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シェフの大村さんが失恋するたび料理のメニューが増えるレストランの話  作者: ゴオルド


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第2話 大村さんと人妻

 私は大村さんに未練はない。だから彼をシェフとして、あるいは一人の男性として客観的に見ることができる。


「大村シェフって、なんていうのかな、仕草がセクシーなのよ。フライパンを持つ手つきにも色気があって、私ドキッとしちゃうの」

「でへへ」


 今の大村さんは、馬鹿だと思う。


 その常連客は、今日もランチタイムにあらわれた。超絶ミニスカを穿き、明るく染めたロングヘアをふわふわと揺らしている。人を殴るのにちょうどよさそうな黒々としたハンドバッグを細い腕にひっかけて、ハイヒールにはばかでかいリボンがついている。

 年齢はおそらくアラフォー。年上女性の大胆な色気に大村さんはメロメロだ。しかし、彼女の左手の薬指で光っている金の指輪は、うっかり見逃すことなんてあり得ないほど太くて存在感があった。


「さとみさん。あれオーダー取りにいったほうがいい……ですよね?」

 フロア担当バイトの大学生の春斗(はると)くんが、笑いかけながら私に確認してきた。口の端をちょっとあげて意味ありげな表情を作っているつもりなのだろうが、もとの顔立ちがさわやかな好青年なので、意味ありげ、というほど何かを匂わせる雰囲気にはなっていない。でも、私は春斗くんが何を言外に匂わせようとしているのかわかった。


 フロアの奥にある特等席のほうへ目をやる。そこは葡萄の彫られた木の衝立で囲まれていて、個室っぽくなっている席だ。そちらに案内されたマダムは、何も注文せずに大村さんと話し続けていた。時折嬌声があがる。大村さんの笑い声はそれを上回る大ボリュームだ。


「そうね。行ったほうがいいね。入店してからもう30分ぐらい経つもんね。春斗くんが行ってくれる?」

「嫌です。不倫の邪魔をしたら大村シェフに逆恨みされそうですから」

「だよね、私も行きたくない」

「誰か行ってよ」

 男性の声が会話に割り込んできた。春斗くんよりも年のいった声だった。厨房の奥のほうを振り返ると、副シェフの波田さんが、もうもうと立ちこめる湯気の向こうで半泣きだった。彼は私と同い年の29歳だが、私よりずっと若々しい。金髪だからだろうか。私も金髪にしたら若く見えるのかな。……いやあ、そんなわけないか。


「オーダー取って、ついでにシェフを連れ戻してきてよ。こっちは人手が足らなくて天手古舞いなんだから」

 そう言いながら茹であがったパスタをてきぱきと四つのフライパンに分けて、とっかえひっかえ炒めていく。その合間にマッシュルームのソテーのフライパンを見て、アクアパッツァ用に鯛を蒸し焼きにしているフライパンも見ている。

「波田さんは凄腕シェフだから、お一人でも大丈夫そうですが」

 そう言う春斗くんに、私も同意して頷く。

「だよねえ、6つのフライパンを操れる男だし」

 波田さんには異名があった。それは「同時に6つのフライパンを操れる男」というものだ。大村さんが彼の手際の良さを褒め称えて、そういうあだなをつけたらしい。


 波田さんは、大村さんが他店から引き抜いてきたシェフだ。

 つまり、かなり有能。


 でも、有能だからって彼にばかり仕事をさせていたら、アピアに愛想を尽かして、別の店に引っこ抜かれてしまうのではないだろうか。そうなったらアピアは倒産の危機だが、でも、そのほうが波田さんのためかもしれない。彼は長い付き合いの彼女とそろそろ結婚したいと言っていたし。うちよりもっと給料の多い店に移ったほうがいいと思う。あるいは独立して自分の店を持つのも良いかも。

