第10話 記録庫
礼拝室を後にした俺たちは、再び長い石造りの廊下へと戻った。
陽はすでに傾き始め、ステンドグラス越しの光は夕色を帯びている。
「……セイ、さっきの“風の声がきこえない”って、どういう意味なんだ?」
俺がそう訊ねると、セイは足を止め、少し考えるようにうつむいた。
「風は……知らせることも出来る。人の声や感情……そういったものを運んでくる」
「……」
「でもね……この教会の風は、まるで“閉じ込められてる”みたいだった」
その言葉に、思わず振り返って礼拝堂の方を見やる。
「閉じ込められてる……?」
セイは言葉を継がない。ただ、胸元をそっと押さえていた。
何か、感じ取っている――俺には、そう見えた。
「セイ……警備が減る時間をみて記録庫へ行こう。教会の裏手に、地下へ降りる道がある。昔は神官たちが信仰や風の記録を保管してた場所だ。今は閉ざされてるが――何か、残ってる気がする」
だがここ数年で、教会の改革と共に「非効率」「古い」とされ、閉ざされている。
まるで誰かに見せたくないように隠したように急に……
セイはわずかに口元を引き締め、静かに頷いた。
「行こう。私も気になることがあるから」
そう言ったセイの声は、さっきよりも少しだけ、強かった。
✦︎✧︎✧✦
日が落ち、教会の中は静寂に包まれていた。
俺たちは視察を終えたあと、エリックに「もう少し中を見たい」とだけ伝え、勝手口の一つへと向かう。
「ここから先は、関係者以外立ち入り禁止って札があるね」
セイが呟く。けれど、その目には躊躇いは無かった。
蔦が行くのを拒むように覆う石壁の一角。半ば忘れられたように地下への道へと続く階段がある。
暗がりのなか、俺たちは静かにその階段を下りていく。
手すりは冷たく、石の階段は苔の匂いがかすかに漂っていた。
「……あった。あれが、記録庫の扉」
厚い鉄製の扉には、古びた錠前がかかっていた。
「クソ、やっぱり鍵がかかってる」
国の情報が書かれているものが保管されているのだ。当たり前のように厳重に鍵がかかっていた。
「ヴァンクどいて」
セイは俺の腕の服を引き少し後ろに下がらす。
「開けられるのか……?」
「多分」
セイがしゃがみこみ、風に触れるように扉の周囲をなぞる。
すると、鍵穴の奥で、かすかな風の音がした――
カチャン――
鍵が開いた音と共にセイは振り向く
「開いたよ」
小さく笑うセイの顔が、月明かりのようにほのかに光って見えた。
扉がきしみを上げながらゆっくりと開かれる。中からは、微かに乾いた羊皮紙と古い香油の匂いが漂ってきた。
「……すごい。本当に誰も使ってないんだね」
セイが感嘆の声をもらす。ヴァンクは頷きながら、小さなランタンの火を灯した。
風がひと筋、暗闇の奥からふわりと吹き抜けてくる。
セイがそっとその風に耳を澄ませるようにして立ち止まる。
「……風が呼んでる」
「呼んでる?」
「うん。奥の方、……あっちに何かある」
ヴァンクは目配せをして先に立ち、棚の合間を進む。やがて彼らが辿り着いたのは、部屋の最奥だった。
部屋には、埃に覆われた棚が並んでいた。羊皮紙、石板、祈祷文、古い風紋の写本……。様々な古い書物が置かれている。
「これ」
セイがそう呟き指をすものを見ると埃をかぶった一冊の分厚い書物だった。
表紙にはかすれて読めない銀の刻印――だが、中心に描かれている風を象った印は、セイにも見覚えがあった。
「これは……古の風神官の印だよ。今の教会ではもう使われてない……」
俺は手に取り、次々にページをめくっていく。
『フルーヴェンの風は、信仰と共に力を増す。民の祈りが、守りとなる』
『女神は、各地の子どもたちに加護を授け、その力を借りて世界を護る』
『女神の器は、信仰に関わらず力を行使できる特異な存在』
『器となる者を集約することで、神の力は強固なものとなる』
『経過観察を行い、必要と判断された場合は聖域へ――』
読み進めると、過去にも数人、女神の器に選ばれた子が存在したと書かれていた。
だが、そのほとんどが若くして命を落としているらしい。
「ヴァンク……」
セイが記録簿のようなものを片手に持ちやってきた。
嫌な予感がし震える手で記録簿捲る。
ページを開くと、年月日と地名がずらりと並んでいる。
読み進めるとある名前が並んでいた。
××××年 エティア地区 ■■■■ 聖域へ移送
××××年 プランテール地区 “クレール” 聖域へ移送
「連れて行かれた……」
かわいた喉から掠れた声が出た。
五年前、急に姿を消した親友。探しても見つからなかった理由。
国が女神の代わりにするために連れて行ったから――
「……聖域はどこだ」
ヴァンクの声が低く落ちる。
思わず握る手に力が入り、羊皮紙がしわを寄せた。
セイは無表情でそのページをじっと見つめていた。
「……風は。加護は…っ
人を……こんな扱いにしてはいけない」
ぽつりと呟いたセイの声は暗い部屋の中に消えていく。
「……やっぱり、この記録を探しにきて良かった。ね、ヴァンク」
「……ああ」
今まで集まらなかった情報が少し手に入った。
この1歩がクレールを探し出す、第一歩になる。
クレールのこと。女神のこと。この国の本当の在り方。
それらはすべて、一本の風に導かれて、今つながり始めていた――。
記録庫の空気がわずかに揺れた。
風ではない。人の気配。
ヴァンクが咄嗟にランタンの明かりを消す。セイもすぐに息を潜め、壁際へと身を寄せた。
――誰かが来る。
扉の方から、複数の足音が響く。革靴の硬い音。金属の擦れる気配――鎧。騎士か、それとも……。
「……閉じていたはずの鍵が、開けられているな」
低く、怒気を帯びた男の声。
先程も聞いた、耳に馴染みのある響き――ジェイド司祭。
(……気づかれたか)
セイが、すぐに囁いた。
「こっちに抜け道がある。風が教えてくれたの」
「助かる」
ヴァンクは素早く棚の隙間に手を伸ばし、埃の積もった板を押し込む。小さな軋みの音の後、わずかに開いた隙間から、冷たい風が吹き抜けた。
二人はそこから身を滑り込ませ、闇の中を音を立てずに進む。薄暗い石造りの通路を抜けると、やがて外気の気配が感じられた。
月明かりが差し込む小さな裂け目――裏手の倉庫跡に繋がっていた。
息を吐きながら、ヴァンクは脇に抱えていた書物を見下ろす。
「……こんなに警備が厳重とはな」
「きっと、彼らも内容を知ってるんだ。だからこそ、“知られたくない”んだ。ヴァンクはこれからどうするの」
「決まってる。聖域を見つけ出し、クレールを探す。そのためなら、どこまでも行く」
月が静かに夜空を照らす。ふたりの足元には、風に乗って一枚の花びらが落ちていた。