしお腹を抱えて笑っていた。

 酷い人だ。

 けれど、いくら笑っていようと、智紀は言葉は出さなかった。

 それもその筈、周囲は人混みだ。

 お祭りなのだから、当然の事であり、その人混みが智紀の口数を奪う事にはもう慣れた。

 別にそれでも構わない。

 隣で一緒に歩いて、一緒に笑って居られてるのだから。

「射的に綿菓子に、リンゴ飴にかき氷。大分、回ったね。焼きそばとかは、いつでも食べられるし、お腹もいっぱいだから、この際無し! ……で、良い?」

 お腹を押さえ、もう食べられないアピールをしながら問い掛けると、智紀は当然と言うように頷く。

 正直、二人で回ってるのだから、言うほど食べてはいないかもしれないが、最初に食べた綿菓子が思った以上に大きく、苦戦したのだ。

 ……本当は焼きそばやたこやきも食べたかったのに。

 これもみんな、智紀が小食なのがいけない。

 なんて、人のせいにしてみる。

 してみたついでに、智紀を睨んでみれば。

 笑顔のまま小首を傾げる、智紀の顔がある。

 その、心が癒される笑顔に見惚れつつ、ふと空を見上げれば、既に辺りは暗くなっていた。

「ん、そろそろ花火だね……。鈴村君の活躍をちゃんと見ないと!」

 今では毎年恒例となった、鈴村君の花火。

 まだまだ半人前だと言っているけど、なかなか評判が良い。

 さすがは、お祖父ちゃん直伝の技術だ。

 なんて、鈴村君を内心で褒めながら、智紀を手招きする。

「さ、いつものところで花火を見よっ」

 カランコロンと鳴る下駄の音は、急ぎ足に。

 屋台や人混みを抜け、人気の無い方へと、急ぎ足で向かう。



 ◆◆◆◆◆



 この村のお祭りは、屋台がメインだ。

 川辺の近くに設けられた屋台の列に、人々は盛り上がりを見せ。

 川の水面には提灯の光が反射し。

 綺麗な光の川となる。

 その川の向こう岸から上げられる花火も、また川を照らし。

 人々はその間近で見る迫力に、胸を躍らせるのだ。

 だからというように、川から離れたところにある神社は、人っ子一人居ない。

 明るい内は、半被や浴衣を着た子供達が遊び回っているが、今や皆、屋台を楽しんでいる。

 その神社に来た私達は、神社の裏手へと回り、その先に続く山道を登っていた。

 下駄で来るには少々辛いが、道が開けているのはありがたい。

 もちろんそれは、前を行く智紀が手を引いてくれているからでもあるが。

「大丈夫? 月明かりでなんとか足元は見えると思うけど、気を付けてね」

 そうやって声を掛けながら、時折振り向いて心配してくれる智紀は、やっぱり頼もしい。

 ただ、こういうところに来るのは初めてだから、緊張する。

 怖いんじゃない、緊張する。

 ……神社の裏手に回った時はドキッとしたけど。

 などと考えてしまった事にハッとなり、頭を振って邪心を払う。

 期待はした、けど――いやしてないっ。

 顔が熱くなる感じがするが、これは緊張からだ。

 とにかく、今はただ、智紀に手を引かれるままについて行こう。

 そうして、進む道の先。

 ずっと私達を囲っていた木々が、突然途絶え、開けた場所に出た。

 まるで休憩地点のようだ。

 けれど、ベンチがあるわけでもなく、柵があるわけでもない。

 ただ、断崖となっている地面の先には、川辺を見渡す景色が広がっていた。

 木々ばかりで暗闇に包まれたこの地域に、唯一といっていいほど、大きな光の集合体。

