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部屋に帰るとジャッキーはまたベッドに腰掛けていた。
「レイ、今、思い出したことがあるんだけど」
「うん……どんなこと?」
「もしかしたら、君は本当に苦痛から解放されるかもしれないんだ」
「え? いったいどうやって」
レイはジャッキーの横に腰を下ろす。
「ほら、三か月前に八年生のイーサンっていう生徒が急に引っ越したのを覚えてる?」
「ああ。彼、春シーズンのアメフト部ではエースだったからね。よく覚えてるよ」
「彼、ヴァンパイアだったんだよ」
「え? イーサンが?」
背が高くて逞しいイーサン。彼が常に女の子達に囲まれていたことをレイは思いだした。
「そう。でも今は人間になって、別の町で暮らしてる」
「人間に? いったいどうやって!」
「町外れに去年、診療所が出来たんだけど、知ってるか?」
「いや、知らないよ」
「そうか。まあ、予約した患者しか診ないし、知らないほうが普通だろうな。で、そこの先生、実はヴァンパイアを人間にする薬を持っていてね。まだその薬、臨床段階で公にはなってないんだけどイーサンは初めての成功例なんだよ」
「でも、どうしてお前、そんなこと知ってるんだよ」
「二か月前だったかな。ヴァンパイアのこと調べていたら、偶然雑誌に彼の名前を発見したんだ。それで話を聞きにいったら、僕を気にいってくれて薬のことを教えてくれたんだ。でも、誰にも秘密にしてほしいって念を押されたけどね。だから、もし君がそう望むんなら、彼に紹介しようかと思ったんだよ」
レイは突然見え始めた希望の光に顔を紅潮させた。
「……もちろん、俺は人間になりたいよ。でも、母さんはどう思うかな」
「君がもし人間になったってアメリアは怒らないよ。それに彼女だって人間になることが出来るかもしれない」
――そうなれば、もうこそこそ暮らす必要はない。同じ町にずっと居続けることだって出来る。
「判った。俺、彼に会うよ」
「それじゃあ、さっそく話をしておくよ。ねえ、来週の火曜日はアメリアも休みなの?」
「いいや。その日は俺だけだよ」
「じゃあ、その日にしよう。それからこのことはまだアメリアには内緒だよ、レイ」
「ああ、絶対言わないよ」
一週間後、アメリアが仕事に出かけて二時間ほど経った頃、ジャッキーがやってきた。それまでの間、レイはジャッキーの誘いを受けたことがよかったのかどうか、不安を抱えたまま過ごしていた。
「心配ないさ、レイ。話を聞いてもし不安だったら断ればいいんだから」
新品の茶色いシャツを着たジャッキーはいつになく上機嫌だった。不安そうなレイを励ます様に、肩をぽん、と叩く。
「うん……ねえ、ジャッキー。お前、一緒にいてくれるよね?」
「ああ。さあ、早く行こう。約束の時間に遅れるぞ」
レイは自分が選んだカーキ色のTシャツに目を落とした。母が数日前に買ってくれたものだ。大丈夫だ。勇気を出せ。自分に言い聞かせながらシャツの胸をぎゅっと掴むとレイは顔を上げた。
「判った。行こう」
先に立って歩き出したジャッキーの後をレイは少し遅れ気味についていく。住宅街から商店街を通り抜けてしばらく歩き続けると、やがて人家はまばらになり、行く手には鬱蒼とした林が見えてきた。
「ほら、あの奥に白い建物が見えるだろ。あれが診療所だよ」
「よう、レイ、ジャッキー。何処へ行くんだ?」
ジャッキーは身体をびくりと震わせて振り向いた。日差しの眩しさに目を細めながら紺と白のボーダーTシャツを着たテリーが自転車を止めて立っていた。
「そこの診療所だよ。俺、ちょっと熱があって風邪ひいたみたいなんで見てもらおうと思って。ジャッキーがここがいいって言うから案内してもらったんだ」
レイが慌てて答えた。その様子がよほど変に見えたのか、テリーはちょっと眉を顰めた。
「ふうん? それくらいならオットーの爺さんのクリニックで十分だけどな。ほら、俺が行きつけのとこ」
「いいじゃないか、テリー。ここは前に僕が見てもらって凄く親切だったからレイに勧めたんだ。別に構わないだろ?」
「そうか。まあ、いいけどな」
「おい、テリー。それ兄貴の自転車だろ? 乗っても大丈夫なのか?」
ジャッキーが巧みに話を逸らす。
「ああ。兄貴はギア付きのを買ったんで俺がもらったのさ」
