Ⅳ
総合芸術祭まで残り二か月を切っている。
彫刻家なら、必死にそのための作品を彫ってなければいけないところだろうが、俺には時間の余裕があった。
「先生! ドラゴン作ってよ!」
「ドラゴン、ドラゴン!」
「ああ、わかった、わかったから、みんな落ち着きなさい」
せがんでくる作業衣姿の子どもたちで身動きが取れなくなる。視線でデルフィーンに助けを求めると、いつもと同じスーツの上にスモックを着た彼女は、仕方ないと言うように肩をすくめた。子どもたちの引率を務める責任者の方と一緒になって、興奮する子どもたちを席につかせる。
チャリティーイベントの会場はシティ外縁部にある公民館だった。責任者の方によると、この公民館は〝ドラゴン〟に被災した身寄りのない子どもたちの、勉強と遊びの場として開放されているのだという。
「すみませんねぇ。この子たち、リューゴ先生がいらっしゃるのを心待ちにしてましたから」
「ああ、構いませんよ。そう聞けて嬉しいです。ですが、少し意外でした。〝ドラゴン〟を美化するような彫刻を作った私を、嫌ってる子もいるんじゃないかと思っていたので」
「まあ。そんなことありませんわ」
責任者を務める年配の女性は眼鏡の奥の目を細めると、ほころぶ口元に上品に手を添えた。
「〝ドラゴン〟への恐れや怒りは確かにあります。ですが先生の作品には、それらの感情を超えた感動がありました。勇気をもらえた、って言う子もいるくらいで」
ほっとすると同時に、先週のデルフィーンの言葉を思い出した。
〝先生の作品には人の心を動かす、強い想いが込められてる〟──あのドラゴンでも、俺はここにいる子どもたちを救えたのかもしれない。その事実に俺自身が救われた気分になる。
「それにしても、せっかく石彫刻家のリューゴ先生に来ていただけたのに、粘土教室で申し訳ありません」
「ああ、その点は問題ないですよ」
俺は能力で作っているが、実際の彫刻は工程が多い。
まずは何を作るか計画する。この最初の計画が、一発勝負となる石彫においては根幹となる段階だ。細部までイメージを描き、作品に合わせて素材となる石を選ぶ。そして石に下書きを施したら、彫刻刀や研削盤で彫りを進め、研磨して形を整えていく。作業期間は作品のサイズにもよるが、例えば『ドラゴンの咆哮』なら、本来なら少なくとも半年は要するところだろう。
また、刃物を扱ったり、彫るときに破片で怪我する恐れがあったりと、とにかく危険が多い。
これらの点から、子どもを対象に催すにはハードルが高すぎる。一方で、粘土は派手さは欠けるが、危険も少ないし知育に向いていてイベントとして適切だ。
「専門ではありませんが粘土も、彫刻の分野では一般的な素材ですので、心得があります……さあ、みんな。芸術を始める準備はいいかな?」
今か今かと期待に満ちた目でこちらを見ている子どもたちに、俺は呼びかけた。こうしていると、幼稚園の先生になった気になってくる。子どもたちに混ざって、生徒よろしく着席しているデルフィーンに微笑ましいものを感じた。
「芸術、といっても堅苦しく考えることはない。自分の好きなように作っていけば、君たちはもう芸術家だ。さあ、やっていこう!」
そう言って俺も、班分けごとに机を寄せ合う子どもたちの輪に入る。俺とデルフィーンの二人でグループをローテーションして、交流していく手筈だ。
「ねぇねぇリューゴ先生ってどこ住んでんの?」
しかし子どもは手元の粘土より俺に興味津々のようだった。正面に座る丸刈りの男の子が机に身を乗り出してくる。
「やっぱ家デケェの?」
「高級マンションなんじゃない?」
「ばーか、芸術家なんだから田舎のアトリエだろ」
予想大会に耳を傾けつつ、俺は粘土板の上にちぎった粘土を転がした。家か。お題はこれでいこう。
「田舎のアトリエか。先生が住んでる所とは違うけど、憧れるなぁ。こう、四角い家があって」
転がした粘土をこねて、角と辺を整える。大きめのサイコロみたいな立方体を作ると、串を使って側面に窓とドアを描き込んだ。