 そんな光景を離れた所から見渡せる状況に、思わず動きが止まった。

 これは、沈みゆく夕日を見た時と同じような感動で。

 開いた口が閉じず。

 開いた目は瞬きを忘れ。

 呼吸さえも忘れてしまうような、美しさだった。

 やがて、目が乾き始めて瞬きをする頃には我に返り、横に居る智紀の方を見る。

「どう? 香織。一年に一度しか見られない絶景は!」

 自慢げに言う智紀に、思い切り頷くくらいしか出来ない。

 でも、そんな反応でも私の言いたい事を察してくれたのか、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

「気に入ってもらえたようでなにより! でも、見せたいのはこれだけじゃないんだよ?」

 言いながら、地面に座り込んだ智紀は、私にも座るよう催促する。

「え、でも私、浴衣が――」

「これをご所望ですかな?」

 ニヤニヤと笑みを浮かべる智紀が、ポケットから取り出したのは、小さな風呂敷だった。

 小さいといえど、広げれば人ひとりは座れる大きさだ。

 彼はそれを自分の隣に広げ、再度座るよう催促する。

「準備良すぎだよっ。……ありがとっ」

 どう致しまして。

 その言葉を聞き終わるのと、ほぼ同時。

 口笛のような音が響き渡り、次の瞬間には。

 川辺の方角に、大きな花が咲いた。

 轟音と共に光るそれは美しく。

 多種多様な色を持った光が、真っ暗な周囲を照らす。

「最初は大河の師匠さん達の花火だけど、一拍空いたら、大河の花火が上がるらしいよ」

「鈴村君、花火作ったんだ?」

「そ。なんか、やり甲斐が出来たとかなんとか言ってたよ。切っ掛けとか、香織は何か知ってる?」

 問われ、ふと鈴村君と教室でした会話を思い出す。

 ……私の言葉が後押しになったの、かな。

 よかったと、素直にそう思う。

 私なんかの――ううん、私の言葉が、誰かの役に立ったのだ。

 なんだか嬉しい。

 ……私が智紀に、初めて笑顔を見せられた時も、同じ気持ちを感じたのかな。

 敢えて言葉に出さず、視線だけを交わし。

「ふふっ、なーいしょっ」

「え? ……さては知ってるんだな~?」

「それも内緒だよっ」

 意地悪っぽく笑って智紀をからかう。

 次いで、彼の反応を見ぬままに花火へと視線を戻せば、最初より大きな一発が上がり、眩しいくらいに輝いていた。

 それを最後に、花火が止んだ。

 ……あ。これって――。

 鈴村君の番だ、と思った矢先、花火玉が打ち上がる音。

 今から起きる爆発に、期待で胸を躍らせていると。

 光が拡散し、だが放出されたものは前のとは違っていた。

 広がる筈の光は、一定の形を保ち。

 主に薄い赤色で構成されたそれは、大きくなった時に形となった。

 でも、それは、

「なんなのあのハート……さ、逆さまじゃないかっ」

 智紀の突っ込みに、堪えていた笑いが噴き出た。

 鈴村君の花火は、たった一発で。

 しかもそれは、大きな大きな逆さのハートマークだった。

「あはははっ! 鈴村君らしいねっ」

「あいつ、これわざとか!? 俺ら、笑い死にしちゃうって!」

 お互いに顔を見合わせ、お腹を抱えて大声で笑う。

 ハートマークが打ち上がった後、一拍置いて花火の連発が再開されたが、私達は目もくれない。

 それほどまでに、親しい友達が上げた花火の印象が強く、笑い声が止まない。

