表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

【悲報】幼馴染を寝取った金持ちイケメン「お前の席ねぇから!」→どうぞどうぞ。実は俺、世界を救った英雄なんですけどね

作者: ラズベリーパイ大好きおじさん
掲載日:2026/06/11

王立アルセイド学院の大広間は、卒業を祝う華やかな灯りで満ちていた。高い天井からは幾重ものシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた床には金糸のような光が落ち、壁際には季節外れと思うほど豪奢な花々が飾られている。若き貴族子弟たちはきらびやかな正装に身を包み、楽団の奏でる優雅な旋律に合わせて笑い、踊り、将来の縁談や出世話に花を咲かせていた。


その中心に、ことさらに人目を集める一団があった。


学院でもっとも顔が良いと評判の青年レオン・ヴァルシュタイン。その金髪は照明を受けて眩しく輝き、仕立ての良い上着は一目で上級貴族の財力を思わせる。整った顔立ちだけを見れば絵画の騎士だが、口を開けば、その印象はたちまち剥がれ落ちる男だった。


彼の腕にしなだれかかるように寄り添っているのは、春色のドレスをまとったマイ。町娘の家に生まれながら、美貌と愛嬌で学院でも人気を集めてきた娘だ。長い睫毛、艶やかな髪、そして自分を好いてくれる者にだけ向ける甘い微笑み。彼女は幼い頃から、ある青年のすぐ隣にいるのが自然だった。


その青年こそ、広間の端に立つレイだった。


黒髪、黒目。背は高いが猫背ぎみで、顔立ちも悪くないのにどこか地味に見える。学院の制服を礼装に替えただけのような、飾り気のない黒い装い。華やかな貴族たちの中に混じると、不思議なほど印象が薄くなる男だった。知る者は少ないが、その肩や指先には、常人ではつかない種類の細かな古傷がある。だが今この場でそんなことに気づく者はいない。大半の者にとって彼は、幼馴染のマイに長年片思いしている、冴えない青年でしかなかった。


そして、その大半の認識をさらに強化するための舞台を、レオンはわざわざ整えていた。


「おい、レイ」


わざと楽団の音が切れた瞬間を見計らい、レオンはグラスを掲げながら声を張った。周囲の会話が波のように引いていき、広間の視線が一斉にレイへと向かう。


「聞いているのか、レイ。お前に話がある」


呼ばれた当人は、壁際の料理に手を伸ばそうとしていたところだった。皿の上のロースト肉を見つめていた視線をゆっくり上げ、レイは「ああ、はい」と気の抜けた返事をする。大広間の空気は、人が一人処刑台に上がる前の静けさに似ていたのに、彼だけが宴の続きのような顔をしていた。


レオンはその反応が気に入らなかったのか、口元を吊り上げて歩み寄った。


「お前、まだマイの近くをうろつくつもりじゃないだろうな」


ざわ、とあちこちで囁きが起こる。誰もが面白がっていた。学院生活最後の夜に、幼馴染を寝取られた冴えない男がどんな顔をするのか、見物してやろうという下卑た期待が場を満たしている。


レオンはマイの腰に手を回し、見せつけるように引き寄せた。


「はっきり言ってやる。マイはお前のような無能にはもったいない。彼女は俺のものだ。お前の席、ねぇから」


言い切ったあと、得意満面に鼻を鳴らす。周囲からくすくすと忍び笑いが漏れた。気の弱い者は目を伏せ、調子のいい者はレオンに媚びるように笑みを合わせる。


マイもまた、レイを見つめた。その瞳には、かつて木漏れ日の下で一緒に笑っていた頃の親しみなど微塵もない。ただ、少しの気まずさと、それを押し隠すための冷たさがある。


「ごめんね、レイ」


声だけは柔らかく、けれど中身は氷のようだった。


「私、格上の人と幸せになりたいの。レオン様みたいな、ちゃんと将来のある人と。あなたと一緒じゃ、いつまでも村の延長みたいな人生になっちゃうもの」


言葉が落ちるたび、広間の空気は薄く鋭くなっていく。幼馴染にそんなふうに言い切られれば、たいていの男は顔色を変える。怒鳴るか、縋るか、せめて唇を噛むか。そのどれかを期待して、皆がレイを見ていた。