「それから自然豊かで、静かで、集中できる場所なんだ……」
続いて小さな木を二つ作って、家の横に立てる。即興の制作だったが、幸いにも子どもたちを感心させるには充分だったようだ。正面の男の子がおぉーと目を輝かせている。
「さあ、君たちはどんな家に住みたい? 粘土で先生に教えてくれないか?」
子どもたちが我先にと、粘土板で各々の粘土をこね始めた。オーソドックスに大きな三角屋根を作っていく子もいれば、滑り台がくっついた遊べる家を作っている子もいる。正面の男の子はといえば、家とは呼びにくいトゲトゲな形を作っていた。こんな独創性を発揮できるとは、この子は才能があるかもしれない。
──ガタンと、唐突な重い音が俺の思考を遮った。
音は、デルフィーンがいるグループからだった。一人の男の子が粘土板を床に落としたようだが、拾う様子はない。
よく見れば、長い前髪に隠れたその子の両目には、涙が溜まっていた。
他の子たちが自分の制作に夢中になっているのを確認してから、その子へと足を向ける。
その間に、デルフィーンが粘土板を拾い上げていた。
「大丈夫? どこか痛いの?」
体の具合を尋ねられて、男の子は無言で首を横に振った。机に置き直された粘土板──落下の拍子に潰れたらしい粘土の塊が三つくっついたままのそれを、男の子は自分から離すように机の端へと押しやる。
「もしかして、粘土、嫌いだった?」
「……上手くできないから」
ためらうように尋ねるデルフィーンに、男の子は小声で返した。それがきっかけとなって、あふれた涙が頬を伝う。
「おれ、みんなみたいに、上手く、できない……」
ぽろぽろと流れる涙は、見覚えがあった。
ずっと昔、俺も同じようなことを言って、泣いたものだった。
あのときの俺はどう言ってほしかっただろう。
「そう……悔しいよね、上手に作れなくて」
まるで自分こそが悔しんでいるように手元にある自分の粘土を指でつつくデルフィーンに、男の子は黙って頷いた。スモックの袖で涙を拭っている。
「でも、それでもいいのよ。最初は上手くできなくても、練習して、少しずつ上手になるの。私もね、君たちと同じ歳のときはすっごく下手だったんだから」
「おばさんも?」
「ええ、だけど練習してたら、どんどん上手くなっていったのよ。見ててね……」
ちぎられた粘土がデルフィーンの細い指の中で形を変えていく。厚みのある楕円形に突起が四つ付いた形。たぶんテーブルだろう。
「ほら、できた。犬」
「……それ、頭が付いてないよ」
「あっ!」
そこを忘れるものだろうかというミスをかましたデルフィーンが、得意げな顔から一転、恥ずかしそうに頬に手を当てた。まだ目に涙がかすかに残っている男の子の口から、思わずといった感じで笑いがこぼれる。
「全然上手くないじゃん」
「うぅーん、久しぶりだから、また下手になっちゃったみたい。ねぇ、一緒にやってくれる?」
「いいよ」
下手な大人がいて安心したのか、あるいは笑ったはずみでそんなことが気にならなくなったのか。粘土板を引き寄せて、男の子はくっついたままの粘土を剥がしていく。
「さっきは何を作ろうとしてたの?」
「おれと父ちゃんと母ちゃん」
男の子がそう答えたとき、俺は胸が詰まるような気分になった。
苦しくはない。むしろその逆の感覚。
これまで生み出してきた彫刻からは得たことのない感覚だった。
「そうだったの。じゃあ犬を完成させたら、次はそっちね……あ、先生。先生?」
剥がされた三つの粘土。
それに目を奪われてた俺は、デルフィーンの呼ぶ声に応えるのが遅れた。
「あ、ああ」
「ご心配ありがとうございます。こちらは大丈夫ですから」
「ああ、その、デルフィーン……」
「? なんでしょうか?」
小首を傾げるデルフィーンと、犬の頭作りに取り組む男の子、それから二人の手元にある粘土にそれぞれ視線をさまよわせて、俺は胸にこもった熱い空気を吐き出した。
「その、ありがとう……」
「改まって言うことじゃないですよ」
