屋上の夕日とニンニクと
蒸し暑い夕暮れ、マンションの屋上に僕はいた。スマホで夕日の写真を撮り、それをSNSにアップすると目の前のフェンスを眺めていた。フェンスの外には、女の子が立っている。見覚えのある地元の私立校の制服だ。十一階の屋上でフェンスの外にいるということは、そこから先に行けば落下するということである。僕はそれをただ眺めていた。
「ねえ、さっきから何見てるの?」
彼女が振り向いて,僕を見ている。夕日を背にした姿は、落ち着いているようにも見えた。
「ここに来たら、先に君がいただけだよ」
僕の答えに彼女は「あっ」と言葉をのんだ。その反応は、当然かもしれない。なぜなら、彼女は屋上から飛び降りるつもりなのだから。僕はそれを止めるつもりはなかった。かといって、彼女が飛び降りる瞬間を見たいわけでもない。ただ、その場所が空くのを待っていただけなのだ。
僕の言葉が気に入らないのか、彼女はチラチラと足元と僕を交互に見ている。止める素振りを見せない僕に気が逸れたのか、フェンスを超えて僕の方に駆け寄ってきた。
「あのう。何か言いたいことありますか?」
「あっ、何もないです」
「どうしてここに居るのですか」
彼女がグイッと顔を近づけ、僕を見上げた。一八〇センチを超える僕から見ても、彼女は高い方だと思えた。
「多分、理由はきみと同じ。だけど正直、これは想定外だ」
一歩引いて彼女から距離をとった。これ以上は何も関わりたくなかった。
「じゃあ、お先にどうぞ」
彼女が僕の後へと体を入れ替えていく。フェンスの前に僕の体が突き出された。高三の男子が、夕日を眺めながらマンションの屋上の端っこに立っている。飛び降りるならいまが一番なタイミングだ。彼女も同じなのだろう。飛び降りたいのだけれど、後ろで彼女が眺めているのが気になって、前に進むことができなくなった。
「あっ、今日は僕も気が逸れたというか。でも、困ったな」
「何がですか?」
「事故があるとここの出入りはできなくなるから、使えるのは一度だけだよ」
「確かに」
彼女は納得したのか、頷いてくれた。
「そこで考えました。一緒に使えばいいかなとも思いましたが、それだとあらぬ誤解を受けてしまうかなと」
「あらぬ誤解?」
屋上の風に肩にかかる髪をなびかせて、彼女は軽く首を傾げた。
「はい。僕とあなたが恋愛のもつれで無理心中とか、あとは思春期の悩みとか」
「なるほど」
「もちろん、そのような事実など無いのはお互い承知だけど、周りは面白く語るでしょうから。使うのならどちらか1人がいいと考えました。それで」
「それで?」
解けなかった推理小説のトリックを聞くように、彼女が視線を僕に向けてきた。
「それで、僕とあなたでどちらがここを使うか決めようと思いまして」
「それで、どう決めるのでしょう?」
「それがまだ思いつきません」
僕の答えを聞いて、彼女は黙ったまま俯いた。それを見ると、期待に応えられずに申し訳なく思った。僕は、こういう性格なのだ。人の期待に応えられないことが、自分の力不足を示していて、この世に存在する価値がないのかと考えてしまう。
「とにかく場所を変えて話しませんか? 何かいい考えが浮かぶかもしれない」
意外なことだけど、彼女は素直に提案を受け入れてくれた。
僕たちは、マンション近くのカフェへと場所を移した。
Lサイズのアイスコーヒで喉を潤し人心地つくと、ハァーと息が漏れた。生きていく上での本能的欲求である喉の渇きを満たすことは、一つの危機を脱したような気持ちになった。どうやら、彼女も同じようでアイスカフェオレに盛られたバニラアイスを口にして一息ついていた。
「さっきの話だけど、どちらが使うか決めるのにジャンケンというのもありかと」
「ごめんなさい。私、ジャンケン弱いんです。えーっと、誰でしたっけ」
「僕の名前は一宮剛。高三だよ」
彼女の名前は桜野衣吹で、一つ年下であることを知った。
「ジャンケンで決めるのは公平なのだけど、確かに何かこう満たされないな」
