【序章】 風がもたらす綻び
風は語る。
失われた祈りを、そして、少年の行方を。
風は願う。
自由になることを、そして、皆が幸せになることを――
海に囲まれた国、エアリエル。
その国の風は、昔から「女神の守り」と呼ばれ、恵みをもたらすものとして人々に愛されてきた。
潮の香りと甘い花の香が混ざったそよ風が港の街を吹き抜けるたび、商人たちは神に感謝を捧げ、子どもたちは楽しそうに広場を駆け回った。
人々は風を愛し、風に生かされていた。
「風により、悪をはね飛ばし
風により、良き知らせを持ち込む」
その伝承の通り、街の中心には、風の女神・フルーヴェンの銅像が建っている。
柔らかな表情をたたえたその像は、両手を空に差し伸べ、今にも風と語らおうとしているかのようだった。
だが、時代の流れは残酷だ。
どんな信仰も、いつかは人々の心から薄れていく。
誰もが風に守られているのが「当たり前」と思うようになった人々の祈りは形だけのものになり、感謝を忘れる。
心から女神に願う者など、今では数えるほどしかいない。
信仰の灯は、徐々に消えつつあった。
そして、それに比例するように、国に“綻び”が現れはじめた。
突如起きた嵐により港の船が沈み、遠くの村では地崩れが起こった。
季節外れの干ばつ、原因不明の病……。
それらは「偶然」として処理され、国の上層部は黙して語らなかった。
だが、それを偶然だとは思えなかった者が――たった一人、いた。
ヴァンク・ギシャール。
彼はエアリエル王国の騎士である。
彼が剣を手にしたのは、国を守りたいという高尚な理想からでも、名誉のためでもなかった。
たったひとりの“親友”のためだった。
白い髪、透き通るような水色の瞳。
女神の加護を持ち、風と語らうことが出来る特別な力を持った少年――クレール。
それが彼の親友の名である。
✦︎✧︎✧✦
幼い頃、俺たちは港町のはずれにある、小高い丘によく遊びに行った。
色とりどりの花が咲き、街の喧騒から離れたそこは、俺たちのお気に入りの場所だった。
「なあ、クレール。お前は将来どうなりたいんだ?」
柔らかな風に吹かれながら、俺は問いかけた。
隣で花の冠を編んでいたクレールが、顔を上げてふわりと笑う。
「僕? うーん……まだよくわからないけど。でも……ヴァンクは考えてるの?」
「俺は父さんみたいな騎士になりたい! 剣で戦って、誰かを守るって、かっこいいだろ」
「うん、すごくかっこいいと思う」
クレールは編み終えた花冠を俺の頭に乗せると、ふふっと笑った。
「じゃあ、僕は……その剣を守る盾になろうかな。
僕のこの風の力で、ヴァンクを守るんだ」
俺たちはお互いの小指を絡めて、夢を語り合った。
「約束だな。絶対、ふたりでこの国を守ろう」
優しい風が二人の間を撫で、白い髪が空に舞った。
未来を信じて約束をした二人の笑い声は、今も風の中に残っている気がする。
だが――それが、クレールとの最後の日になった。
クレールは、ある日突然、姿を消した。
前触れも、兆しもなかった。
それは、まるで風が静かに止むように――気づけば、彼はどこにもいなかった。
孤児院のやつらも、街の誰も居場所を知らない。
何も言わず、一人で姿を消すようなやつじゃなかった。
なにか事件に巻き込まれたか、連れ去られたか……
どちらにせよ、クレールの身に何かがあったことは確信に近かった。
俺はその日から、毎日剣を握った。
騎士として力を得れば、もっと国の中枢に近づける。
そうすれば、クレールの行方に関する情報も得られるかもしれない。
日々訓練を重ね、手のひらは豆だらけになるほどだった。
俺の周囲の人間は、そんな俺をみて「やりすぎだ」と鼻で笑った。
平和な国で、そこまで本気になる意味があるのかと。
けれど、そんな言葉はどうでもよかった。
俺は、ただクレールを探したかった。
それだけが、俺のすべてだった。
✦︎✧︎✧✦
そして数年が経った。
白い髪、水色の瞳――
そんな少年を知っていないかと、何度も街の人に訊ねた。
けれど、返ってくるのは決まって「知らない」という言葉だった。
自分だけの力では調べることも限界が来ていた。
「……どこにいるんだよ、クレール……」
誰にも頼れず、焦りを感じる毎日。
そんなある晩、月の光がやけに冴えていた夜だ。
静まり返った王都の広場に、俺はひとりで歩いてた。
ふと立ち止まり、風の女神像の前を見ると
そこには、ひとりの女がいた。
その女は、この街では見かけない、不思議な装いをしていた。
薄黄緑のつなぎ服は風にゆるりと揺れ、肩元はふわりと肌を覗かせている。
袖まわりには淡く広がる布が重なり、まるで若葉のようだった。
軽やかなショートパンツの裾からは、陽に焼けていない白い脚が覗く。
髪もまた、風にとけるような淡い黄緑色。
右側に結われたお団子や後頭部には草花で装飾されている。
不思議だった。
風、土、木々のざわめきそのものを纏っているような自然そのものの気配。
その女をみて俺は無意識に声をかけていた。
「……祈ってるのか?」
俺が声をかけると、女は膝をついたまま静かに言った。
「神はね、人の祈りがなければ力を失うのよ。少年」
「今どき、そんなこと言う奴、珍しいな」
「祈る者が少なくなった今、だからこそ国は綻びはじめているのよ。
祈られなくなった神は、やがて消える。
そして国は、それに気づかれないように――綻びを、誰かの犠牲で隠そうとする」
女はゆっくりと立ち上がり、俺に向き直る。
「君、大切な人が居なくなったのね」
「ああ」
「その子は、女神に“選ばれている”。
だから、いなくなった」
「……何を言っている。お前は誰だ?」
「今は、ただの通りすがりよ」
見透かしたような目で俺を射抜く。
「君じゃ、探せない。
君じゃ、助けられない。
君がこの国の“形”に縛られている限り、何も得られないわ」
そう言い残して、女はひらり手を振った。
次の瞬間、突風が吹き、女はその中に溶けるように消えた。
静寂が戻る。
風が残しているのは、ただ一輪の白い花だった。
俺はその場に立ち尽くし、風の音に耳を済ませた。
右耳につけているクレールと同じ瞳の色の青い宝石のピアスをそっと触れた。
「クレール……まだ、お前を見つけられていない」
――風が、優しさを忘れたように冷たく吹いていた。