 もう一生分笑ったんじゃないかと思うくらい。

 ここに来る前まであった緊張なんて、とっくに吹き飛んでいた。

 そして、不意に、智紀と目が合って、笑いがゆっくりと止む。

 交わった視線は逸れる事無く、真っ直ぐにお互いを見つめている。

 大きい筈の花火の音は遠く聞こえ、意識が智紀に集中する。

 これが、目一杯に笑い合い、同じ感情を共有するという事なんだろう。

 ……不思議と、幸せだ。

 こんな感情は、生まれてこの方、味わった事が無かった。

 家族以外の誰かと共に過ごす事も、楽しい思い出を共有し合う事も、そして。

 ……誰かを、好きになる事も。

 私を暗闇から救い出してくれたこの人を、智紀を。

 あぁ、本当に好きなんだなと、しみじみと思う。

 だから、自然に、口が開き。

 心に生まれた言葉を、素直に放つ。

「……好きだよ、智紀」

「俺もだ、香織」

 普段見せない、キリッとした表情の智紀は恰好良くて。

 でも、やっぱり笑顔が一番好きだなと思えば。

 智紀はそっと微笑んでくれて。

 自然と、お互いに顔が近付き。

 そっと、唇が重なった。

 暖かくて柔らかい感触は、一気に身体中に幸福感として伝わり。

 もう花火なんてどうでもいいくらいに。

 ずっと唇を重ね続けた。



 ◆◆◆◆◆



 ずっと一緒に居たい、と私は言った。

 ずっと一緒だよ、と彼は言った。

 だから、私達はずっと一緒に居続ける。

 この暗い部屋の中で、ずっと。

 智紀に出会う前みたいに、暗闇が支配する世界に居るけれど。

 彼は変わらず、傍に居てくれている。

 なら、他には誰も、何も要らない。

 例えこの暗闇が晴れなくても。

 私の心の支えは、そこに居るのだから。

 折り曲げた膝から顔を上げれば。

 私に微笑んでくれる智紀が、ちゃんとそこに居る。

 声を掛けてくれなくとも。

 そこに居るのだ。微笑んでくれているのだ。

 これ以上の幸せは無い。

 初めて一緒に花火を見たあの日、感じた幸福感。

 心が満たされる幸せ。

 本当に、智紀は、私の大切な人だ。

「大好きだよ……ずっと、い――」

 瞬間。

 部屋の襖が勢いよく開き、誰かが入って来た。

 力強く畳を踏みしめて歩み寄って来る足音の方へ視線を向けると。

 逆光で顔が見えないが、お母さんではない誰かが来ていた。

 そう認識出来た次の瞬間には、両手首を力強く掴まれる。

 怖い。

 突然入って来たこの人は、一体誰なんだろう。

 そんな事を思考している暇などなかった。

 顔を隠さないように、私を押さえつけ、大声で何かを言っている。

 何か、とは言っている言葉がよく聞こえないからであって。

 けれど、向き合った時に見えた顔は、確かに鈴村君だった。

 咄嗟に助けてと叫ぼうとする声は、恐怖から全く出る事が無く。

 顔を逸らして智紀に助けを求めようとも、視線の先の智紀は助けるどころか、微笑んでいた。



  ◇◇◇◇◇



 また、ここに来た。

 川辺を見渡せる、神社裏の山。

 久方振りのこの場所は、前と変わらず、ただ木々が開けた休憩地点。

 もうそろそろ展望台にでもなって、椅子や柵が設けられているんじゃないかと期待はしてみたが、あっけなく予想は外れた。

 けれど、思い出にある景色と変わりないそれをまた見れたのは、やっぱり嬉しい。

 そしてその場所に、また智紀と一緒に来られた事も。