冷静になった頭で考えれば、死ぬ場所を確保しようとしているのだ。バカバカしいとは思ったけど、会ったばかりでお互いのことを知らない二人が、勝敗を決める方法を真剣に考える時間は、僕は嫌ではなかった。
「良いこと思いつきました。お互い得意な事を一つずつ挙げて、勝負するのはどうでしょう」
桜野がはっきりとした声で提案してきた。彼女は、真面目で目の前のことにひた向きになる性格ではないだろうか。ほんの30分前に屋上から飛び降りようとしていた表情ではなかった。
「いいね」
思わず声がでた。桜野が笑った。桜野の案で話を進めた結果、お互い得意なことを三つ挙げることにした。二人で向き合いながらメモ用紙に書いていく。桜野の手が動くのが見えた。僕の手は同じところで止まっていた。自分が得意なものが分からないのだ。
桜野の手が止まると、ひらりとメモを見せてきた。僕のメモ用紙は余白を大きく残し、自信のない文字が座っていた。気づかれないようにそっと引っ込めると、桜野のメモに注目した。可愛らしい丸みのある文字が並んでいる。バスケシュート、動体視力ゲーム、鬼ごっこに丸がついている。他にも押し相撲、短距離走、たこ焼きの早食い、ママチャリで遠出と小さく書かれていた。あと、高跳びにバツ印が付けられている。
「一宮さんは?」
手元に隠していたメモを彼女が興味深げに眺めていた。見せないわけにはいかず、小学生ができの悪い作文を提出するように手元に出した。メモには、バッティングの文字がある。彼女と比べると情けない気持ちになり、年上であることが恥ずかしくなった。
「バッティング。あっ、これは分かります」
笑って、バットを振る真似をしている。
「じゃあ、一宮さんの提案種目はバッティングでいいですか?」
他に競えるものがないので、頷くしかなかった。
「つぎ、私の種目はどれがいいですか」
彼女が記した種目を見ていく。
「鬼ごっこってどうやって勝敗をつけるの?」
「あーっ、何秒で相手を捕まえられるかとかでしょうか」
「君はともかく、僕が追いかけていたら捕まるよ」
桜野は「そんなことはない」と言っているが、逃げる女子高生を真顔で追っかけている男がいれば、どんな目で見られるか容易に想像がつくだろう。
動体視力ゲーム。これはおそらく光った場所をタッチして競うゲームだろう。ゲームセンターで見たことがある。反射系にかなり自信があるようだ。それならバスケシュートの方に希望がある。
……自分でおかしなことを言ったなと思った。希望が無いからあの場所に行ったのに、何を期待して希望などと言っているのか不思議だった。
「とにかく、バスケシュートなら僕もできそうだ」
二人で検討した結果、バスケシュートとバッティングで勝負することに決定した。この二つで勝負がつかなければ、彼女が最終種目として強引に鬼ごっこをねじ込んできた。
とにかく永遠の旅立ちの前に、真剣勝負をすることになった。二人で勝負ができそうなところは、近くにある複合遊技場だろうか。バッティングセンターからネットカフェまである施設だ。支払いは、彼女にもち合わせがないので、僕が支払うことになった。
複合遊技場の三階に僕たちはいた。ここには、バスケコートがあるスポーツエリアだ。半面のバスケコートに二人で入る。学生シャツ姿の僕に対して、彼女は紺のベスト姿である。どこから見ても高校生だ。
お互い勝敗の条件を確認した。ルールはシンプル。一本ずつ交代でフリースローをしていく。五本放った時点で多くゴールしている方が勝ちとなる。
彼女が先にシュートをすることになった。ボールを持つと、スッと伸びた手の先からボールが滑っていく。流れるような動作に息をのんだ。ボールはリングを外した。次に僕がシュートする。距離感がつかめず、リングの手前でボールが落ちた。二本目も桜野と僕はシュートを外した。三本目、彼女と僕がともにシュートを決めた。お互いピンと張り詰めた空気の中で勝負をしていた。四本目は僕が制した。五本目だ。桜野が放ったボールは、リングを滑りゴールへと入った。