「へえ、いいなあ」
「なかなかいいだろ? レイ、風邪が治ったら貸してやるよ」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
「じゃあな」
テリーはひょいっと片手を上げると、ゆっくりと自転車をこぎ始めた。車輪が渇いた砂埃を巻き上げる。彼の姿が見えなくなると、二人は再び歩き出した。林を抜け、白い平屋の診療所の前までくると、ジャッキーは急に立ち止った。
「レイ、悪いんだけどここから先は一人で行ってくれ。そういう決まりなんだ」
「え? でも、さっき……」
「ごめん。でもそうしないと中に入れてくれないんだよ。大丈夫。俺、帰ってくるまでここで待ってるから」
「……判った。じゃあ、行ってくるよ」
レイは診療所のドアに続く数段の階段を上り、チャイムを押した。ドアが開き、無表情な看護婦がレイを迎え入れた。
待合室は陽光が差し込み、明るかったが、待っている患者は誰もいない。
すぐに名前が呼ばれ、レイは診察室に入って行った。
強いアルコールの匂いが漂う診察室の中はかなり広かった。部屋の右側には壁に沿ってソファが置いてあり、左にはベッドが置かれている。部屋の奥に置かれた机の前に柔らかい笑みを浮かべて座っているのは銀髪をオールバックにした三十代くらいの細面の男だ。薄い茶色の瞳に銀縁の眼鏡を掛けた白衣の男は落ち着いた声で、レイに語りかけてきた。
「君がレイだね? 私はトッド・スミス。さあ、そこに掛けて」
「はい」
丸椅子に腰を下ろしたレイは、おずおずとトッドに問い掛けた。
「あの、人間になれるって聞いたんですが、具体的にどんなことをするのか教えていただけますか」
「ああ、いいよ。ジャッキーから話は聞いている。心配ないよ、さあ、まず君が本当にヴァンパイアかどうかを確かめるから、目を瞑って口を開けなさい」
レイは目を瞑り、口を開けた。男の指が左の牙の上の歯ぐきを強く押した。長い牙が伸びたのを見て、男は満足そうに溜息をついた。
「間違いないね。君は立派なヴァンパイアだ。ああ、もう少しそのままでいてくれるかな」
トッドは立ち上がり、机の上に置いてあった蓋を開けた瓶にそっと手を伸ばした。レイの顎をいきなり手で掴み、頭を上向かせると、次の瞬間、レイの口の中に瓶の中身を一気に流し込んだ。
激しく噎せ返りながら、レイは目を開け、トッドを突き飛ばして立ち上がった。
「な……何するんですか!」
レイは逃げようとしたが、足がもつれてそのまま床に倒れ伏した。あっという間に全身が痺れ、感覚がなくなってくる。
「この……薬……」
舌が痺れて上手く喋ることが出来ない。
トッドは満面に笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、レイの頭の横まで歩いてくると、うつ伏せに横たわった彼の戸惑った顔を満足そうに見下ろした。
「甘いねえ、君。そんな話を信じるなんて。君はこれからゆっくり眠るんだ。ただし、次に目が覚めた時には手足を縛られて檻の中だけどね」
「ジャッキーを……騙したな!」
「ジャッキー? ああ、あいつは先刻承知だよ。それ相応の報酬も渡してる。この間も一人紹介してもらった。いい値で売れたよ。でも、君なら彼の数倍の値で売れる。まあ、買ってくれる奴らにまともな奴はいないけど、せいぜい可愛がってもらうといい」
トッドは下卑た笑い声を上げた。
――ジャッキー……俺を売ったのか? そんな……嫌だ! 信じたくない!
意識が朦朧としてくる。男の笑い声が頭の中を駆け巡る。
――母さん、ごめん。俺……馬鹿だったよ。
トッドはその場でしゃがむと、レイの顔をじっと眺めた。その視線は身体を舐めるように下に降りていく。
「それにしても君は綺麗だねえ。今まで捕まえた子供の中じゃ一番だな」
トッドがレイの身体に手を伸ばした瞬間、ドアを勢いよく開けて走りこんできた誰かが男を真横から蹴り飛ばした。トッドは床に倒れ、呻き声を上げた。
「レイ! 大丈夫か?」
心配そうに声を掛けてきた少年の顔を見て、レイは目を見張った。テリーだ。だが、レイを抱き起そうとするテリーを睨みながら男はゆっくりと立ち上がった。その眼は青く光り、鋭い二本の牙が口の端から飛び出している。
――こいつ、ヴァンパイアだ! テリーが危ない!