 ふと、ちゃんとついて来てるかと思い、振り返れば。

 いつもの微笑みを見せる智紀が、そこに居た。

 その事に安心し、持っている巾着袋から風呂敷を取り出す。

 前は智紀が用意してくれてたのだから、今回は私の番だ。

 でも、前よりかは少し大きめで、二人が座れるくらいの物を用意した。

 早速、それを地面に広げ、智紀に座るよう催促する。

 後は、花火の打ち上げを待つだけだ。

 視線の先、提灯の光で照らされるお祭りは、絶える事なく賑わい。

 夏の夜にお祭りの楽しそうな声が響き渡る。

 そんな音を掻き消すかのように。

 花火の打ち上がる音が、突如として響き渡った。

「あ、始まった! 智紀、鈴村君の花火だよ!」

 打ち上げられた花火玉は、次々と爆発し、花を咲かせる。

 今、夜空に放たれるそれらは全て、鈴村君が作ったものだ。

 小さなものから大きなもの、二度も爆発するもの。

 鈴村君の作った花火玉が、真っ黒なキャンパスに、色取り取りな花を咲かせているのだ。

 綺麗だと、素直にそう思う。

 逆さまのハートマークを打ち上げた頃より、遥かに上達していた。

 そうやって、人は成長していく。

 ……私は、どうだろう。

 ずっと、独りだった。

 自ら望んでいるんじゃないか、というくらい、心を閉ざしていた。

 それから、智紀に出会って。

 最初は変な人だと思っていたけど、無意識の内に心を開いていた。

 毎日のように遊ぶようになって。

 好きだと気付いた時には、彼と付き合う事になって。

 鈴村君という、新しい友達に引き合わせてくれて。

 たくさんの出来事と共に、私は少しずつ明るくなっていったと、そう思う。

 そして、そうなれたのは、紛れも無く智紀のおかげなんだ。

「……私、智紀に出会えて本当に良かった。生きる希望すら無くしつつあった私に、希望どころか感情も与えてくれたんだから」

 隣に座る智紀の方は、敢えて見ず。

 打ち上げられる花火を見つめながら、言葉を続ける。

「自分でも不思議なくらい、笑うようになった。怒るようになった。喋るようになった。まるで、人形に命が吹き込まれたかのように」

 そんな風に自分を無碍にすると、決まって智紀は叱ってくる。

 自分を大切にしろと。

 香織は、自分が思っているより遥かに、大切に想われているんだと。

 だけど今は、私が話したいのだという事を察してくれているのか、何も言って来ない。

 その気遣いが、本当に嬉しい。

「やっと。やっと、一人の人間として、前を向いて歩けるようになったんだと、思う。それもこれも、みんな智紀のおかげ。本当に、ありがとう」

 私ねと、続け様に言葉を放つ。

 溢れ出しそうな何かを必死に堪え、話し続ける。

「決めたんだ。もう、高校も卒業しちゃったわけだし、思い切って東京にでも行こうかと! いや、上京って言えば、やっぱり東京でしょ? それに、特に当ても無くってわけじゃないけど」

 きっと、智紀は驚いた顔をしているだろうなぁ。

 それとも、心配そうな顔をしているのだろうか。

 もしかしたら、嬉しそうに微笑んでいるかもしれない。

 どれもこれも彼らしさがあって、一つに絞れない。

「お父さんの弟さんがね、東京で教師をしているの。で、その人が今、色んな学校を回って、生徒の相談室を設けるよう提案しているんだって。でも、やっぱりまだ理解が浅いのか、協力者が少ないの」