だが、レイはぱちぱちと数度まばたきをしたあと、ふっと笑った。


それは作り笑いでも痩せ我慢でもなく、心底ほっとしたような、驚くほど晴れやかな笑顔だった。


「どうぞどうぞ」


広間が一瞬、理解を止める。


レイは本当に嬉しそうに肩の力を抜き、続けた。


「じゃあ、お幸せに!」


あまりにあっさりした返答に、笑っていた者たちの方が間の抜けた顔になる。レオンの口元がひくりと動いた。負け惜しみを浴びせられる準備はしていたが、荷物でも譲られたみたいに軽く手放されるとは思わなかったのだろう。


「……ふん、強がりを」


ようやくそう言ったが、言葉にはわずかな苛立ちが混じっていた。


マイも予想外だったのか、眉をひそめた。


「レイ、強がらなくていいのよ」


「強がり?」


レイは首をかしげた。


「いや、別に。むしろ助かったというか」


「は?」


「え、だってマイ、昔は可愛かったけど、ここ最近ずっと機嫌取り大変だったし。朝は高い菓子を買ってこい、昼はノート見せろ、夜は将来どうするのって詰められるし。俺、そろそろ怒られるのに慣れすぎて、それが日常になってたんだよね。よかった、正常に戻れそう」


広間のあちこちで、誰かが吹き出すのを堪える気配がした。マイの顔がみるみる赤くなる。


「なっ……」


「もちろん、幼馴染としては感謝してるよ。いろいろ勉強になったし。人は見た目が可愛くても中身がこう、なんていうか、将来設計に対して非常に貪欲なんだなって」


「レイ!」


「でもまあ、うん。合う人と幸せになるのが一番だよ。俺じゃ役不足というより、たぶん役違いだったんだろうし」


さらりと言ってから、レイはテーブルの上の菓子をひとつ摘み、「あ、これうまいな」と本当にどうでもよさそうに呟いた。


レオンが眉間に皺を寄せる。相手が崩れないどころか、身軽になったような顔でいるのが癪に障るのだ。


「負け犬の遠吠えだな。せいぜい一人で寂しく生きろ」


「いや、寂しいのは嫌だな。でも静かなのは好きかも」


「お前、自分が見捨てられたことを理解しているのか?」


「理解してる理解してる。だから、もう俺に構わなくていいよ。席がないんだろ?」


レイはレオンが放った言葉を、冗談のように軽く受け止めた。


「じゃ、邪魔になる前に帰るね」


そう言って、まるで空気の重さごと背中から振り落とすように、レイは出口の方へ歩き出した。


その後ろ姿を見て、レオンは勝ったはずなのに妙な居心地の悪さを覚えた。マイもまた胸の奥をかすめる小さなざわめきを振り払えずにいた。思い通りに捨てたはずの相手が、未練の一つも残さず去っていく。自分が価値あるものを選んだという優越感より、選ばれなかったことを惜しまれていない違和感の方が強かったのだ。


けれど、それを認めるのは癪だった。


「放っておけ、マイ」


レオンは大げさに笑ってみせる。


「あんな冴えない男、どうせこの先も何者にもなれん。お前は正しい選択をしたんだ」


「ええ、そうよね」


マイも笑みを作る。少しだけ声が上ずったのは、自分でも気づかないふりをした。


その時だった。


広間の外、王城の正門側から、鋭く高らかなファンファーレが鳴り響いた。祝宴用にしてはあまりに格式ばった響きで、場にいた全員がはっと顔を上げる。次いで、侍従長の通る声が廊下の向こうから連なるように届いた。


「謹んでお知らせ申し上げます。世界を救われし大英雄、黒髪の救世主殿、ご到着にございます!」


ざわめきが、先ほどまでとは比べものにならないほど大きく広間を揺らした。


「英雄様が!」

「本当に来られるのか?」

「まさかこの場に?」

「黒髪の救世主って……」

「数日前に魔王を討ったという、あの?」


学院の卒業祝賀会は、名目上は若者たちの門出を祝うものだった。だが同時に、世界に平和をもたらした正体不明の英雄を称える場でもあった。ほんの数日前、北方の瘴気帯のさらに奥、地図からも外れた滅びの地で、世界を脅かしていた魔王が討伐された。長く不気味に揺れていた魔力の異常がぴたりと止み、各地を覆っていた魔物の暴走も鎮静化した。王国も教会も帝国も、情報の断片を持ち寄った結果、たった一人の黒髪の英雄がすべての元凶を断ったのだと結論づけていた。