(まずいぞ。これで僕が外したら、あの場所で彼女は死ぬかもしれない)
ふと彼女が先に死んでしまうのでは、という考えが浮かんだ。次の瞬間、僕の体は無意識にシュートを放っていた。ボールは、綺麗な軌道を描きリングの真ん中に落ちた。
「わーっ、凄いシュート。見事に決まったね」
彼女が目を輝かせて僕を見ている。気持ちのいい表情だった。
バスケシュートは偶然にも僕の勝ちとなった。となると、次の種目はバッティングだ。僕と彼女は、同じフロアにあるバッティングのエリアに移動した。勝算は僕にある。小学生の頃は少年野球のチームにいた。野球経験などおそらくないに等しい彼女に、負けることはないだろう。これに勝てばケリがつくのだ。桜野が難しそうな顔をしている。
「あのう。私、バッティングするの初めてなんですけど、ハンディはないのですか」
「さっきのシュート勝負だってハンディなかったろ」
「そうだけど。一宮さんも、経験はあったんじゃないですか」
確かに彼女の言うとおりだ。バスケは小学校の体育でもやる。バッティングはといえば、彼女に経験がないと言われたら、疑う余地はなく、それまでである。
「分かった。それなら、1回練習してもいいよ。君、運動は得意そうだからすぐにできると思うよ」
「う~ん、まだハンディとして十分ではないです。あーっ、一宮さんはこれで挑戦してください」
彼女は打席の扉に掲げているプレートに注目していた。そこには『最速170㎞/h』と記されていた。
「えっ、これはないよ」
「はい。決まりー」
桜野は僕を打席へと送りだした。打席に立つと、ピッチャーが投げる映像とともに球が飛んできた。
シュッという音を纏い球はそばを抜けていった。
(ヤバッ。かすりもしない)
まったく打てる気がしないまま、次の球が飛んできた。バットはブンと音をたてるのみだ。このあとも五球連続空振りをした。さすがに自信がなくなってきた。そもそも、飛び降りる場所を得るために、僕はいったいここで何に挑戦しているのだろうか。
「頑張れー。もう少し早めに振れー」
桜野の元気な声がボックス全体に響いた。端の打席にいた人までがこっちを見ている。その声に操られたのか、僕はバットを構えて打つ体勢をとった。
(打てないことはない。ワンテンポ、いやツーテンポ速く振ればいい)
球が飛んできた。自然と球の軌道が目に捕らえられていた。体が応えてタイミングよくバットが振りぬいていく。キンと気持ちいい金属バットの音がするとネットに掲げてあるヒットのボードに当たった。その後は、バットを振るたびに空気を打つだけで、結局まともに打てたのは、あのヒットだけだった。
彼女が練習で打席に入った。始めは全く球に当たらなかったバットが、後半はいい音を響かせていた。本番では、なんとホームランのボードに直撃をさせたのだ。ファンファーレの音が場内に響くと、彼女が跳び上がって驚いていた。それ以上に驚いたのは僕である。
「これどっちが勝ちなの?」
「間違いなく君だよ」
ハンディがあったとはいえ、これは完全に僕の負けだ。悔しい。自ら命を絶とうとしているのに、いまさら悔しいと思うのはなぜだろう。またおかしなことを考えていた。
勝負がつかない。このままだと鬼ごっこが待っている。それだけは避けたい。変質者には、見られたくない……。
「一勝一敗だね。次は鬼ごっこ」
「なあ、汗かいたから、シャワーでも浴びないか。ネカフェのエリアに確かあったはず。それから仕切り直しだ。あっ、それと腹減ったから」
彼女の言葉を遮り、強引にシャワー室へと向かった。鬼ごっこからとにかく遠ざかりたかった。
着替えはないが、肌はスベスベ状態に戻った。彼女は、髪を乾かすのに時間を費やしたようだ。
「なあ、腹減ったからなにか食べないか」
「あのー、屋上使用の件は」
「まあ、仕切り直しということで。とにかく何か食べよう」