 私は、笑顔に救われ、言葉に後押しされた。

 だからこうして、生きている。ここに居る。

「私、その人のお手伝いをしたいと思ったんだ。もちろん、簡単な事じゃないってのは分かってるよ? ……でも、救われた時の喜びを、知っているから」

 だから、

「だから私、頑張るよ。智紀みたいに、たくさんの人を笑顔にしたいから」

 そう心に決められるほど、私は強くなれた。

 だから。

 だから、もうそろそろ、吹っ切らなきゃ。

 一呼吸し、自分を落ち着かせ、目を閉じる。

 そのまま、隣に居るであろう智紀の方へと向き。

 ゆっくりと、目を開ける――。



 ◆◆◆◆◆



 どれだけ暴れようが、男の人の力には敵わない。

 しっかりと掴まれた腕は微動だにせず。

 ただただ、身体をばたつかせるだけだ。

 そうしている間にも、聞こえなかった鈴村君の叫び声が。

 少しずつ、少しずつ。

「――は――だ――な――」

 聞こえてくる。

 怒りの形相で言うそれは、きっとろくでもない事だ。

 そう、決め付ける。

 けれど、不意に。

 私の頬に、何かが落ちた。

 それは、人肌のように温かく。

 けれど、少しの揺れで、頬を流れていく。

 どこから、落ちたのだろう。

 ふと鈴村君を見れば。

 彼らしからぬ、大粒の涙が、目つきの悪い瞳から溢れ出していた。

 初めて目にする表情に驚き、思わず目を見開く。

 そうしている間にも、涙声になりつつある彼が搾り出す言葉は。

 私が、意図的に聞くまいとしていた言葉で。

 次の瞬間、力強く放たれた言葉は。

 私の耳を通り、脳内に反響する。

「智紀は、もう死んだんだ! なぁ、自分でもとっくに分かってたんだろ!」



  ◇◇◇◇◇



 目を開けば。

 そこには、誰も居なかった。

 二人分に広げた風呂敷にも、皺は無く。

 愛おしい人の香りも。

 愛おしい人の笑顔も。

 何一つ、そこには無かった。

 ……あぁ、こんなにも。

 自分でも、気付いていた。

 けれど、信じたくなかった。

 だから、彼はずっとそこに居た。

 本当は、居やしないのに。



  ◆◆◆◇◇



 鈴村君の言葉に、ハッとなった。

 けれど、その感情をすぐに否定する。

 だって彼はそこに居るのだから。

 視線の先、彼は立っていた。

 ……いや、本当にその人は、彼なんだろうか。

 記憶の中にある、智紀の姿。

 いつも笑顔で、いつも楽しそうで。

 一緒に居ると、私も幸せな気持ちに満たされて。

 だから、ここに居る彼も、笑っている。

 ……けれど、それは。



  ◇◇◇◇◇



 居て欲しいと、そう願った。

 居なくならないで欲しいと、そう願った。

 そう強く願ったのは、去年の夏。

 なんでもない夏休み。

 いつも通り、遊んで過ごす筈だった夏休み。

 今年も夏祭り楽しみだなぁ、なんて。

 そんな他愛も無い話をしていた頃。

 私と遊んだ、その日の帰り道で。

 車に撥ねられ、死んでしまった。

 話に聞くと、即死だったそうだ。

 そうだ、と他人事のような言葉になったのは、実際に彼の亡骸を見ていないからだ。

 それもそうだ、報せを聞いた私は、閉じこもったからだ。

 暗いくらい部屋の中に、昔と同じように。



  ◆◇◇◇◇



 それは、私の願望が生み出した、幻。

 妄想とも言っていいだろう。

 傍に居てくれて、尚且つ私が一番好きな笑顔のままの彼。

 表情一つ変えないなんて、人としたら不気味ではある。

 けれど、私にはそれこそが、僅かに気力を保っていられる救いだった。

 だから彼はそこに居て。

 だから私は閉じこもって。

 智紀はもう居ないという現実から、目を逸らし続けてきた。

 ……私は、このままじゃ、駄目なの?