そう微笑んで、彼女は手元の作業に戻った。二人は肩を並べ、四苦八苦して粘土の形を整えていく。
なぜだか涙が出そうになりながら、それでも俺はその光景から目が離せなかった。
声が聞こえる。
帰りの車の助手席に揺られてる今も、頭の中でずっと声が反響している。
『お前、それでいいのか』と。
「先生、今日は本当にありがとうございました。子どもたちも喜んでくれましたし、私も嬉しかったです」
延々と責めてくる、男の声。俺自身の声だった。
誰かを救えているのが自分の救いだとは、もう思えなくなっていた。初めから込められてない心に行き場など存在しない。それでどうして、救いを感じられると言うのか。
それでもいい、とは言い返せない。
「ずっと思ってたんです。災害で多くを失っても、昔の私みたいに心まで貧しい思いをしてほしくない。芸術に触れることで、今後は子どもたちに先生の作品を見てもらったりもして、そうして豊かな創造性を育んでくれたらなって」
「デルフィーン」
車窓に水滴が付着した。雨が降ってきた。ぼんやりと光る街の灯に目をやったまま、俺は会話の流れを無視して、ハンドルを握るビジネスパートナーに切り出した。
「明日から総合芸術祭までの間に入ってる予定を、すべてキャンセルしてくれ」
「えっ……全部ですか?」
尋ね返して、数秒してから彼女はワイパーを操作した。フロントガラスの水滴がなめらかに拭われる。
「しかし今からだと、違約金が発生してしまうものも」
「別にいい。支払う」
「あの、理由は、どうしてでしょうか。何かご都合が……?」
「……」
俺は答えなかった。
無言を貫いてるうちに、車はマンションに到着した。
駐車場から屋内へ向かう途中で、デルフィーンが遠慮がちに通話を始めた。イベント参加取り消しに対する謝罪を、何度も何度も頭を下げ、複数の連絡先へ繰り返す。六十階へと上昇するエレベーターの中で、いくつもの案件が消えていく。それはアトリエに帰り着いてもまだ終わらなかった。
照明を点ける。ずらりと並ぶ彫像が俺たちを出迎える。頭を下げながら通話を続けているデルフィーンを置き去りに、俺は居並ぶ彫像たちに近づいた。小動物や自然物、そしてドラゴン……数々の傑作、名作が並ぶ中で、女性像の前で立ち止まる。
「……」
何度見ても美しい。
初めて能力で生み出したこの像は、今なお、あのときの感動を思い起こさせる。
だが、この像に俺の意図は何もない。
誰の気持ちも、メッセージもこもってない。
小さな子どもの不器用に捏ねる粘土にすらあったものが。
胸の奥にある、本来なら見えない尊いものが、何も通ってない。
この像はたしかに美しい。これを彫れる人間が、歴史上にはたして何人いるか。
それでも……これは芸術じゃない。
ただ美しいだけの、石塊だ。
俺は女性像の頭に手を回し、重い感触を手のひらに感じながら、手前に引き倒した。
「せ、先生⁉︎」
通話を終えたらしいデルフィーンの驚愕の悲鳴が聞こえたとき、鈍い音を立てて床に激突した女性像は頭から砕けていた。大小の破片や細かな粒が血溜まりのように白く拡がる。
だが次の瞬間、床に散らばった破片は本体である女性像ごと、まるで幻だったかのように消え失せていた。それはちょうど、像が出現したときとは対になるような、一瞬の出来事だった。
破損して、至高の芸術作品でなくなったがために、この世に存在を許されなくなったのだろうか。
「……」
卓上にある猫の像を持ち上げ、床に叩きつける。胴体と尻尾が割れたそれは床を何度か跳ねた後、女性像同様に姿を消した。
「何をされてるんですか! やめてください!」
次の像を押し倒したところでデルフィーンが組みついてきた。事故で像が倒れたわけじゃなく、俺が破壊しているのだと気付いたようだった。
「どうして壊すんですか⁉︎ どれもあなたの傑作なのに!」
「違う! 俺が作りたかったのはこんなものじゃない!」
壊れた像が消えていってるのは、彼女にも見えてるはずだ。
だったらわかるはずだ、俺の気持ちが。
このやり場のない怒りが!