だがその英雄は名も家も明かさず、報酬すら受け取らずに姿を消していた。


今夜、この国王直々の招待によってようやく姿を見せると告げられていたのだ。


一瞬にして空気が変わる。先ほどまで同級生の痴話喧嘩を面白がっていた若者たちの目が、今や野心と打算で爛々と輝いていた。


レオンの表情もまた明るさを取り戻した。いや、先ほどよりよほど生き生きとしている。


「これは好機だ」


彼はマイに囁く。


「英雄と縁を結べば、我が家の立場はさらに強まる。父上もお喜びになるだろう」


マイはすぐにその意味を理解した。世界を救った英雄。王すら頭を下げるであろう存在。その傍らに立てば、社交界での価値は計り知れない。


「でも、そんな方にどうやって……」


「簡単だ。俺の家は侯爵家だぞ。相手がどこの誰でも、貴族社会の作法くらいは必要になる。案内役でも後援者でも、関わり方はいくらでもある」


レオンは自信満々に襟元を整えた。


「それに、英雄といっても所詮は人だ。美しい女と、有力貴族の後ろ盾があれば悪い気はしないさ」


その言葉にマイは少し考え、それから頬を染めるようにして笑った。


「じゃあ私、頑張ってみる。英雄様に気に入られたら、もっとすごい人生になるものね」


さっきまで幼馴染を切り捨てたばかりの口で、次は英雄を値踏みしている。しかも本人はそれを少しも恥じていない。彼女にとって人生とは、より高い場所へ移るための足場探しなのだ。


レオンはそんなマイを「向上心がある」と好ましく受け止めていた。自分も同じ種類の人間だからである。


広間の片隅では、出口へ向かっていたレイが、廊下からの喧騒を聞きながら小さく伸びをしていた。


「うわ、間が悪いな」


彼はぼそりと呟く。


「帰るなら今のうちだと思ったのに」


扉の前に立つ近衛騎士たちが一斉に整列し、中央の赤絨毯が開けられていく。もう普通に抜け出せる雰囲気ではない。レイは肩をすくめた。心底面倒そうな顔で、だが逃げ場もないので壁際に寄る。誰も彼に気を留めない。全員の意識は、まだ見ぬ救世主へ向かっていた。


そして、重厚な扉が開いた。


先に入ってきたのは王国近衛の精鋭たち、その後ろに王笏を携えた侍従長、さらに宮廷魔導士長と大神官、そして最後に、この国の王が姿を現した。年老いてなお威厳に満ちたその姿を認めた瞬間、会場の者たちは息を呑み、次いで一斉に最敬礼を取る。


「陛下、万歳!」


誰かの声をきっかけに、広間中が頭を垂れた。王の視線は静かに会場を見渡している。その表情には祝宴の華やかさとは別種の緊張があった。大切な恩人を迎える者の、深い敬意と責任感だ。