 内心で問い掛けようとも、視線の先の彼は一言も口にしない。

 しかし、私の目前に居る鈴村君は、しっかりと私の肩を掴んできた。

「お前は、まだ生きてるんだ。もしかして、智紀が居ないからこんな状態なのか?」

 こくりと、無言で頷く。

 即答にも近いそれに、鈴村君の表情はより険しくなる。

「――っ! ふっざけるな! あいつが、あいつが、こんな状態のお前を見て、報われると思うか!?」

 湧き上がる感情の影響か、力の篭る手は私の肩を握り。

 搾るように出される言葉は、しっかりと私の耳に、心に響く。

「あいつは言ってた、香織ちゃんは昔は心を閉ざしてたって。でも、ようやく見れた笑顔はとても眩しくて……だから、好きなんだって!」

 何かが、私の中から溢れようとしてくる。

「なのに、また香織ちゃんがこんなんなっちまったら、あいつは死んでも死にきれねぇぞ!」

 止め処なく溢れるそれは、嗚咽となってこみ上がる。

 瞳から溢れ出た涙は、すぐに頬を伝う。

「頼むから、前向いてくれよ……俺の好きだった頃の香織ちゃんのように! あいつの想いを、思い出してやってくれよ!」

 全力でぶつけられる言葉に、私はもう。

 強く、力強く。

 頷く、何度も、頷く。

 暫く使っていなかった喉が、無様に鳴ろうとも。

 声帯を必死に震わせ、言葉を出す。

 応えなきゃいけないから。

 彼の、私の為の言葉に、応えなきゃいけないから。

「……う゛っ! ……う゛、ん゛……! う゛ん……!」

 精一杯に応えたそれは、彼に、いや彼らに届いただろうか。



  ◇◇◇◇◇



 智紀の幻は、鈴村君が救ってくれた日から、居なくなった。

 結局、自分の心に整理をつける為に、数日間はまた部屋に篭り。

 今日、ようやく決意した。

 夏祭りがある、今日に。

 この日ばかりは、幻でもいい。

 これは、死んだ智紀を幻にしてまでこの世に留めさせてしまった私からの罪滅ぼし。

 せめて最後くらい。

 別れを決意して、この夢物語を終わらせる為に。

 けれど、夢であって夢じゃない、良い記憶を最後に。

 そして私は、ようやく別れを告げられた。

 ふと気付けば、涙が頬を流れている。

 自分でも気付かない内に出たそれは、止まる事無く。

 きっと、下に落ちた雫は、浴衣を濡らしているだろう。

 でも、そんな事など気にもせず。

 花火の光に照らされる虚空を見つめながら。

「……ありがとう、智紀。本当に……ありがとね。――そして、さようなら」

 やっと出せた、その言葉。

 一年かけて、ようやく出た智紀への感謝と別れの言葉。

 それを言えた瞬間、堪えていた最後の一線は切れ。

「……う……ぁ……」

 涙も、鼻水も関係無く溢れ出て、顔を濡らす。

「っふ……は……ああぁあぁぁ――」

 鳴き声は響く。

 両手で顔を覆っても、止まらない水を流しながら。

 膝を着き、身体を曲げて。

 時折響く、花火の音に掻き消されつつも。

 いつまでも、泣き続けた。



  ◇◇◇◇◇



 そよ風が、髪を揺らす。

 いくら日陰と言えども、暑い駅のホームに居る私にとっては、救いみたいなものだ。

 時々しか吹かなかったとしても。

 ……それにしても、やっぱり遅いなぁ。

 地平線の彼方に伸びる線路を見ながら思う言葉は、何度目だろう。

 計画性の無い自分に呆れ、溜息。

 けれど、そんな事よりも。

 今、私が座っているベンチに、一緒に腰かけている鈴村君が、豪快に鼾をかいて寝ている姿の方が気になる。

 ……何で、私の見送りに来たのに寝てるんだろう。

 本当、自由気ままな人だ。

 だからこそ、遠慮を弁えずにずかずかと私の部屋に入ってこれたんだろうけど。

 別に嫌味を言っているつもりはない。うん、褒めてるのだ。

 私の為に、一生懸命頑張ってくれた人。

 寝顔を見ながら、思わず笑みが零れる。

 その時ふと、部屋に入って来た時に告白まがいな事を言ったなと、思い出した。