「俺は、もっと美しいものを作りたいんだ! どけ!」
俺の邪魔をするには、彼女は非力だった。難なく引き剥がして、窓の方へ突き飛ばす。床に倒れた彼女の苦鳴を聞き流しながら、男性像を蹴り倒した。頭の割れた像は売約済みの札を残して消滅する。
「どうして、どうしてこんな……もうやめて!」
わめき声を聞き入れるわけにはいかなかった。これは決別だ。もう能力には頼らない。もう能力の産物はいらない。俺は芸術家でいたいんだ。
あらかた壊し回り、残ったドラゴンのもとへ向かう。
ドラゴンは獰猛な形相で俺を睨んでくる。今にもこちらを喰い殺してきそうな迫力。だが構わず俺は、冷たい石の肌に手をかけ、全力を込めた。
巨大な石像の重量は相当なものだったが、繊細なバランスで成り立っていた分、一度揺らげばあとは楽なものだった。自重に引かれて横転した『ドラゴンの咆哮』の耳を突く断末魔の絶叫は土砂崩れを思わせた。もげた翼が、亀裂の入った胴体が、転がった竜の頭が粉々になって、他の作品たちと同様にこの世から消えていく。
「……」
終わった。
広く、静かになったアトリエで、俺は長い息を吐いた。
すでに手放してしまった作品には手を出せない。だが少なくとも、この部屋からは能力で作った石彫を一掃できた。
……いや、まだ一つ残っていた。
ガラス窓のそばで、デルフィーンは力尽きたようにへたり込んでいた。だが、俺に見られてると気づいたらしいその瞬間、その表情が怯えたものに変わった。俺が次に何を狙ってるか、悟ったのだ。
「それをよこせ」
慌ただしい逃走が彼女の返答だった。ばたばたと立ち上がって部屋の入り口へ向かおうとする彼女の前に、俺は先回りした。あっさりと捕まえて、窓ガラスを覆うカーテンに押しつける。
「やめっ、先生……!」
激しく身をよじらせて抵抗するデルフィーンの腕を力任せにほどいて、彼女の胸に指をかける。その胸元を飾る白い花をもぎ取ろうと、指をかける。
そのときデルフィーンの背中に引っ張られて、カーテンが開いた。その隙間から雨のギルアスシティが垣間見えた。窓ガラスに部屋の光が当たって、俺の顔も反射していた。
女性を襲う無表情の俺が映っていた。
「……っ!」
次の瞬間、鋭い痛みが俺の頬を走った。
デルフィーンの平手打ちだった。拘束から脱した彼女は、俺から距離をとって、自分を抱きしめるように両腕を体に回していた。
「──やめて、ください……」
絞り出すような嘆願は、すすり泣きを伴っていた。
「お願い、どうか、これだけは……この花だけは、やめてください……」
「……」
窓ガラスにはさっきの、石像のように無表情の男はもういなかった。疲れた顔をした男が、自らの振る舞いによる後悔を押し隠していた。
「出て行ってくれ」
窓に映る自分と見つめ合ったまま、俺はビジネスパートナーに別れを告げた。
「それを持って、出て行ってくれ」
「……」
引きずる足音とともにすすり泣く声が遠ざかる。ドアの開いて、閉まる音を最後に、また静寂が訪れた。
〝静かで、集中できる場所なんだ〟──今日の自分の言葉を思い出した。
そう、どこまでも集中できそうな静けさだ。
作業机に向かう。常備している岩石の中から大理石に似た石を選ぶ。
この石が適している。頭の中で鮮やかに描き出されている、最も美しいもの。それを形に起こすのに。
総合芸術祭までに残された時間はわずか。下書きを引く時間も惜しい。そして、そうする必要もない。
防護用ゴーグルを装着して、俺は彫刻刀を握りしめた。
何度となく不意に湧き起こってくる涙の女性の影を追い払いながら、俺は白い石肌に刃をあてがった。