王は一歩、また一歩と赤絨毯を進む。


レオンは頭を下げながらも、視線だけで周囲を窺っていた。英雄はどこだ。王の後ろか、横か、それとも別の扉から入るのか。マイも呼吸を浅くしながら、その瞬間を待つ。


だが王は玉座側にも、中央の貴族席にも向かわなかった。


真っ直ぐに、広間の隅へ向かって歩き続ける。


ざわめきが起こる。皆が戸惑う。そこにいるのは、帰り損ねて壁際に立っている黒髪の青年だけだった。


レイは自分の左右をちらりと見た。隠れていた誰かでもいるのかと思ったのだろう。しかし当然、いない。


王はそのレイの目の前で立ち止まり、そして次の瞬間、信じがたいことをした。


深く、深く頭を下げたのである。


「レイ殿」


王の声が、広間の隅々にまで響いた。


「世界を救っていただき、本当にありがとうございました」


静寂とは、音がない状態ではない。人があまりの衝撃に、息をすることすら忘れた時に生まれるものだ。


今、大広間はまさにその静寂に包まれていた。


誰も動けない。誰も瞬きすらできない。レオンも、マイも、口を半開きにしたまま固まっていた。数息遅れて、理解不能の言葉が喉の奥から漏れる。


「……は?」


それはレオンだったのか、マイだったのか、あるいは広間全体の声だったのか判然としない。


レイは頭を下げる王を見て、困ったように頬を掻いた。


「いやあ、そんな大げさな」


「大げさなものですか。貴殿がいなければ、この国も、いや世界そのものが今頃どうなっていたか」


「ちょっと魔王を片付けてきただけですよ」


ちょっと、という言葉に、宮廷魔導士長が背後で顔を引きつらせた。大神官は感極まったように胸の前で手を組んでいる。


レイは本気でそう言っているらしかった。大したことをしていない、という顔だ。


「それより俺、席ないんで帰りますね」


苦笑しながらそう付け足すと、王の表情が一瞬で凍りついた。


「……何ですと?」


今度はレイが「あ」となった。言わなくていいことを言った自覚があったのだろう。


しかし時すでに遅い。王はゆっくりと顔を上げ、周囲を見回した。その眼光は、先ほどまでの感謝に満ちた老王のものではない。国家を背負う絶対権力者のそれだった。


「英雄殿の席が、ない?」


侍従長が青ざめる。


「ま、まさか、そのような……」


「この場は何のために設けられたと思っている。卒業生への祝辞ももちろんある。だが第一には、世界を救った恩人を迎えるためであろう」


王の声は低いが、底知れぬ怒気をはらんでいた。


「その英雄殿が、席がないから帰ると言った。これはどういうことだ」


誰も答えられない。会場の温度が何度も下がったように感じられる。


そこで、最悪の形で目立ってしまったのがレオンだった。なまじ先ほど大声で見せつけるようなやり取りをしていたせいで、周囲の視線が一斉に彼へ集まる。しかも運の悪いことに、広間の奥から一部始終を見ていた侍従も数人いた。


王の目もまた、ゆっくりとレオンへ向いた。


「説明せよ」


たった三文字で、侯爵家の跡取りであるはずの青年は膝から崩れ落ちそうになった。それでも必死に体裁を保ち、震える声で言う。


「へ、陛下、これは誤解で……」


「何が誤解だ」


王の言葉を遮るように、広間の後方から別の声が飛んだ。近衛のひとりではなく、先ほどまで見物人の一人だった男子学生だ。恐怖に震えながらも、この場で黙っていれば自分まで巻き込まれると本能的に悟ったのだろう。


「レオン様が、レイ殿に……いえ、英雄殿に向かって、『お前の席はねぇから』と……!」


その告発は堰を切ったように広がった。


「見ていました!」

「マイさんも一緒でした!」

「英雄殿を無能と!」

「皆の前で侮辱を……!」


さっきまでレオンに笑いを合わせていた者たちまで、今や競うように証言し始める。手のひら返しとはこういうことか、とレイは他人事のように思った。もっとも、本人はそれより早く帰りたい気持ちの方が強かったが。


王の視線がレオンとマイへ突き刺さる。二人の血の気が引いていくのが離れた場所からでもわかった。


「貴様ら」


王の一言に、レオンはついに膝をついた。


「へ、陛下! 私は存じ上げなかったのです! まさかこの男が、いえ、この方が英雄殿だとは――」


「知らねば侮辱してよいと?」


「そ、それは……」


「国家の恩人に席を与えず、無能と罵り、居場所はないと追い立てた。その罪は重い」


レオンは声を失う。普段ならいくらでも並べられる言い訳が、一つも口から出てこない。隣でマイが震え、唇を噛み締めていた。


そこでレイが小さく手を上げた。


「あの、別にそこまでしなくても」


全員がはっとそちらを見る。王でさえ、敬意を込めて姿勢を正した。


「レイ殿、もしご温情を賜れるのであれば――」


「いや、単純に俺、騒ぎ大きくなると帰れなくなるなって」


あまりに切実な理由だった。広間の数人が思わず顔を伏せる。こんな人に、どうして自分たちはあんな態度を取れたのだろうという羞恥が遅れて込み上げてきた者もいた。


だが王は首を横に振る。


「帰るなどと仰らないでいただきたい。貴殿に払うべき礼は山ほどあります。それに、貴殿を侮辱した件は別です」


王は侍従長に命じた。


「ヴァルシュタイン侯爵を今すぐ呼べ」


「はっ!」


「また、学院長と会場責任者も前へ」


数名の大人たちが蒼白な顔で進み出る。レオンはそこで初めて、自分一人の失態では済まないことを理解した。家が巻き込まれる。いや、もう巻き込まれている。


「陛下、お待ちください!」


レオンは床に額を擦りつける勢いで叫んだ。


「どうか、どうかご寛恕を! 私はただ、知らずに……若気の至りで……!」


「若気の至りで済むか」


王の声音は氷そのものだった。


「貴様は己の家柄と財を盾に、他者を見下し、価値を測り、侮辱したのだろう。相手が英雄と知っていれば媚び、知らなければ踏みにじる。そんな者に侯爵家を継がせれば、いずれこの国そのものが腐る」


言い終えると同時に、広間の扉が再び開き、息を切らせた中年の貴族が駆け込んできた。ヴァルシュタイン侯爵、レオンの父だ。普段なら威厳ある人物だが、王命で呼び出された今は顔色が土気色をしている。