 けれど、あの日以降、特にそれっぽい発言は無い。

 あれから一か月も経っていないのにそう思うのは、酷な話だろうか。

 結局、鈴村君の正直な気持ちを面と向かって聞く機会も無く、村を離れる日が来てしまった訳だ。

 ……今日言われるのかと思いきや、寝てるし。

 よくわからないけど、まぁ、彼らしいと言えば彼らしい。

 出会って間もない頃からそういう印象なのだから、よっぽどだ。

 仕方ないから、鈴村君との会話は諦めて、故郷の景色を見る事にする。

 いくら田んぼしか無いとしても、今日で見納めだ。

 次はいつ帰って来られるかも分からない。

 だから、目に焼き付けておこう。

 それから数分して。

 遠くから、汽笛の音が響いて来た。

 音のした方を見てみれば、こちらに向かって来る鈍行列車の姿があった。

 いよいよ、村を離れる時が、現実味を帯びてくる。

 そして、汽笛の音によってか、鈴村君が目を覚ました。

「んあ? ――って、汽笛! もう来たのか!?」

「もうって……あれから何十分も経ってるよ」

 下手すれば、一時間以上。

「くそ、あのな、香織ちゃん、えとな!」

 ベンチから勢いよく立ち上がり、何やら慌てふためく鈴村君。

 とりあえず落ち着けばいいのにと思うが、面白いので言わないでおく。

 至って冷静に向き合っている私とは真逆に、まだ慌ててる鈴村君は何を言ってるのか分からない。

 そうこうしている間に列車は到着し、自動扉が開いた。

 もう後が無い、そんな状況になってようやく、彼の動きは落ち着く。

「あぁ、来ちまったな、そのな。――頑張れよ、香織ちゃん!」

 期待していた訳では無いけれど。

 鈴村君の口から出た言葉は、思っていたものとは違っていて。

 勝手に思い上がっていた自分が、恥ずかしい。

 その時、急に頬が熱くなる感じがし、慌てて列車の方へと顔を向けたが、気づかれなかっただろうか。

「うん、頑張るよ。鈴村君も、花火頑張ってね?」

「もちろんだ。あぁ、それと、来年はもちろん見る為に帰って来るよな?」

「無茶言わないでよぉ。考えておくけど、期待は無しで!」

 自然と鈴村君の方へと笑いながら向けた顔からは、朱色は取れたかな。

 恥ずかしかった事だから気にしつつ、一歩足を踏み出す。

 少し重い足を前に出し、列車に乗り込んで踵を返した。

 正面、歯を剥き出しにした笑顔の鈴村君を見据え、手を振る。

「見送りまでしてくれて、本当にありがと。身体に気を付けてね?」

「香織ちゃんこそ、身体はもちろん、ご飯もちゃんと食べろよな。他にも、えと……あり過ぎて纏められん!」

 んまぁ、とりあえず、と前置きした鈴村君は、口端を少し上げた表情になり。

「行ってらっしゃい、香織ちゃん!」

「行ってきます、鈴村君!」

 互いに言葉を交わした瞬間、扉は閉まり。

 ゆっくりと、列車は走り出した。

 ホームに立つ鈴村君は、走り出して追って来る事無く、ただ手を振り続けている。

 そんな彼に、最後尾まで歩きながら手を振り、やがて行き止まりに着くと、だんだんと離れていく姿を最後まで見続けていた。






 たった二両編成の列車には、私以外に誰も乗っていなかった。

 まさに貸切状態だ。

 けれど、貸切だとしても、特にする事は無い。

 とりあえず、一両目の中央付近の席を選び、窓際に腰掛ける。

 一本しか無い線路を、ひたすら内陸に向かって走り出す列車。

 その車窓から見える景色は少しずつ、見た事の無いものに変わって行く。

 故郷を離れるという実感。

 もう、後戻りは出来ない。……いや、する気はないけど。

 ただ、ちょっぴり、心細いだけ。うん。

 私は、私なりに頑張ろうという気持ちと、見知らぬ土地に行く不安な気持ち。

 どちらか一方が勝っている訳では無く、両方あるからこそ、心が重い。

 そんな思考に頭が一杯いっぱいになりそうになり、外から視線を逸らそうとしたその時。

