第7話 再決意
夢を見た。
決して忘れてはいけない。大切な夢だった。
まだ誰も目を覚ましていない早朝、頬を伝っていた涙の跡を落とすために階下へと降りる。
早朝独特の澄みきった空気と肌寒さを感じながら外へと出る。
玄関を抜け、裏庭の井戸へと向うと、息を吸い込むだけで肺がスッキリとするようだった。
ヴァンクは井戸から水を組み上げ、頭を冴えさせる為にも頭の上からバシャりと水を被る。
「冷たいな……」
水が額から頬へと伝い、顎を伝って地面へと落ちてゆく。
その冷たさが夢の残響を現実へと引き戻してくれる。
「……あいつを探さなければ」
普段夢なんてものは見ないが、昨日の夜にセイとクレールの話をしたからだろうか。あいつが俺の夢の中へとでてきた。
ここ最近みていた自分が生み出した幻影ではなく。あれは本物だった。
『――待ってる』
目が覚める前、最後に彼が言ったその言葉が今も心の中で風のように繰り返されている。
あいつが待ってる。ならば、自分のやるべきことは一つ。
必ず探し出して会いに行く。
迷う理由なんて、最初からなかった。
あの約束は、昔も今も、変わらず胸にある。
手のひらに力を込め胸元へぎゅっと手を押し当てる。
この五年間――何も見つからない苛立ち、焦燥、自分の無力さ。
いくら剣を磨いても、肝心なものには届かない。
そのたびに、別の誰かを救うことで「自分は役に立っている」と思い込もうとしていた。
「所詮、自己満足だったんだよなぁ……」
空を見上げため息をつきながら、昨日の夜にセイ言われたことを思い出し今更ながらにチクリと心が痛む。
そう、セイの言う通りだ。
俺はクレールを助けられないということを誰かを助けることにより自分の心を満たしてた。
――第三者をクレールの代わりにしようとしていた。
それを如何にも、"騎士"の役目だと格好をつけていただけだ。
自分の行いを思い返し、呆れて乾いた笑いがでる。
濡れた髪をタオルで拭きながら庭の方へと出るとセイが花壇の前に座り込んでいた。
草を踏む音に気づいたのかセイはゆっくりと振り返る。
「いい夢は見れた?」
その問いかけに、思わず俺はその場に立ち止まる。
朝の光を受けてきらめく、青い瞳が真っすぐに俺を見つめていた。
――見透かされているような感覚。
あの夢を見せてくれたのは、彼女だったのだろうか。
そんな思いが脳裏をよぎる。
「……ああ。久しぶりに、夢を見た。……俺の背中を、押してくれるような夢だった」
くしゃりと前髪をかきあげながら俺は静かにそう答えた。
「そっか」
セイはそれ以上なにも言わなかった。
ただ、ふわりと口元を緩めて優しく微笑む。
草花に囲まれた小さな庭の中で、風がふと、ふたりの間を通り抜けていく。
「……昨日、ありがとうな」
ふいに俺がそう言うと、セイは首を傾げた。
「ありがとうって?」
「……俺、多分あのままだったら、立ち止まったままだった。お前の言葉が、夢に繋がった気がする。クレールの……本当の声を、初めて聞けた」
セイは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐにそっと目を細めた。
「……やっぱり、会えたんだね」
「……ああ。あれは、きっと本物だった。今まではただ、俺の頭の中にいるような気配ばかりだったけど……昨日は違った。あいつは、“生きてる”って、そう思えた」
「それは、風が届けてくれたんだよ」
「……やっぱり、お前が?」
その問いに、セイははっきりと頷いたわけではなかった。
ただ、小さく笑って、膝の上で組んでいた指を見つめる。
「風はね、いろんなところに行けるから。人の想いも、記憶も、遠くに離れた魂も……全部、運んでくれるの。ほんの一瞬でも、想いが重なれば、会えることがあるんだよ」
「……風って、便利だな」
「うん。気まぐれで、優しくて、時々厳しい。でも、誰かのために動く時は、とっても正直だよ」
その言葉に、昨日の夢の光景が頭をよぎる。
あの懐かしい丘、あの言葉、あの瞳。
「……風が、俺を導いてくれるなら。俺はそれを信じて進む」
「ヴァンクは自分の進む道を見つけたんだね」
「……やっと、な」
言葉にしてみると、少し照れくさかった。
けれど不思議と、胸の奥に温かさが広がる。
セイはそんな俺を、まるで安心したように見つめていた。
そして少し間をおいて、そっと尋ねた。
「……ねぇ、ヴァンク」
「ん?」
「その人――クレールって、どんな人だったの?」
少し考えて、俺は空を仰ぐ。風がゆっくりと髪を揺らした。
「……少し変わったやつだったよ。おっとりしてて、ちょっと天然で。だけど、風の流れとか、動物の気持ちとか、誰よりも敏感に感じ取ってた。まるで、この世界の全部と会話してるみたいだった」
「……きっと、優しい人なんだね」
「そうだな。……でも、誰よりも芯が強かった。あいつにはいつも支えられてた気がする」
しばらくの沈黙。
セイは何かを考えるように、指先で小さな花のつぼみをなぞる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……いつか、その人に会えた時、きっと驚くと思うよ。きっと、いろんなことを乗り越えて、今の君にぴったりの言葉をくれるから」
「……お前、やけにクレールに詳しいな」
「ふふ。そうかな?」
はぐらかすように笑ったその顔が、どこか切なげにも見えた。
だけど今は、それ以上は追及しなかった。
俺はただ、風の中に微かに混じるあの声を信じることにした。
“風”という名の約束が、再び俺を動かし始めたのだから。
「――ありがとう、セイ。俺、やっぱりもう一度、探しに行くよ」
「……うん。私も貴方について行くよ。風が導く場所へ」
そしてふたりの間を、朝の光を含んだ風がふわりと吹き抜けていった。