レイは必死にテリーに知らせようとするが、声が出ない。男はあっという間にテリーに飛び掛かった。床に倒され、叫び声を上げながら、テリーは両手を伸ばして必死に抵抗した。トッドは彼の身体に跨り、腹や顔をしたたかに殴りつけて両腕をがっしりと抑え込んでしまった。ほどなくテリーのネックレスに気が付いたトッドは凶暴な牙をむき出してニヤリと笑った。
「ほう? ヴァンパイアの牙か。ずいぶん貧弱だな。今、もっと立派な牙をお前の首に食い込ませてやるよ。どうだ? 嬉しいだろ」
テリーの首筋に鋭い二本の牙がゆっくりと近付いていく。テリーは叫び声を上げながら必死に頭を振っている。
――テリーが殺される!
その時、レイの胸が火のように熱くなり、彼は飲まされた液体を一気に吐き出した。同時に身体を拘束していた痺れが嘘のように消え失せる。レイは素早く身を起こし、トッドに近付くと首の後ろを掴み、テリーから引き剥がして振り払うように投げ捨てた。男の身体が宙を飛び、激しく壁にぶつかって滑り落ちる。レイは自分の力が信じられなかった。
「レイ! お前……ヴァンパイアだったのか」
テリーが信じられないといった表情でレイを見つめている。レイは口元に手をあて、自分の牙が伸びているのに気付いた。一瞬の動揺。
「レイ、後ろ!」
瞬時に後ろを振り返り、身構えた時にはトッドはレイのすぐ前に来ていた。レイは必死に殴りかかったが男は左手でレイの突き出した腕を掴み、彼の身体を自分のほうへぐいっと引き寄せた。トッドはレイがよろけて自分の身体にぶつかった瞬間、右手を白衣のポケットに突っ込んだ。
「う……!」
トッドはにやりと笑うと呻き声を上げたレイの身体を突き放した。血に染まった白衣のポケットの底を破り、鋭く長いナイフの刃が突き出している。レイは両手で血が溢れ出る腹を押さえていた。激痛に身体を震わせながらも、レイは必死で男に殴りかかった。トッドはポケットから手を引き抜き、向かってきた彼の腹に再度ナイフを突き立てた。
「あ……あ!」
レイは強烈な痛みに立っていることが出来ず、腹を抱え込むようにしてその場にがっくりと膝をついた。
「私に抵抗しようとしたって無駄だよ、レイ」
トッドはにやにやと笑いながらレイを見下ろしている。
「……ちっくしょう、てめえ!」
テリーがよろよろと立ち上がり、トッドに向かっていこうとしている。
「テリー、だめだ! 逃げろ!」
「おやおや、君のお友達は血の気が多そうだね。きっと味もいいに違いない」
トッドがナイフを構え、べろりと舌なめずりをしながらテリーのほうを見た瞬間、耳をつんざくような銃声が轟いた。
トッドの胸に大きな穴が開き、盛大に血と肉が飛び散る。その身体はそのまま後ろに吹っ飛んで動かなくなった。
「……まったく驚いたな。先客がいたとはね。大丈夫か、二人とも」
黒いぼさぼさ髪にくたびれた革のジャンパーを着て、ショットガンを構えた男が開け放したドアの前に立っている。男は呆れたような顔で二人を見ている。
「俺は大丈夫、ダークさん。でもレイが」
ダークはレイに近寄ると、腹の傷を確認した。
「こいつは酷いな。早く救急車を呼ばないと」
「駄目だよ! 彼はヴァンパイアなんだ。正体がばれたら殺されちまう。ダークさん、どうか彼を見逃してやってくれよ。レイは俺の大切な友人なんだ」
「え? ああ、そうなのか! だから彼はここに呼ばれたんだな。大丈夫だよ、テリー。俺はガキのヴァンパイアなんかに興味はねえから」
ダークはレイをそっと立たせ、そのまま抱き上げるとベッドの上に寝かせた。
「少し横になっているといい。血が止まったら家に連れて行ってやる」
「ありがとう、ダークさん。でも……」
「お前、もしかして母親のことを心配してるのか? 大丈夫だ。俺は子供から母親を取り上げるような酷なことはしねえよ。ああ、それからもういい加減ダークさんっていうのは止めてくれねえか? 背中がむずむずしてくる。ダークでいいよ」
「判った。で、何でここに来たんだよ、ダーク」