 ふと、外には場違いな光景が見えた。

「――え?」

 それは、軽トラックだった。

 いや、田舎の農道を軽トラックが走っている事は、とてもじゃないが不思議なものではない。

 ただ、私が目にしているそれは、列車を追い抜く勢いで、後方から走って来ていたのだ。

 いくら鈍行と言えど、わざわざそれを追い抜こうとするなんて、一体どんな人が運転しているんだろう。

 そう思い、運転席に目を凝らせば。

「へ? す、鈴村君!?」

 思わず車内で大声を上げてしまった。

 咄嗟に両手で口を塞ぎ、周囲を見回すが、そういえば貸切だった。

 安堵の吐息を漏らし、改めて外を見る。

 満面の笑みで親指を突き立てて来ている、鈴村君の姿があった。

 相変わらずの悪い目つきと視線が合ったと思うと、すぐに前へと向き直し、加速して行く。

 そして、そのまま列車を追い抜いて、先に行ってしまった。

 ……一体、何だったんだろう。

 やっぱり、鈴村君は変な人だ。

 なんて思い、控えめに笑っていると。

 列車の進行方向、田んぼ道の真ん中に立っている鈴村君の姿が見えて来た。

 彼の足元には、筒と籠に入った玉が二つずつ。

 その中から、玉を取り出した彼は、素早く筒に入れた。

 ……もしかして、何かするつもりなんだ。

 思ったよりも早く、身体は動いていた。

 車窓を勢いよく開けて、身を乗り出すようにして鈴村君を見る。

 同時。

 口笛のような音が響いたと思うと、次の瞬間には。

 花火の爆発音が、響き渡った。

 飛び散った光こそ、明るい故にあまり見えないけれど。

 その音は、確実に私の胸に響く。

 続けて放たれた花火のそれも、同じように。

 合計、二発も打ち上げられたそれは、激励のよう。

 ……あぁ、二発って……二人、かぁ。

 鈴村君の手によって。

 彼と智紀、二人の激励が、私を後押ししてくれた。

 なら私は、答えなきゃ。

 片手で窓の淵を掴みながら、もう片方の手を目一杯振る。

「ありがとう! 頑張るから! 私は、頑張るからああぁぁあぁ!」

 声が枯れたっていい。

 聞こえて無くったっていい。

 真っ昼間に花火を打ち上げくれたように。

 せめて、手を振る姿だけでも、と。

 私の大切な、親友のために。

 途中、込み上げて来た嗚咽で、声がぐしゃぐしゃになろうとも。

 涙で視界が霞んでこようとも。

 彼の姿が本当に見えなくなるまで、いつまでも私は、叫び続けていた。

どもー、Izumoです。

まず初めに、この度は本作品をご覧頂き、ありがとうございました。

初めての方には、駄文失礼しました…。

そしてお久しぶりの方には――ほんっとうにお久しぶりです!

何年ぶりかの新作…それも、連載ものも更新してない中で。

しばらくブランク状態だった愚者なもので…。

けれど、ようやっと新作を書き終えました。


さて、今作は自身初の恋愛ものです。

元々、恋愛ものを書こうと思っていて、当初は私の作品「いつもの空+時々雨」の登場人物の過去編にしようかなと思ったのですが。

たまには、全くのオリジナルもいいかなと思い、けれど過去編チックな雰囲気も残したいと思った結果。

名前が少し似てる&男女の境遇を逆に、というとこだけ残そうということで落ち着きました。

しかし、Izumoとしては珍しく、クロスオーバーはさせていません。

純粋な気持ちで読める短編だね!


ではでは、長文になってしまいましたがここら辺で。

失礼しましたー。

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[一言] 新作お疲れー 文章量すごいな ブランクありでこれか・・・パネェわ 最後の窓から身を乗り出すところで物凄い青春オーラを感じてしまったよ これはヤバイね いろんな意味で泣きそうになった 最近全…
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