黄石公異聞
故郷は趙に従属する小さな邑だった。国卿や士大夫の勢力争い、組織力学の果てに国政は秦よりに舵を切るが戦の捨て駒にされて邑は滅びた。
幸い、足を悪くしたが生きており行商として各地を放浪する。酒や女、学問娯楽といささかかじるが以前ほどに満足出来なかった。
何をしても虚しさを覚える。数年の試行錯誤の後に秦への妨害を行うようになった。復讐などという大それた物ではない。虚しいから計り、虚しいから戦った。
各地を歩き、それとなく秦が言われたくない話を流す。あるいは嫌がりそうな単語を飛ばす。俺とは別に反秦を異なっている奴らの資金源にそれとなく金を落とす。
微々たる計略を色々と行った。不満がありそうな者を見つけそれを口にした時、行動に出た時に視界におさまり頷く。
行動を肯定してやる。種に水を与えるように百の種から一の芽が出れば良く、更に百の芽から一の花実が出れば良いそんな作業だ。
宿場で雑穀の粥を胃に流し込む。美食は無意味だ心より旨くない。ただ餌と定め糧と信じ口にして噛み飲み込み腑で粉す。
時に荷運びの馬を連れての旅、俺は自らと問答する。俺と馬しかいない道の上でだ。
「泰山を匙で動かすようなものだ」
「匙分は動くだろうさ」
「楽しいのか」
「楽しくないからやっている」
「俺みたいに心から笑えなくしてやると」
「それだけの情念が湧けば良かったのにな」
乾いた風が空高くまで流れている。道の遥か上、雲が運ばれていった。
時に戦場に近づき過ぎて死にかけたり、役人に疑われ危うかったりと幸か不幸かまだ死んでいない。
時に韓が滅び、趙が滅び、燕が滅び、魏が滅び、楚が滅び、斉が滅び、秦王が統一を嘯いても私がやる事は変わらなかった。
数十度、軍を送らせた。数十度、多少の損害を負わせ。数十度、計を乱した。誤差程度の被害、半生を費してその程度。だがやる事は変わらない。
老年に差し掛かった頃、滅びた故郷の側を通る。背の高い草に覆われていた。
引き寄せられるように、草原の一角へ。墓があった。掘り起こして屍を。一つの髑髏を手に取った。
「大宰殿、直接お会いするのは初めてですね。遠くから何度か眺めていました。醜く声太られていても骨になって仕舞えば変わらない」
秦へと接近する方針の中心人物だった男だ。今は髑髏、命も金もない。"ぽい"と髑髏を投げ捨てると別の骨に気がついた。
知っている。何度か議論を交わした相手だ。名前は忘れた。
「友だった奴よ。口では与党が多いお前が勝ったが俺が正しかったな。この有様だよ」
馬用の鞭を振り下ろして骨を叩く、何度も何度も暗くなり星が出るまで……。
「疲れた。伍子胥の真似事などして何をしている。帰りたい邑はもうないのか」
思うに俺は人よりも幽鬼に近いのだろう。その晩は故邑から離れて野宿をしてまた歩みをはじめた。
その頃から、身体も頭も動きが悪くなっていった。歩く距離は減り、計略や兵法やその他各々について覚書を書き始める。
流れ流れて下邳にたどり着いた頃に覚書は三冊になっていた。もはや旅も難しく、ここに落ち着く。
秦王が博浪沙にて暗殺され損なった少し後、この地で一人の若造が目に止まった。婦女じみた所のある青年、だが長く秦の足を引っ張ってきた俺にはわかった。
そちらに気が向いていて不意に靴を落とした。若造は拾い差し出してくる気に食わなかった。
「履かせろ」
黙って履かせてきたので、そのまま靴を飛ばす。若造が拾ってきて無言で履かせる。
また靴を飛ばす。
「拾ってこい」
若造はこの糞爺殴ってやろうかという表情をしたが拾ってきて俺に靴を履かせた。気に食わなかった。
「明日またここに来い」
舌打ちして若造へそれだけ告げると俺は家に帰った。
翌日早朝、若造とあった場所に来るともう若造が居た。太公望の兵法書だとデタラメを並べて覚書を渡す。
何言ってんだこのイカれジジイはと言いたそうな目で若造は俺を見るが、覚書を開くとその場で読み始めた。
その場から帰ろうとする。
「あなたの名前は」
「黄……黄石公」
適当に思いついた名を名乗る。俺は砕かれた石だ。ただ歩くのの邪魔になるならば、転ばせられれば良かった。
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史書によれば留侯張子房は下邳の地で仙人から兵法書三略を授かり、秦の打倒と漢の建国に大功を上げたとされる。