ベッドの端に腰を下ろしたテリーが問いかけると、ダークはポケットから一枚の写真を取り出した。それは間違いなくトッドの写真だった。
「俺が所属してるハンター組織から、数日前にこれが送られてきた。こいつは各地でヴァンパイアの子供を騙しては誘拐してモンスター専門の売買グループに売っていたらしい。俺はそういうことは嫌いだが、本来それ自体は違法行為じゃないし、こいつはそうやって自分が狩られることなく生活していた。だが、最近になって数人の人間の子供の売買事件にも関わっていることが判って警察から組織に依頼が来たそうだ。で、こいつがこのあたりの何処かの町に潜んでいるという情報があって、俺にも指令が来た。俺は聞き込みを続けてこの診療所を探り当て、殴りこんだってわけだよ。さあ、次はお前達がどうしてここにいたのかを説明してくれよ」
レイはジャッキーがここを紹介してくれたことを話した。彼が話し終えると、テリーは悔しそうに唇を噛んだ。
「畜生。ジャッキーの奴、そんなことをしてたなんて信じられねえよ」
「テリー、お前はどうしてここへ?」
「ああ、あの時、お前達の様子がなんかおかしかったんで、帰るふりをして戻ってきたんだ。隠れて見てたらあの林の中にお前達が入っていった。でもしばらくすると、ジャッキーだけが走って出てきた。何だか凄く周りを気にしながらね。俺は気になってしょうがないから、ジャッキーが見えなくなってから、ここに来てみたんだ。ドアの近くまで来たら、叫び声が聞こえて、急いでドアを蹴破って飛び込んできたってわけさ。受付の看護婦が飛び掛かってきたから蹴り飛ばして気絶させてやったよ」
「そうだったのか。ありがとう、テリー」
「お礼なんていいよ。友人なんだから助けるのが当然だし、お前だって俺を助けてくれたじゃねえか」
「でも、俺はヴァンパイアだよ」
「関係ないよ、そんなこと」
テリーはふっと優しい笑みを浮かべた。
「お前が何であろうと、俺の友人であることには変わりがない。そうだろ?」
「でも、お前はハンターになることが夢なんだろ」
「まあね。でも、俺、ヴァンパイアは全部が悪い奴じゃないってことに気が付いたんだ。お前はいい奴だし、考え方も行動も人間と変わんねえしな。でもさ、あいつをやっつけたダークを見て、やっぱりかっこいいなとも思った。だから悪いヴァンパイア専門のハンターだったらなってもいいかなって思ってる」
「そうか。それもいいかもしれないね」
レイは再び襲ってきた激痛に顔を顰めた。
「もう喋らなくていいよ、レイ。俺はダークと話をしてるから」
「うん、そうする」
レイは目を瞑った。目じりから自然に涙が溢れ出てくる。だが、それは悲しみの涙ではなかった。
ダークはトッドと受付の看護婦を縛りあげ、猿轡を噛ませた。一時間ほどでレイの傷は塞がり、出血も止まった。ダークは受付のカウンターの上の電話から組織に連絡を取り、どうにか歩くことが出来るようになったレイに自分の革ジャンを着せて傷を隠し、診療所に鍵を掛けて休診の札を下げると家まで送って行った。テリーはレイの家までついていき、そのままアメリアの働いてる店に知らせに行った。
十分後、急いで戻ってきたアメリアはダークの姿を見て、瞬時に身構えた。目が青く光り、光沢のある長い二本の牙がぎらりと伸び始める。ダークは慌てて両手を振り回した。
「ちょっと待った! 俺は彼に何もしてねえよ!」
レイはベッドから半身を起して叫んだ。
「母さん、待って! 彼は俺達を助けてくれたんだ!」
その時、テリーが息を切らせながら部屋に入ってきた。
「お前の母さん、足が速いなあ。自転車でも追いつくのが大変だったぜ。俺がレイが怪我したって言った途端に店を飛び出して走り出すんだもの。説明する暇もねえよ」
「……何だか判らないけど、とにかくそこをどいてちょうだい!」
ダークがレイのベッドから離れると、アメリアはレイの枕元に駆け寄った。
「大丈夫? レイ。なんて酷い傷なのかしら……とにかく眠りなさい。眠ったほうが治りは早いのよ」
「うん」