「陛下、これはいったい……」


王は冷淡に告げた。


「お前の息子は、世界を救った英雄殿を公衆の面前で侮辱した」


侯爵の顔が凍った。視線がレオンに飛び、次いでレイへ向かう。黒髪。地味な装い。しかし王が頭を下げた相手。その事実だけで、全てを理解するには十分だった。


「……愚か者が!」


侯爵は息子を殴りつけた。乾いた音が広間に響く。レオンは横倒しになり、唇を切って血を流した。


「父上……!」


「黙れ! 何をしでかしたかわかっているのか!」


だが、今さら親が息子を殴ったところで、流れは止まらない。


王は厳然と宣告した。


「ヴァルシュタイン侯爵家は当面の全権を停止する。領地管理権の大半を王家預かりとし、家格は大幅に引き下げる。今後の査問次第では取り潰しもあり得ると思え」


広間にどよめきが走った。大減封どころではない。事実上の破滅宣告だ。


侯爵はその場に崩れ落ち、震える唇で「ありがたき……処分にございます」と絞り出すのが精一杯だった。もっと重い罰すらあり得たのだ。英雄への侮辱は、それほどの大罪である。


レオンは血の気の失せた顔で、信じられないものを見るように父と王を交互に見た。ついさっきまで、未来は自分のものだった。学院を卒業し、侯爵家を継ぎ、華やかな妻を迎え、英雄に取り入って、さらに上へ行く。そう確信していた。それが今や、家は傾き、自分は全ての視線の中で地に這いつくばっている。


そして、その転落の中心にいるのは、つい先ほどまで「席がない」と見下した相手だった。


マイの方もまた、顔を真っ白にしていた。彼女は自分がしがみついた“格上の男”が、音を立てて格下へ転がり落ちていくのを目の前で見ていた。しかも、捨てたはずの幼馴染が、世界最高の立場に近い存在として持ち上げられている。


理解が追いつかない。いや、本当は薄々と計算が始まっていた。誰に縋れば生き残れるのか、その答えはもう一つしかない。


「レイ……!」


マイはふらつきながら立ち上がり、レイのもとへ駆け寄った。先ほどまで冷えきっていた瞳に、今度は涙を滲ませている。彼女が得意とする、守ってあげたくなる表情だった。


「嘘でしょ……? レイ、あなたが英雄だったなんて……どうして言ってくれなかったの?」


「いや、聞かれなかったし」


「そんなの、だって、普通わからないじゃない! 私、ずっとあなたのことを……!」


言いかけて、彼女は周囲の視線を感じ、さらに涙を盛った。


「愛してたのに!」


その言葉に、広間の何人かがあからさまに顔をしかめる。さすがに無理があると思ったのだろう。


レイはといえば、困惑半分、呆れ半分という顔だった。


「いや、ついさっき格上の人と幸せになりたいって言ってたよね」


「それは、その……だって知らなかったの! あなたがそんなすごい人なら、違ったの!」


「それ、もう答え出てない?」


「違うの、レイ。私はただ不安だっただけ。将来が見えなくて……でも今ならわかるの。あなたこそ私の運命の人だったんだって」


言いながら、彼女はレイの袖に手を伸ばした。


レイは一歩、自然に下がってそれを避ける。


「いや、さっき譲ったんで」


彼の声は穏やかだったが、そこで完全に線を引いた。


「レオンとお幸せに」


その一言は、どんな怒声よりも冷たく、そして決定的だった。


マイは目を見開いた。自分が他人を切り捨てる側であることには慣れていたが、自分が見限られる側に立つ想像をしてこなかったのだ。


「ま、待って、レイ、私は――」


「大丈夫。お似合いだと思うよ。将来とか、格とか、そういうの気にする者同士で話が合うだろうし」


「そんな……」


「ほら、さっきレオンも言ってたじゃん。お前の席はねぇって」


レイはそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。


「でも今、俺の隣の席はもう埋まってる気がするから」


その言葉の意味を、マイはすぐには理解できなかった。だが、次の瞬間、その答えが向こうからやってきた。


「レイ様!」


鈴のように澄んだ声が響き、広間の奥から鮮やかな金の髪をなびかせた少女が現れる。王女アリシア。この国の第一王女にして、聡明さと美貌で名高い存在だった。その後ろには白銀の法衣をまとった聖女セラフィナまでいる。さらに少し遅れて、帝国からの留学生でありながら宮廷にまで名を轟かせる女騎士エルザまで駆けつけてきた。