彼女は納得ないながも、空腹を感じていたようで、食事に行くことを承諾した。当然、提案者の僕が奢ることになる。出費は痛いが、勝てばもうお金は使わないのだから、考えようによっては良かったのかもしれない。バイトをしていて正解だった。
僕と彼女は、並んでを歩いていた。今日初めて会ったばかりなのに、平気で横についている。恋人などではなく、友達ですらない二人が、当たり前のように並んで歩くのは、不思議でどことなく緊張した。
たどり着いた先は、山盛りで有名なラーメン屋だ。バイトの帰りによく立ち寄った店である。彼女は目を輝かせて「死ぬ前に一度は来てみたかった」とはしゃいだ。
券売機で大盛と焦がしニンニクのボタンを押した。彼女が小盛を押そうとしたので、先に普通盛のボタンを押してやった。この店の普通盛りは、食べ盛りの男子の胃袋をこれでもかと満たしてくれる量である。彼女が驚く顔を想像すると面白くなったのだ。
受け取った器には、チャーシューと野菜がびっしりと山になり占領していた。普通盛りでこの状態である。彼女が目と口を大きく開いて眺めている。大盛は倍だ。もはや麺がどこにあるのか分からない。
「こんなに食べられないよ」
「いい経験だと思うよ。どうせ消えるんだから」
そう言って笑いながら、心の中で呟いた。
(どうせ消えるのだから。僕が)
この山になっているラーメンを食べるのも最後だろうと考えると、たいした量には見えなかった。別皿で出された焦がしニンニクを豪快に盛られた野菜のテッペンにぶちまけた。
「これ、入れる?」
彼女に勧めると、興味ありの顔をしながら「臭うから、ヤッパいい」と首を振った。
「いや、これも経験だ。いまさら気にすることもないでしょ」
彼女の器に山盛りのニンニクをぶち込んだ。「あーっ」と声を上げながらも、意を決めて具材攻略を開始した。
「うん、いけるよーっ。もう、気にすることないか……」
何かを吹っ切ろうとしながら、無理に納得しようとする彼女を見ながら、僕も大盛制覇に乗り出した。
店を出ると言葉を交わすことなく歩いた。気まずい雰囲気ではない。二人ともお腹が重いのだ。それに加えて、口の中に広がるニンニクの香りだ。気にするなと彼女に言った自分が、何を気にしているのだろう。誰を気にしているのだろうか。
あてもなく街灯をたどり、着いた所は公園だった。とっくに日が落ちた公園は、灯りがともりボンヤリと遊具が浮かび上がっている。人がいない公園は一人だと寂しいが、誰かといると落ち着いた世界となる。彼女がブランコにポンと座った。ここで僕が隣のブランコに座れば仲のいい友達になれるかもしれないけど、僕は柵に腰を落とした。自分の臭いが気になったのだ。
「一宮さん。どうして、あの場所にいたのですか」
先手を打たれた。彼女は、前に後ろにとブランコを揺らしながら僕の方を見ている。その目は、まるで年上のような強さと優しさ感じさせた。僕よりも大きな経験を積んだ瞳をしていた。
そんな彼女が放つ光のせいなのだろう。躊躇うことなく子供の頃の話をした。
小学五年の夏だった。少年野球のチームでレギュラーになった。野球が好きだった。だけど、それ以上に母が試合を見てくれることが嬉しかった。母は、応援に来ることを笑顔で約束してくれた。母の期待に応えたいと試合に臨んだ。だけど、試合当日、母は姿を見せることはなかった。交通事故だった。逆走してきた車と正面衝突のすえ、その場で息を引き取った。それを知ったのは、試合が終わってからだった。
僕はその日から野球をやめた。大好きな母を死なせてしまった罪の意識は、時間が経つにつれ大きくなっていった。いつしか、期待に応えられない自分は、この世に存在してはいけないと思うようになった。
その思いが、些細なことでも、人の顔色を窺い、少しでも他人から落胆の言動を感じたら、過剰なまでに自分を責めた。そしていま、その責めに耐えきれなくなった。
