第6話 静かな夜
挿絵あり
食後、皆で片づけを終えた頃には、外はすっかり夜の帳に包まれていた。
セイはシエルに手を引かれ、再び居間で絵本を読んでいた。
やがてページをめくるたびに、隣のシエルはうとうととまぶたを落とし、ついにはセイの肩にもたれかかって眠ってしまった。
「ヴァンク、シエルが寝た。」
セイにそう言われ、シエルを抱き上げようとしたが、彼女はセイの服をしっかり握ったまま離れようとしなかった。
「……参ったな」
「あらあら、シエルは本当にセイちゃんのことを気に入ったのね」
そんな二人をみて母は口元に手を当てふふっと笑う。
「……ここで寝ようか?」
そう言いながらシエルの頭を優しく撫でる。
「ベッドで寝た方がいいわ。ヴァンク、二人まとめて運べそう?」
「ああ、わかった。少し、失礼する」
ぱちくりと目を瞬かせるセイと、ぴったりとくっついたままのシエル。二人をそっと抱きかかえる
「……すごい、力持ち」
セイは驚いたように目を丸くしながら、恐る恐る俺の肩に手を添える。その手は小さくて、驚くほど軽かった。
「さすが毎日鍛えてるだけあるわね。おやすみ、セイちゃんまた明日ね」
ひらひらと手を振る母へセイも同じように手を振る。
俺はそのまま二階へと上がり客間へとはいる。
一度シエルを離そうとしたが、少しでも動かすと「やーっ」と声を上げて、さらにセイにしがみついてしまう。
「すまん、シエルが離れそうにない……今日はこのまま一緒に寝てもらってもいいか……?」
「いいよ」
客間の扉をそっと閉めると、部屋の中には、虫の音と風の気配だけが静かに残った。
シエルはセイにぴったりとくっついたまま、すやすやと寝息を立てている。その小さな寝顔を見下ろしながら、セイは毛布の端を整えた。
「よく眠ってるな」
俺がそう声をかけると、セイは小さく笑って頷いた。
「本を読みながら、何度も目がとろんとして……最後のページをめくる前に、こてんって」
「……こいつ、絵本の最後まで聞いた試しがないんだよな」
俺は部屋の壁に寄りかかりながら、ゆるく腕を組む。灯りは落としていたが、窓からの月明かりが淡く床を照らしていて、部屋の空気はどこか落ち着いていた。
セイはシエルの手を優しく取ったまま、そっと俺の方を見た。
「……今日はありがとう」
「気にするな。これが騎士である俺の仕事でもある」
そう言うと、セイは小さく「ふふ」と笑った。月明かりがその頬を優しくなぞっていて、その表情は昼間よりも少しだけ大人びて見えた。
「この家、あたたかいね。空気も、人も。すごく……落ち着く」
「そうか?」
「うん。風の音もやさしい」
風……。やっぱりセイは風に敏感だ。
その言葉に、俺の意識がふと過去へと引き戻された。
こんなふうに、夜の静けさの中で風の音を感じていた時間が、かつてにもあった。
まだクレールがいた頃。
アイツはよく、風の気配を感じては、なにかを言いたげに空を見上げていた。
『風は、どこまでも自由に行けるんだよ』
『ぼくも、そうなれると思う?』
夕暮れの丘の上、隣に並んで座って、そんな話をしたっけ。
「……クレールっていう幼なじみがいたんだ」
ぽつりと、思わず口に出していた。
セイは驚いたように目を瞬かせたが、何も言わずに続きを待っていた。
「昔、よく風の話をしてた。……あいつ、風を読むのが得意だったんだ。どこから吹いてくるか、どこへ向かってるか――何もない空を見て、感じ取ってた」
「……風と、話してたの?」
「そんなふうに見えたよ。……不思議なやつだった。動物にも好かれてさ。そういう自然と会話ができる特別な人間なんだろうな……でも、ある日、突然いなくなった」
風が、どこか遠くへ連れ去ってしまったように。
セイは少しだけ視線を落として、窓の外の夜空を見やった。月明かりが髪を照らし、草花の髪飾りがほのかに揺れる。
「その子を……探してるの?」
「ああ。……きっとまだ生きてる。あいつは、風に守られてるはずだから」
それは祈りにも似た言葉だった。
風に守られている――だって、あいつの力は風の女神様から授かったものだから……
月明かりの部屋に沈黙が落ちる。
「……じゃあ、今日助けてくれたのは、その子を助けられなかったことを後悔してるから?」
ふいに、セイがこちらを見つめてそう訊いた。
そのまっすぐな瞳に、俺は少しだけ言葉に詰まる。
「それも……あるかもな。でも、それだけじゃない。……困ってる人がいるなら助ける。ただ、それだけのことだ」
「そっか」
セイは微笑む。そして、俺が思っていたよりずっと自然な仕草で、シエルの頭を撫でた。
「……ねぇ、ヴァンク」
「ん?」
「もし……風が声を持っていたら、どんなふうに話しかけてくると思う?」
「……難しいな。でも、きっと――」
少し考えて、俺は言った。
「……『また会えたね』って、言うかもな」
セイは目を細め、風の音に耳を澄ませるようにしていた。
そして、まるでその言葉に返すかのように――
外の庭を、ひときわ柔らかな風がふわりと通り抜けた。
セイが風に耳を澄ませたまま、しばらくの沈黙が続いた。
その間、俺は黙って二人を見守っていた。
シエルの小さな寝息と、月明かりが揺らすカーテンの影が、静かに時を進めていく。
ふと、セイがこちらを向く。
「……おやすみなさい、ヴァンク」
囁くような声だった。けれどその声は、はっきりと心に届いた。
「おやすみ。……ゆっくり休め」
俺がそう言うと、セイはこくりと頷いて視線を落とす。シエルの髪をそっと撫で、横たわるようにベッドに身を沈めた。
扉を静かに閉じようとすると、背中に小さな声がかかった。
「……ねぇ」
「ん?」
振り返ると、セイは布団の中からこちらを見つめていた。
「……あなたの探してる人。きっと、また会えるよ」
その言葉に、不意を突かれたように心がざわめいた。
「……そう思うか?」
「うん。風がそういってる。風はね、どこにだって行けるから」
それは慰めでも、気休めでもなかった。ハッキリと断言をしたセイもやはり"特別"なのだろう。
俺は、ただ一言だけ返す。
「……ありがとう」
そうして静かに部屋を出た。
廊下を歩きながら、ふと気づく。
胸の奥、ずっと押し込めていた痛みが、少しだけ軽くなっていることに。
あの日、失った幼なじみ。
自分よりも繊細で、けれど強い心を持っていた少年。
クレール。
お前がいなくなってから、ずっと俺は答えを探していた。
何をすれば、どこへ行けば、お前を見つけることができるのか――。
でも、今夜だけは。
セイと、シエルと、母と過ごしたこの時間だけは。
昔の感情を思い出させてくれた。
自室へ戻り、ランプの灯りを落とす。
窓の外を見やれば、風がそっと揺れている。
お前もどこかで、こんな風に空を見ているだろうか。
俺の声が風に乗ってお前に届いたらいいのに。
こんな願いを込めて、静かに目を閉じた。
今夜は、風の音が、やけに優しく聞こえた。