明らかに、場違いなくらい豪華な面々である。


アリシアは息を弾ませ、レイの前でぴたりと足を止めた。


「ようやく見つけましたのに、帰るなどと言わないでくださいませ! わたくし、ずっとお礼を申し上げたかったのです!」


セラフィナも胸の前で手を組み、潤んだ瞳で言う。


「あなたが瘴気の淵で倒れている私を助けてくださらなければ、私は今ここにいません……」


エルザは腕を組みながら、しかし耳だけわずかに赤い。


「借りは返すと言っただろう。勝手に消えるな、馬鹿」


誰もが息を呑んだ。国中の憧れを集める女性たちが、揃いも揃って黒髪の地味な青年を囲んでいる。その構図だけで、レイの格がどれほどのものか思い知らされる。


マイの顔から、最後の色が消えた。


彼女はようやく理解した。自分は“格上の人”を選んだつもりで、比べることすら許されない高みにいた男を自分から捨てていたのだと。


しかもその男は、もう振り向かない。


「……レイ」


か細い声で名を呼んでも、返るのは温かな幼馴染の眼差しではなかった。


レイはアリシアたちに囲まれながら、しかし少しだけ気まずそうに笑っていた。


「いや、だから大したことしてないって」


「大したことです!」


アリシアが即座に言い返す。


「魔王を討伐し、邪神の核を砕き、崩壊する魔界から皆を連れ帰った方が、なぜそうも自己評価がお低いのです!」


「いや、邪神の核って言っても、あれ硬い石みたいなもんだったし……」


「石ではありません!」


セラフィナが珍しく強い声を出した。


「世界を蝕む災厄の権化です!」


「そうだぞ。私は横で見ていて足が震えた」


エルザが真顔で頷く。


「レイは『じゃ、割るか』とか言って拳で砕いたが」


広間にいた全員の思考が、また止まった。


拳で?


魔導具でも聖剣でもなく?


そんな空気をよそに、レイは「あれ、そんな大層なものだったのか」と本気で首をかしげている。


王は深く息を吐き、半ば諦めたような、それでいて誇らしげな表情で言った。


「レイ殿がいかにご謙遜なさろうと、功績は覆りません。本日この場で正式に宣言いたします。レイ殿に王国最高位に準ずる特別爵位『暁天公』を授与し、莫大なる褒賞金、王都中央の邸宅、並びに永久顧問の地位を贈る」


どよめきどころではない。悲鳴に近いざわめきが広間に広がる。暁天公。新設の、事実上どの貴族より上に近い称号だった。王族を除けば、もはや誰もが頭を下げるしかない位置にレイは置かれたのだ。


レオンは完全に膝を折ったまま動けなくなった。さっきまで見下していた相手が、自分が一生かかっても届かない高みへ、一息で飛び上がってしまった。いや、本当は最初からそこにいたのだ。見えていなかったのは自分の方だった。


周囲から刺さる視線が痛い。嘲笑、軽蔑、憐れみ。どれも耐え難い。だが何より辛いのは、自分が放った言葉が、そのまま自分に返ってきていることだった。


お前の席はねぇ。


今、この広間で本当に席を失っているのは誰か。答えは明白だった。


マイもまた、足元から崩れていくような感覚に襲われていた。レオンの隣も、英雄の隣も、自分の居場所ではない。自分はいつも、誰かの価値に寄りかかって上へ行こうとしてきた。だがその結果、最後にはどこにも立てなくなった。


「そんな……私、どうしたら……」


思わず漏れた呟きに、誰も答えない。もう彼女を甘やかしてくれる幼馴染はいないし、利用価値を見出してくれる貴族もいない。彼女が求めた“席”は、全部自分の手で蹴り飛ばしたのだ。


