第12話 あの日の女
――夜が、まだ完全に明けきらない。
風が、ひとすじ窓を揺らし、薄いカーテンがふわりと持ち上がる。
東の空が淡く白み始めていたが、部屋の中にはまだ夜の静けさが残っている。
ヴァンクは、窓辺の椅子に座ったまま、一晩中ただ考え続けていた。
ベッドでは、セイが浅い呼吸を繰り返している。あれから一言も発さず、ただ眠り続けていた。
(……本当に、何者なんだ。お前は)
かつて――クレールもまた、風と対話していた。
だがセイは、「加護を持っていない」と言っていた。
嘘だったのか、それとも……別の理由があるのか。
そして先程、エリックが呟いた言葉が頭をよぎる。
――お前の妹は……加護持ちか?
シエル。あの白い鳥が運んできた薬を、妹は「薬だ」と信じていた。
直感だったのか? それとも妹もまた、風に選ばれていたのだろうか――
悩みに囚われていると、ふいにセイがうわごとのように呟いた。
「……風……守りが……消えてしまう……」
「セイ……?」
声をかけるも、反応はなくセイはすぐに眠りに戻ってしまった。
――翌朝
セイの体調は落ち着き、今は朝食を囲んでいる。
「あのね、セイちゃん。昨日、白い鳥さんがセイちゃんのためにお薬持ってきてくれたんだよ〜」
「そうなんだね」
セイは穏やかな笑みを浮かべ、シエルの話に頷いた。
「セイちゃん回復してよかったわね。もう本当に心配したんだから……」
母は安心した顔で言う。
「あぁ。でも、また倒れるかもしれない。早めにセイと一緒にいた人を探すつもりだ」
「それがいいと思うわ。身体の問題だけじゃなく、心の問題もあるでしょうし……」
ヴァンクは黙って頷いた。
セイは、何かを知っている――それは確かだった。
ならば、彼女の同行者を探ることも、国の“裏”に近づく鍵になるはずだ。
「セイ……今日だが、お前と一緒にいた人を探そうと思うんだが」
「いいよ。多分今日は街にいると思うから」
「分かるのか?」
「昨日来てた白い鳥は多分、あの人の使いの鳥だから……」
「そうか……」
午前 ― 王都・風見の広場
ヴァンクとセイは、王都の中心にある風見の広場へと向かっていた。
高くそびえる風見塔。その頂には、風の女神フルーヴェンを象った風見鶏が空を指している。
だが、今日に限ってその鶏は、風に煽られることなく沈黙していた。
「……風が、止まってる」
セイがつぶやく。ヴァンクも首をかしげた。
この国では珍しい。海風が必ず吹いているこの地で、風が途絶えるなど――
そのとき。
ヴァンクの前に、ひらりと白い羽が落ちてきた。
見上げると、昨夜も見た白い鳥が空を旋回していた。
――まるで道を案内するかのように
「行こう……あっちだって」
セイに促されるまま、二人は鳥の飛ぶ方角へと歩き出す。
やがて鳥は緩やかに降下し、ある人物の肩に舞い降りた。
「ヘル……」
セイはその女の人の所へ駆け寄る。
花壇の前にしゃがんでいた女は、振り向いてにっこりと笑った。
「セイ〜、私がいない時に無理をするなって言っただろう? 本当にもう……」
腰に手を当ててぷりぷり怒る女性に、ヴァンクは目を瞬かせた。
(……あの夜の)
肩を出した軽装、短いズボン、あの女神像の前にいた女性だ。
「君が……探していた人間だろう?」
女はセイの頭を軽く撫でてから、ヴァンクに向き直る。
「久しぶりだね、ヴァンク・ギシャール君。セイが君にずいぶん懐いてるようで」
「……お前は誰だ。なぜ俺の名を知っている」
「ヘル。ヘル・バーブル。そうだな……セイの保護者……みたいなものさ」
「保護者……? あの鳥も、お前の?」
「うん。セイが無茶をしないよう、こっそり見張ってたんだよ」
「何を企んでいる……?」
「……ああ、やだな。そう身構えないでくれよ」
そう言ってヘルはセイの手を取ると、低く囁くように呪文を唱えた。
「サナトゥ・レフィエル……芽吹きの導き、巡れ、形よ、よみがえれ――」
すると、セイの身体を包むように柔らかな光が揺れ、足元から風の粒子と共に、淡い緑の光が浮かび上がる。まるで芽吹く草花のように、細やかな生命の気配が彼女の周囲に広がった。
「どう? 少しは……楽になった?」
「うん……身体が軽くなった。ちゃんと、動かせる……」
「よかった。あちこち、ほころんでたからね。ちょっとだけ……整えただけさ」
不思議そうに見つめるヴァンクに、ヘルはさらりと肩をすくめる。
「簡単な“調整”だよ。魔力の巡りが悪いと、うまく動かないこともあるから」
「サナトゥ・レフィエル、って言ってたな。それ……回復魔法か?」
「うーん、ちょっと違う。どちらかと言うと“育てる”って言った方が近いかもね。……中身に合わせて、外側を調える感じ?」」
「君の目的はなんだ」
ヘルはすっと立ち上がり、ヴァンクの目をじっと見つめた。
「人間って、とても愚かだと思うんだ。守るふりして、壊す。大事なものさえ、簡単に」
「……それが、俺に何の関係がある」
「あるさ。君が“探している子”の運命にもね」
一瞬、空気が張りつめる。
「君に協力してほしい。私たちも“その子”を探す」
「……なぜ、そこまで?」
「悲しい人を、増やしたくないんだ」
ヘルはふっと目を細め、ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。
セイがそっとヘルの服の裾をつかむ。
「ヘル。それは……私のせいでもあるの。ヴァンクは、悪くないよ」
「わかってるさ」
小さくうなずいてから、ヘルは言った。
「信じるかどうかは、君次第。でも、今は“時間”が惜しい」
彼は一瞬、言葉を失った。
握りしめた拳に、力が入り、そして、深く頷いた。