そう語ったところで彼女の方に顔を向けた。公園の明かりのせいなのか、彼女の目は潤いをおびているように見えた。その目を見ながら、彼女がなぜあの場所にいたのか考えた。明るい性格、運動センスがあり、自分の意見をしっかりと持っている。見た目も十分可愛い高校生。あの場所とは無縁の人物としか思えなかった。
「じゃあ、君は、なぜ屋上に」
声をかけるのと同時に彼女が、ブランコを強くこぎはじめた。ジッと前を見つめ、何も聞き入れないという目をして懸命にこいでいる。勢いよく前に出たとき、フワリと飛んで体操選手ようにピタリと柵の前に着地をした。僕の前に立った桜野は、スカートをゆっくりと上げていく。その姿に全てを奪われてしまった。流れるようなシーンもそうだが、ゆっくりとスカートを|手繰っていくミステリアスな美しさから、目が離せなかった。ひざ下スカートが腿の中ほどまで上げられた。そこには細く引き締まっていながらも柔らかそうな白い足が見えた。
「一宮さん、何が見えますか」
「綺麗な足が見えます。何かスポーツやっていましたか」
彼女が期待していた答えなのか分からなかったが、素直な思いを伝えた。彼女は俯きながら寂しげな笑みを浮かべた。
「ありがと。私の右足、病気なの。病気だから切らないといけないんだって。これでも走り高跳び得意なんだよ。私、この足が好き。歩いて、走って、オシャレして。いままでずっと付き合ってきた。頭では、分かってるんだよ。切らないと生きることができないって。分かってるけど、この足が無くなるのは嫌……」
彼女の瞳から笑みは消え、涙が溢れていた。僕はこのとき初めて桜野という女の子の姿を見たのだ。
(そうだ。僕は今日、初めて桜野という女の子に会った。人見知りすることなく明るく、僕をリードして、応援して、笑っている。たとえ足を失ったとしても彼女はきっと、友達の前で笑うのだろう。周りの人は、彼女が元気で前向きに生きることに期待をして、彼女の笑顔に救われながら同情するのだ。そして陰で彼女は静かに泣くのだろう)
彼女の涙は頬を流れていった。なぜ、そう考えたのか。たぶん、僕も同じなのだろう。
母が亡くなって「僕のせいではない」と周りの人は言ってくれた。周りの人は、僕が母の分まで、元気に生きる姿を期待していたのだ。だけど、それが辛かった。耐えられなくなった。だから屋上に行ったのだ。
彼女の涙を見て、二人で過ごしていた時間が、楽しく感じた理由が分かった。
(お互いが、相手を生かすことに期待をしているんだ。それは、つまり、自分が死ぬことを期待している。期待されていることに疲れているはずの自分が、自分に期待している。だから僕は、この桜野を絶対に死なせたくない)
「鬼ごっこをしよう。あの場所は絶対に譲らない」
彼女と話してルールを決めた。ルールは単純だ。鬼と逃げ役を決め、捕まえるまでの時間を計測する。時間計測は、お互いのスマホを使う。捕まえたら鬼と逃げ役を交代する。捕まえる時間が短い方が勝ちだ。ただし、逃げられる範囲は公園内。
最初に鬼になったのは彼女だ。制服姿の彼女が公園の入口に立った。僕は反対側のフェンスまで離れた。公園の広さは教室三クラス分だろうか。遊具があり、フェンスで囲まれているので狭く見える。運動不足の僕に対する彼女の運動能力は分からないけれど、勝つためにはできる限り長く逃げるしかない。
「いくね」
彼女のかけ声で、お互いスマホをタップした。
髪を揺らし桜野が迫ってきた。思っていた以上に速い。あの足の美しさは、この運動能力あってこそだろう。
僕は、右側に逃げていく。桜野がヒュッと曲がり、追いかけてきた。すかさず遊具の滑り台の階段を駆け上る。小さな金属の段差で膝を打ったが、痛みなど気にしている暇などない。長身の僕にはきついが、何とか滑り台を降りた。桜野も後に続く。よそ見をする余裕などないが、チラリと彼女を見るとスカートを押さえて滑っていた。少し距離が開いた。
(よし、このまま端っこに逃げて)
