第5話 ギシャール家
ヴァンクの業務もひと段落つき、執務室の窓を叩く風が夕暮れの訪れを告げていた。
「……行こうか、セイ」
近くのソファに腰掛けていたセイは小さく頷くと、足音を立てずに立ち上がった。
二人で本部を後にし、まだ所々瓦礫の残る街を抜ける。日が落ちかけた空は茜色に染まり、残光が建物の影を長く引いていた。
風が吹けば、土埃に混じって遠くから花の香りがふわりと流れてくる。
「ここが俺の家だ」
市場区から少しだけ外れた静かな通り。季節ごとの草花が咲き誇る道先にはこぢんまりとした二階建ての家が現れる。
ここはかつて騎士である父が建てたもので、今は母と妹と俺の3人で住んでいる。扉の前で靴の砂をトントンと払ってから、ヴァンクはドアノブを引いた。
「ただいま」
「おかえりなさい。あら、その子は?」
優しい声で俺達を出迎えたのは、母であるニーナであった。
夕ご飯の支度をしていたのであろう、コトコトと煮込んでいた鍋の火をとめ俺の方へと駆け寄ってくる。
俺の後ろ控えめに立っていたセイは俺の横に移動し母に向かいぺこりと頭を下げる。
「この子、セイって言うんだ。今日の街で起こった災害で泊まる場所が無くなってしまったらしい。数日ここにいさせてもいいか?」
「この子、一人なの?」と母が問いながら、まだ幼さの残るセイを心配そうに見つめる。
「一緒にいた人とはぐれたらしい。明日また探すけど、今夜はここに泊めたいんだ」
「そういうことならいいわよ。セイちゃん。はじめまして、色々あって疲れてるかもしれないけれどご飯は食べれるかしら」
優しい笑みを浮かべながら話す母を見て、セイはこくりと頷く。
ご飯の準備をするから座って待っててね。といい母はまた料理を作りに戻る。
母が夕飯の支度をする間、ヴァンクはセイに家の中を案内する。ダイニングの横には居間があり、小さな本棚と暖炉がある。階段を上った先には家族の部屋と、空き部屋として使っている客間があった。
「今日はここを使ってくれ」
客間の扉を開けると、少し古びたけれど清潔なベッドと小さな机が置かれており、木材の床が温かみを感じさせる。
この部屋は風が通り抜けやすい造りになっていて、カーテンがふわりと揺れ、窓の外には母が手入れしている庭がみえる。
「ありがとう」
セイは部屋の中を一瞥し、ゆっくりとベッドの縁に腰掛ける。
夕暮れに金色の光が射しこみ、庭の草花がほのかに揺れている。
その光景を、セイはしばらく静かに眺めていた。
夕日の暖かな光に照らされる横顔はとても穏やかな顔をしてる。
すると、背後で扉が軋む音がした。
「にぃに、その人だぁれ?」
扉の隙間から、小さな顔がのぞく。ぱっちりとした赤い瞳。妹のシエルだ。
「シエル、この子は……」
言いかけたところで、セイが静かに立ち上がり、シエルの前で膝をついた。
「私はセイ。今日寝る場所ないからお兄さんの家に泊まらせてもらうことにしたの。お邪魔してごめんね」
今まで口数が少なかったセイが話し出したため多少の驚きはしたものの、さらに驚いたのはシエルが扉の後ろからでてセイに抱きついた事だった。
ぎゅっと抱きつかれたままセイは一瞬だけ動きを止めた。
けれどすぐに、そっとシエルの背中に手を添え、小さく微笑む。
まるで、母と子のように――。
「セイちゃん。セイちゃん、こんばんわ。遊ぼ」
セイの名前を噛み締めるように呼び、額をグリグリとセイに擦り付ける。
「うん。いいよ。なにするの?」
「あのね、下に本があるから一緒に読んで欲しいの」
シエルに手を引かれながら階段を降りていく二人を、俺はぽかんと見送っていた。呆気に取られたまま、慌てて後を追う。
居間に降りると、母も少し目を丸くしていた。
「……あら、珍しいわね。あの子、人見知りなのに」
「セイとは、何か合うものがあるのかもな……」
居間からは妹の楽しそうにセイと話す姿が見える。
俺がそう言うと、母は静かに笑って頷いた。
「それもあるけど……あなたが、久しぶりに笑ってるからよ」
「……え?」
思わず、自分の口元に手を当てた。気づかないうちに、口角が緩んでいたらしい。
「……クレール君が居なくなってからもだけど、お父さんも居なくなってから貴方ずっと難しい顔ばかりしていたんだもの。」
母に心配をかけていたことに胸が痛み、言葉を失う。
「でも今は、ほんの少しだけ昔のあなたにもどったみたい。セイちゃんが来てくれたおかげなのかしらね」
「……心配をかけてごめん」
「いいのよ。貴方は貴方のしたいことをすればいいわ」
いつもの優しい目をして母は言う。
母のことだ。俺が何をしようとしてるかなんて気づいているんだろう。
これからもきっと心配をかけてしまうが母の言葉が胸にじんわりと染み渡る。
「ありがとう」
やがて夕飯の時間になった。
食卓には母のつくったシチューと焼きたてのパン、サラダなどが並んでいる。優しいランプの光が家の中にささやかな温もりが広がっていた。
「おいしい」
セイはちいさな両手でパンを持ち、口を小さく開けて一口食べると目を細めた。
「よかったわ。遠慮しないでたくさん食べてね」
「セイちゃん、これも!これも美味しいよ!」
シエルははしゃぎながら、サラダの器をセイの方へ押し出す。
「あのね、これ。シエルがお庭で作ったトマトなの。とっても甘くて美味しいよ」
「ほんとだ。甘いね。優しい味がする。」
セイがそう答えると、シエルは嬉しそうに身を乗り出した。そのやりとりを見て、母は目尻を下げて笑っている。
――なんだろうな、この感じは。
今日出会ったばかりの少女が、こうして当たり前のように家族と並んでいる。まるで、ずっと前からここにいたような自然さで。
心のどこかで張り詰めていた糸が、ふっと緩むのを感じた。
まだ名前しか知らない彼女に、なぜだか――安心する。
そして、心のどこかで小さく願っていた。
どうか今夜くらいは、セイが穏やかな夢を見られますように、と。