一方で、当のレイは大仰な授与宣言に頭を抱えたくなっていた。


「爵位とか邸宅とか、管理面倒そうだなあ……」


「面倒ではありません!」


今度は侍従長までが参加してきた。


「必要な手続きは全てこちらで整えます!」


「いや、そういうことじゃなくて、俺、本当はしばらく寝たかったんだけど」


「寝てくださいませ! 最高級の寝台をご用意します!」


アリシアが目を輝かせる。


「お食事も、湯浴みも、護衛も、書類仕事の代行も、全部手配いたしますわ!」


「俺の自由は?」


「可能な限り確保いたします!」


王が咳払いした。


「……まずは宴に戻っていただけませんか、英雄殿」


「いや、その宴で席がなかったわけで」


王は振り返り、会場責任者に雷を落とした。


「最上席を用意せよ! いや、足りん。王族席の中央を空けろ!」


「かしこまりましたぁ!」


半泣きの会場責任者が転びそうになりながら飛んでいく。先ほどまでレイに無関心だった給仕たちが、今度は貴重な壊れ物を扱うような慎重さで動き始めた。


その喧騒の中、レオンが這うようにしてレイの足元へ近づいてきた。


「レイ殿……!」


誰もが眉をひそめる。まさかまだ何か言うつもりか、と。


レオンは額を床に擦りつけた。


「どうか、お許しを……! どうか私の愚行を、若気の過ちとして……! 家だけは、家だけは……!」


レイはしばらく彼を見下ろし、それから困ったように口を開いた。


「いや、俺に言われても」


「お願いです! 貴方が一言、寛大なお心を見せてくだされば……!」


「さっきまで無能って言ってた相手に、ずいぶん頼るね」


その一言で、レオンの肩がびくりと震えた。


レイは冷たく突き放したわけではない。ただ淡々と事実を述べただけだ。その平熱の声の方が、レオンにはよほど堪えた。


「俺、別にお前のこと恨んでないよ。正直、そこまで興味ないし。でも、恨んでないのと、責任が消えるのは別だから」


「……っ」


「自分でやったことだろ。なら自分で受けなよ」


それで終わりだった。裁くでもなく、救うでもない。見放されたのではない。ただ、相手にされなくなったのだ。レオンはそのことに、ようやく本当の絶望を知った。


やがて広間の中央には急ごしらえとは思えぬほど見事な席が整えられた。王族席の真ん中、王の右に国賓席、そのさらに隣に王女。そこへ当然のように案内されるレイの姿を、卒業生たちは夢でも見ているような気持ちで見送る。


ほんの少し前まで「冴えない黒髪」としか思っていなかった男が、今や国中の希望そのものとして扱われている。


いや、扱われているのではない。最初からそうだったのだ。


席に着いたレイは、ようやく一皿目の料理にありつけた。湯気の立つ肉料理を前にして、彼は心底安堵したように息をつく。


「ようやく食べられる……」


その一言で、隣の王や王女が思わず笑う。世界を救った英雄の望みが、静かに飯を食うことなのだから、拍子抜けするやら愛おしいやらである。


宴は再開されたが、その色はもう完全に変わっていた。誰もがレイの機嫌を損ねまいと気を配り、少しでも視線をもらおうと必死になる。老貴族たちは娘を紹介したがり、若者たちは友誼を結びたがり、商会主たちは投資先を持ちかけようとする。だがレイはそのどれにも大して食いつかず、旨い料理と静かな時間を求めるばかりだった。


むしろ彼が多少なりとも心を許しているのは、魔王討伐の旅を共にした面々だけだった。


「レイ様、こちらの魚料理もお召し上がりください」


セラフィナが取り分ける。


「ありがとう」


「ワインは? 帝国の珍しいものを持ってこさせた」


エルザが勧める。


「あとで少しだけ」


「デザートはわたくしが選びますわ!」


アリシアが楽しげに言う。


「いや、みんな急に世話焼きすぎない?」


「当然です」


三人が揃って即答し、また周囲がどよめく。国王はそんな様子を見て目を細めた。英雄を巡る競争は今後さらに激しくなるだろう。だが少なくとも今夜だけは、レイに不快な思いをさせたくない。


王は杯を掲げた。


「諸君。改めて、この国と世界に平和をもたらした英雄レイ殿に、最大の感謝と祝福を!」


広間中が立ち上がり、喝采が轟いた。さっきまで嘲笑が飛んでいた同じ口から、今は称賛が溢れている。その滑稽さを、レイは肉を噛みながらぼんやり見ていた。


人って忙しいな、と彼は思う。


その一方で、広間の端にはまだレオンとマイが取り残されていた。正確には、取り残されたのではなく、誰も手を差し伸べなくなったのだ。先ほどまで彼らの周りに群がっていた取り巻きはきれいに消えた。会話を交わそうとする者すらいない。


レオンの父は既に近衛に連行され、詳細な査問のため別室へ移された。レオン本人もこの後拘束されるだろう。マイには家柄も後ろ盾もなく、今後学院卒業者向けの縁談市場で価値を保つのは難しい。英雄を捨て、没落貴族にすがった女という烙印は重い。