全力で足を出そうとしたとき、胃が悲鳴を上げた。お腹が重い。思わず口を押え、ペースダウンして走った。何とかフェンスにたどり着き振り向くと、彼女が目の前に迫っていた。すぐさま足元に転がり避けようとしたが、素早く切り返されてすぐに捕まった。スマホをタップしてお互い見せあうと、五九の数字が確認できた。一分も逃げられなかった。荒れた呼吸を整えようとすると、ニンニクの臭いが口いっぱいに広がった。その臭いを打ち消すように呟いた。
(五九秒以内に桜野を捕まえることができなければ、桜野は明日の夕方には屋上から飛び降りるのだ。それだけは絶対に避けたい。避けたいんだ。やらないと)
自分が自分に期待する。辛いはずの期待を受けて、僕は自分を奮い立たせる。
荒い息が治まっていく。同時に僕の足は震えていた。怖かった。彼女を死なせたくないという思いが強まっていく。それに比例して負けてはいけないというプレッシャーが襲ってきた。足を踏み出し、公園の入口に向かう。彼女はフェンスの方へと歩いていった。
彼女にかけられる言葉なんて見つからない。どんな言葉も彼女には響かないかもしれない。だけど、これだけは確かだ。
(僕は桜野に生きていて欲しい。それが我儘でも桜野に生きていて欲しい。なぜ、そう思っているのか、いまはよく分からない。分からないけど、もしかしたらこの勝負に勝てば、分かるかもしれない。だから力づくでも止める。また自分に期待している……)
気持ちを切り替えるため、バットを振る動作をした。いまから立つのは真剣勝負の打席。やるべきことは五九秒以内に彼女を捕まえる。
「いいか」
声をかけると、桜野がスマホを掲げていた。足の震えはいつの間にか止まっている。
スマホをタップすると同時に、僕は真っすぐに駆けていった。桜野は左に逃げていく。ついて行こうとしたら足がもつれた。転倒を避け、桜野を追った。スカートを靡かせて、桜野が走る。美しく駆けていく右足に僕の視線は引き込まれていった。桜野が、素早くブランコの合間を抜けた。揺れるブランコに足をぶつけながら、必死で追った。桜野の足は速く、運動不足の僕では追いつけない。それでも、諦めることなどできなかった。いまは、死にたいなど心に思う隙間がない。あるのは「桜野を死なせたくはない」それだけだった。
(重い体が恨めしい。あれ、もしかしたら重いのは桜野も同じかもしれない)
足に力が入っていく。
(スピードで追いつけないのなら、先回りすればいい)
僕との差をひろげ、桜野は滑り台の方に逃げた。滑り台を駆けあがっていく。
(これがラストチャンス。もうあとはない)
桜野が滑り台を登りきる寸前に身長が高いのを利用して横から飛び上がり、彼女の身体ごと抱きかかえて落下した。一瞬、互いに目が合った。桜野の目は「なぜ?」と問いかけるような色をしていた。
高さにすれば三〇センチも飛んでいないが、桜野を抱えての落下は正直こたえた。僕の体がクッションとなり、桜野を包み込んだ。胃に居座るラーメンが飛びだすかと思い、口を押さえながらスマホをタップした。
桜野は動くことなく放心している。いきなり抱き下ろしたのだから無理もない。
「ごめん。大丈夫か?怪我してないか」
桜野は黙ったまま頷いた。スマホには五八の数字が点滅しているのを確認すると、桜野の頭から顔を背けて大きく息をした。
「僕の勝ちだよ。あの場所は僕が使う。でも、いまじゃない」
「ずるい」
桜野は、僕のお腹の上に乗ったまま動かなかった。
「このままだと期待に応えられないまま、死んじゃうみたいで、それが嫌だ。桜野さんが、僕に期待することがあれば、それに応えて死にたい」
僕の精一杯の言葉だった。自分が生きたいことに嘘はない。でもそれは、桜野という人間が、生きていてこそなのだ。
「くさいな」
桜野は、空を見上げていた。
「ごめん。ニンニク臭うかな」
「やっぱりくさい。まあ、私も同じか」
彼女が笑った。僕も笑った。口のなかはニンニクの香りで満たされていた。
(了)