レイは母の顔をじっと見た。やっと家に帰ってきた。安心したと同時に眠気が襲ってくる。レイは疼く傷の痛みの波から逃れるように目を閉じた。
キッチンのテーブルでテリーがこれまで起こったことの説明を終えると、ダークはアメリアが持ってきたグラスのオレンジジュースを一気に飲み干して、立ちあがった。
「まあ、そういうわけだ。俺はレイのこともあんたのことも組織には話さねえから安心しな。さて、そろそろ現場に戻らねえと、組織の奴が先に来てたら面倒だからな」
アメリアは立ち上がり、ダークに近寄ると右手を差し出した。
「ありがとう、ダークさん」
ダークはその手をそっと握り返す。
「いや、まあ、仕事だったんでね。それより、あのジャッキーってガキが、レイがまだここにいるって知ったらまた違うハンターにこの家のことを通報するかもしれねえ。すぐにでもここを出たほうがいい」
「そうするつもりよ。ご忠告感謝するわ」
アメリアは軽く微笑むと、手を離した。
「じゃあな、テリー」
ダークが出て行こうとすると、テリーが慌てて呼びとめた。
「あ、あの、今度また話を聞きに行ってもいいかな? ダーク」
「ああ、構わねえよ。まだしばらくはこの町にいるつもりだからな」
二日後の早朝、レイ達は荷物をスーツケースにまとめて家を出た。レイの傷はすっかり治っていた。町の外れにある幹線道路のバス停まで歩き、そこから長距離バスに乗る。レイは何度も後ろを振り返った。引っ越しは慣れっこになっていたが、住み慣れた頃に町を離れるのはやはり悲しい。だが、それ以上に辛いのは親しくなった友人と別れなければならないことだ。
「もう行き先は決めてあるのよ、レイ。心配はいらないわ」
お気に入りのワンピースを着たアメリアがにっこりと笑う。レイは前の日に買ってもらったばかりの赤いチェックのシャツを着ていたが、その明るい色合いも彼の悲しみを和らげることは出来なかった。
「おーい! レイ!」
後ろから聞こえてきた声にレイが振り返ると、紺と白のボーダーTシャツのテリーが懸命に自転車を漕いでくるところだった。きゅっと音をさせて自転車を止めると、テリーはちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。その胸に牙のネックレスはなかった。
「テリー! 見送りに来てくれたのか」
「まあな。もう少しで寝坊するところだったよ。あ、それと、ひとつお願いがあるんです、アメリアさん。兄貴からポラロイドカメラを借りてきたんで写真を二枚撮ってくれませんか」
「ええ、いいわよ」
レイ達は普段は写真に写されることを極力避けていた。だが、この時のアメリアはテリーの願いを快く引き受けた。 自転車を降り、アメリアにカメラを渡すと、テリーは横に並んだレイの寂しそうな顔を見てひょいっと肩に腕を回し、そっと呟いた。
「笑ってくれよ、レイ。俺、笑ってるお前が一番好きだからさ」
レイはこくりと頷くとテリーの為に精一杯の笑顔を見せた。アメリアはテリーの言った通り写真を二枚撮った。
「これは、お前にやる。俺のこと忘れないでくれよ。もう一枚は俺が持ってる。お前のことを忘れない為にね」
そこに写っているのは朝日に輝く街並みを背にして肩を組み、幸せそうに微笑む二人の子供。一人は人間、一人はヴァンパイア。種族は違っても、時が過ぎても、写真の中の二人の友情は変わらない。永遠に。
「それじゃ、元気でな、レイ。また会えるといいな」
テリーはそう言いながらレイに片手を差し出した。レイはその手を強く握り返した。
「ああ。いろいろありがとう、テリー。元気でね」
テリーは笑顔で頷くと再び自転車に跨り、軽く片手を上げ、ゆっくりと走り去っていった。
「さあ、行きましょう、レイ」
アメリアがスーツケースを掴んで再び歩き始める。
――次の町に行っても、また満月の日はやってくる。でも、せめて今だけはそのことは忘れよう。
レイは手に持った写真をそっと眺めながら、次第に強くなる日差しの中を母の後を追って歩み始めた。