Ⅴ
夕日に染まる窓の外では、高い塔がいくつもそびえ立っている。
そのうちのとりわけ高い一つには昨日、総合芸術祭で訪れた。あの催しで過ごした時間は、この世界に来る前を含めても人生で最も華麗絢爛な時間で、最も惨めな時間でもあった。
「……」
三か月前、この世界で俺が最初にいた、そう広くないアトリエ。そこの丸椅子に腰掛け、俺は携帯端末をいくつか操作した。
画面上では、送金処理中のバー表示がじわじわ伸びていく。完了までまだ少しかかりそうだ。
俺のすぐ横の床には、俺の最後の作品が置いてある。座っている俺と同じくらいの高さの、そこそこのサイズの石像だ。それを眺めながら俺は、昨日の惨めな時間を思い起こした。
──発表した新作〝芸術の神の戯れ〟は、酷評の的となった。
これまでの作品との技術的なレベルの違い、そして明確な作風の違いは、他人の制作物を疑われるほどだった。そしてタイトルが俺のあだ名を用いた悪ふざけと受け取られ、審査員の心象も著しく悪かった。
この栄誉ある場にノミネートされたのが何かの間違い──それが結論だった。
『……もう話さなくていい。リューゴ先生の答えはわかったわ』
完全にアウェーだった会場において、トップアーティストの座に輝いた画家の少女だけは、頭から批判はしなかった。
『その考えは尊重するけれど、私は、その作品は嫌いよ』
だが終始、不愉快そうな目を俺と石像にくれていた。
会場にいた観客だけでなく、メディアを通してこの作品を見た人々も、きっと幻滅しているだろう。
だが、そのことについて、俺自身は落胆はない。
というより、周りの評価なんてどうでもいい。俺は俺だけの気持ちを込めて、持てる技量のすべてを作品に注いだ。誰の評価もいらない。
何もかも失っても、最後に芸術家らしいことができて、満足だ。
端末から軽快な通知音が聞こえた。送金が完了したんだ。これまで能力で得てきた収入、全財産を、残らず寄付した。それらはドラゴンの被災者支援に充てられる。
これにはきっと、彼女も喜んでくれると思う。
「……デルフィーン」
唯一手元に残った、遺作となる予定の像に視線を置いたまま、あの日を境に会わなくなった女の名前を呟く。
死ぬのは怖くない。
はからずも数か月延長した人生を、もう一度終わらせるだけだ。彫刻に関する不満はなく、残す持ち物はたった一つ。あのときよりも安らかに首を吊れるだろう。
ただ、あの日の涙に後ろ髪を引かれている。
彼女に伝えたいことがあった。
許しを得られるとは思わない。よけいに怒りを買うかもしれない。それでもあの日抱いた後悔をそのままに、この世を去りたくなかった。
「……自分勝手だな」
結局のところ自分のためだ。俺はずっとそうだった。自嘲しながら、端末の画面を切り替える。
増やせずじまいだった、表示が一件だけの、連絡先の欄。
この番号は今も彼女に繋がっているのだろうか。あんなふうに追い出しておきながら、そんな虫の良い奇跡を願っていいんだろうか。
ためらっていたところで、この他に手段はない。
俺は表示中の番号をタップした。
チリリリ、チリリリ、と。
かすかな着信音が、アトリエのドアの向こうから聞こえてきた。
「⁉︎」
反射的に席を立って、ドアを凝視した。
まさか今、外に……?
マンションに移り住む前は、短い間ながらここを拠点にしていた。彼女はここを知っていて、訪れる可能性もゼロではない、が。
けれどそんな都合の良いことが……
いや、そうであってほしい。偶然同じタイミングで別の端末が鳴っていた、なんてオチはどうかやめてくれ。
ドアの外からの着信音が途絶えた。
俺の端末は──画面上で、通話時間の秒数カウントが始まっていた。
「……デルフィーン?」
端末を耳にあてて、俺はドアに向かって尋ねた。端末の向こうから小さく俺の声と、かすかな息づかいが聞こえた。
「……そこに、いるんだな?」
『……』
返事はない。ただ聞こえるのは彼女のものらしい震える息づかい。それに慌ただしいものを感じて、俺はドアへ駆け寄った。
行かないでくれ。行かないでくれ。
数歩でドアノブを掴み、思いきり引き開ける。
アトリエの外、廊下にいたのは、記憶の中の姿よりも短いブラウンの髪の女性だった。見慣れたスーツ姿でもなかった。簡素な白いブラウスに、タイトな紺色のパンツ。履いてるのは運動靴だ。
「デルフィーン……」
もう仕事上の関わりもない、初対面のような装いの女性の名を、俺は呟いた。
「先生……」
うつむき加減に、デルフィーンがようやく口を開いた。肩が少し上下している。もう暑さは和らぐ時期になっているのに、彼女の額には玉のような汗が浮かんでいた。
「その……昨日は、お疲れ様です」
「ああ……ありがとう」
「私、先生にどうしても、言いたいことがあって……」
彼女から続く言葉はなかった。深く考えるような顔で、黙り込んでいる。
それは俺も同じだった。伝えたいことがあるのに。あんな別れ方をしたんだ、普通に話を始めるなんてできやしない。無理やり花を奪おうとしたこと、どう謝れば伝わるか──
そのときふと、彼女の胸元に目がいった。スーツを飾っていたあの花は、今のブラウスには付いていない。
「花は──」
声にしてしまってから、俺は心の中で自分を罵った。どうして浮かんだ疑問のまま、あの日を想起する言葉を口にした⁉︎ あの日を後悔してるなら、彼女のことを想うなら慎むべきだったろ。
すぐさま自分の口を塞いで、デルフィーンの反応を窺う。彼女は逃げるでもなく、怒る様子も悲しむ様子もなかった。ただポケットに手を入れただけ。
そこから取り出されたのは、あの花だった。
花びらの一筋ひとすじまで瑞々しさを閉じ込めたような美しい彫刻品。それを指先に持ったまま、彼女は勢いよく腕を振り下ろした。
硬い床で花が千々に砕ける甲高い音が反響した。
細かな破片と白い粒が、暖かな陽にさらされた淡雪のように消えていく。
「ないわ……もう、どこにも。これでもう気にならない、でしょう?」
彫刻がさっきまであったことを示す残響の中、デルフィーンが顔を上げた。悲しみよりも、気遣いのような光が彼女の眼差しにはあった。
「……ごめん、デルフィーン」
この人は、あんなに大事にしてた物を、俺と話すために捨てたんだ。
あんなことをした俺の所に、そんな覚悟でここへ来たんだ。
「俺もない。もう何もないよ。だけど、俺に償えることがあれば何でもしたい」
何を言われてもいい。
何をされたっていい。
この人のためになるなら、命だって捧げても構わない。
俺の言葉を聞いた彼女の、唇が震えた。眼差しの険しさが増す。その左手が持ち上がった。
頬を叩かれる、そう思った。
「なんで、そんなことを言うの……?」
だが彼女の手が俺を打つことはなかった。伸ばされた手は俺の背後、室内に残された彫刻を指していた。
〝芸術の神の戯れ〟を──女性と少年の肩を並べ寄り添う姿を彫った作品を指す彼女の目尻から、つと涙の雫があふれる。
「もう何もないだなんて。こんなに作風が変わっても、あなたの作品は私の心を捉えて離さないのに」
涙が頬から顎へと流れ、滴り落ちる。
窓から差し込む日没の光が徐々に薄れていく。
淡い夜がアトリエに満ちていくのを感じる中、俺たちはずっと互いだけを見ていた。
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