 アピアはいい店なのだが、料理がお手頃価格なのもあって、従業員の給料もお手頃価格なのだった。


「でもさ、あの人妻って昨日も来てたじゃない?」

 私はエスプレッソを抽出しながら春斗くんに話す。

「昨日だけじゃなくて、ずっと来てくれてるじゃない? うちのランチがそんなに気に入ったのかしらないけれど、平日の昼は毎日3時間ぐらいうちにいる常連さんじゃない?」

 春斗くんが長い指で白いカップを並べてくれながら頷く。彼のまっすぐな前髪が、動きに合わせてさらさらと揺れる。

「さらにいうと、大村さんはあの人妻と話すのをとっても楽しみにしてるじゃない? 邪魔しづらいよね」

「ええ。俺も常連さんがシェフと楽しく話してるのを邪魔するのは気が引けます」

「だよねえ」

 春斗くんは私が淹れたエスプレッソを銀のお盆に乗せてフロアに戻り、お客様にサーブすると、すぐさま大股かつ早足でとんぼ返りした。

「大変です、あの人妻は離婚の相談をシェフにしてましたよ」

「まじか」

「いいからシェフを連れ戻してっ」

 そうはいっても。私も自分の仕事があるし。春斗くんに行ってほしいが、彼は配膳台に両手をついてしまった。これは話が始まる合図だ。

「実は、俺も彼女と別れてしばらく経つんですけど」

 私はデザート用のチェリージュビレを用意しながら、え、そうなの? と視線だけで答える。バニラアイスにサクランボと洋酒のソースをかけたチェリージュビレは、正確にはイタリアンじゃないけれど、客席で火をつけてフランベするから客ウケがいい。夜のデートにもってこいだと思って始めたメニューだったが、お手頃価格なのもあって案外ランチでも注文がかかるのだ。


「今気になる人がいるんです。というか、かなり好きかも。だけど、その人をどう口説いたらいいか、ちょっとわからなくて。それで同じゼミの女の子に相談してて」

「おお、青春だね」

「ん、まあ。それで、なんていうか相談しているうちに、そのゼミの子と変な感じになってきたんですよね。やたら飲みに誘われるし、自宅にも誘ってくるし、困ったなあって」

「ふむ」

 そんな話題をこんな職場であけすけに話すとか、いまどきの若い子はオープンだな。

「でも、直接好きって言われたわけじゃないし、告白されたわけでもないし、こっちから拒否するのもどうなんだって思ってて。でも、彼女はぐいぐい来てて。俺はそのゼミの子と付き合う気はなくて、俺は俺で別の人が好きだから」

「え、もしかして私にアドバイス求めてる?」

「はい」

「無茶だなあ、それは無茶だよ。私に恋愛のこととかわかるわけないじゃん」

「お願いだからっ、シェフを、誰かっ」

「でも」

 と、春斗くん。

「俺はさとみさんにどうしても話を聞いてほしかったんです」

「うん?」

 彼はじっと見つめてきた。

「さとみさんって、年下ってどう思います?」

「え、何が?」

「ああー! どうしてこの職場は全員自由なんだよ、協調性がなさすぎる!」

 波田さんが叫んだ。と同時に大村シェフが叫んだ。

「こちらのレディーに暗殺者のパスタを!」

「おっとオーダー入ったね」

「はい、良かったです」

「波田さん、暗殺者のパスタだってよ」

 暗殺者のパスタは、トマトと唐辛子のシンプルな味付けだ。フライパンで焦がすようにつくるから香ばしい風味となる。


「聞こえてるから! そうじゃなくて、シェフを連れてきてっ」

「わかった、一応声かけてみる。でもダメだったらごめん」


 私はチェリージュビレをサーブするためにフロアに行き、春斗くんもお会計のために厨房を離れた。私は約束を守る女。チェリージュビレをフランベして客席に火柱を立てた後、大村さんに厨房に戻るよう伝えた。予想どおりスルーされた。


 6つのフライパンを操る男は、7つのフライパンを操ることはできないらしい。


 たくさんの注文を一人でさばいていた波田さんはついにミスをした。暗殺者のパスタに異物混入が発生したのだ。蟹クリームコロッケの揚げる前のやつを間違えて入れちゃったらしい。もうやけくそになった波田さんはそのまま出した。いいだろ、どうせなんか怪しい人妻なんだし。そんな気持ちだったかどうかは不明だ。


「きょうの暗殺者のパスタ、まろやかでこくがあって、いつもよりずっと美味しいわ」


 大満足で人妻は帰っていった。

 そして、二度と来店しなかった。


 がっくり落ち込んだ大村さんが言うには、人妻は離婚して、アピア近くに住む男と一緒になって、引っ越していったらしい。そういう絵葉書が届いたそうな。今どき毛筆で。それも達筆で。あの派手でセクシーなスタイルとギャップがあるが、そういうのがモテる秘訣だったりするのかな。

「俺を口説くために毎日来店してたのかと思ったのに……」


 暗殺者のパスタにホワイトソースとカニ肉を入れた、クリーミーでぴりっと辛い「カニ殺し」はこうして誕生した。


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