レオンはうつろな目で、遠くのレイを見ていた。そこには自分が欲したすべてがある。名誉、権力、尊敬、美しい女たち、王の信頼。だが、どれ一つとして金や顔だけでは届かないものばかりだった。


マイもまた、涙で滲む視界の向こうにレイを見ていた。幼い頃、村外れの丘で、二人で雲を見て笑っていた日々が脳裏に蘇る。あの時のレイは、今と同じように穏やかで、文句も言わず、自分のわがままを受け止めてくれていた。彼が特別だったから優しかったのではない。優しいからこそ、特別なことを成し遂げたのかもしれない。そんな当たり前のことに、今さら気づいても遅かった。


「お前の席はねぇから」


自分たちで吐いたその言葉が、呪いのように胸に刺さる。


席がないのは、もうレイではない。


宴も終盤に差しかかった頃、レイはようやく少しだけ落ち着いた。王や王女、重臣たちとの挨拶も一巡し、最初の熱狂が少し収まったのだ。もっとも、視線はいまだに集まり続けているし、明日からはもっと面倒なことになると確信できたが。


王が柔らかな声で言う。


「レイ殿、これからのことですが、王都に常駐していただく必要はありません。ご希望があれば自由に旅を続けられて結構です。ただし、いつでもこの国は貴殿を歓迎する」


レイは少し考え、それから笑った。


「それなら助かります。しばらくは本当にのんびりしたいんで。南の海でも見に行こうかな」


「でしたら護衛を」


「いらないです」


「最低限の随行を」


「もっといらないです」


王は苦笑した。


「ではせめて、どこかで困った時のために王家の紋章入り通行証だけでも」


「それは便利そうですね」


ようやく一つ受け取ってもらえて、侍従長が陰で安堵の涙を流している。


アリシアが身を乗り出す。


「では、旅のお供にわたくしも――」


「駄目ですわ、殿下」


セラフィナが即座に止める。


「いえ、あなたも駄目だろ」


エルザが突っ込む。


そのやり取りに、レイは思わず笑った。重いものを背負って帰ってきたはずなのに、こうして誰かと言葉を交わしていると、少しだけ実感が薄れていく。


魔王討伐は確かに大変だった。道中は瘴気まみれで、景色は最悪、食事は硬い保存食、仲間は強いが癖が強く、最後の邪神の核に至っては思った以上にしぶとかった。けれど終わってみれば、やはり彼にとって一番難しいのはこういう華やかな場所で息をすることだった。


「レイ殿」


王が改めて告げる。


「今夜のこと、心から詫びよう。恩人に不快な思いをさせた」


「もういいですよ」


レイは素直に答えた。


「むしろ、いろいろ片付いたんで」


その視線が一瞬だけ、広間の隅へ向く。そこにはもう、誰も近づかないレオンとマイがいた。


幼馴染への未練は、正直なところ、思っていたよりずっと前に薄れていたのかもしれない。彼女が変わっていくたび、あるいは自分が変わっていったせいで、二人の間にあった昔の距離は、もう戻らないところまで離れていたのだろう。今夜それがはっきり形になっただけだ。


ならば、もう十分だ。


宴が終わり、王城の外に出る頃には、夜風が酔いと熱を静めてくれていた。見上げれば星が綺麗で、世界がちゃんと続いていることがわかる。魔王もいない。邪神もいない。幼馴染の揉め事も、一応は終わった。ついでに、面倒な貴族の若造も自滅した。


やっと全部終わった、とレイは思う。


だが、その左右には当然のようにアリシアとセラフィナとエルザが並んでいたし、少し離れた後方には護衛と侍従が控え、さらに王城正門前には褒賞品の目録を抱えた役人たちが列を作っていた。


「……あれ」


レイは足を止めた。


「のんびりする予定、どこ行った」


アリシアがにこりと笑う。


「これからですわ!」


セラフィナも優しく微笑む。


「全力でお手伝いします」


エルザは肩をすくめた。


「諦めろ。有名人だ」


レイは夜空を仰いだ。世界を救ったその日より、たぶん今この瞬間の方が遠い目をしていた。


「あーあ」


本当に心の底から、しかしどこか晴れやかに、彼は呟いた。


「やっとのんびりできると思ったんだけどな」


その贅沢すぎる愚痴を聞いて、周囲の皆が笑う。世界は平和で、星は静かで、彼の前には面倒くさくて少し賑やかな未来が広がっていた。少なくとももう、誰に「お前の席はねぇ」と言われても困ることはない。彼が歩く先には、最初からちゃんと彼の席が用意されているのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