Ⅲ
きっかけは、幼い頃のちょっとしたケンカだった。
親に連れられて行った、市内の図画工作の教室。俺は石を使って、俺と父さん、母さんが並んでる様を表現した。その俺の作品を、父さんは何を作ってるのか全然わからないとバカにした。
笑われたことと、自分の不器用さが悔しくて、俺は石を用いた作品づくりに没頭した。俺が思い描いたものをそのままに理解してもらって、褒めてほしかった。
彫刻という手法に出会うのはそのずっと後だが、それが俺の原体験──こんなことを思い出したのは、ジェイデンのせいだ。
発表会が終わり、アトリエに帰ってもまだ、あの美しい少女と交わした会話が頭から離れない。甘美な経験とは言えなかった。思い浮かべるたびに、胸の奥に重苦しい痛みが伴う。
「総合芸術祭でまた会いましょう、か……」
窓ガラスに手を当てた。壁一面ガラス張りの窓の向こう、遠く夜闇にそびえるギルアスセントラルタワーは煌々と瞬いている。
地上六十階から見下ろすシティの夜景は、街を東西に貫く幹線道路沿いに灯光が連なり、宝石の大河のようだ。自宅から毎日こんな夜景を拝めるなんて、かつての俺じゃありえなかったことだ。
それは高層階に重い石彫刻のアトリエを構えるのが合理的じゃないからだ。魔法が発達したこの世界じゃなきゃ実現できなかっただろう。
だがもちろん、一番の理由は経済的なものだ。この夜景こそが、俺が金持ちになった証と言える。
窓に反射して映る俺と無言で睨み合う。
いい服を着て、広い家に住む。文句のないほど願いは叶っている。
だがそれを再認識しても、今の俺には慰めにならないようだった。胸の痛みはいっこうに晴れない。
「先生、輸送の手配が済みました」
声に振り返る。
作業スペースはゆったりと広く、机と椅子のそばに道具や、素材となる岩石が常備されている。大理石に似た色合いのエルバマという石や、花崗岩に似た堅い岩石ティナルゴ……どれも作業場にあって然るべきものだが、俺は能力があるから、一度も使ったことはない。置いている理由はあくまで偽装……他人の目を気にしたポーズだ。
そこから少し離れて、女性像や動物の像など、これまで能力で作った作品が整然と並んでいる。いくつかには売約済みの札がかかっていて、数日内にコレクターのもとへ送り届ける予定だ。
だが輸送の手配というのは、それら作品に対してのものじゃない。像たちのそばで携帯端末を片手に佇むスーツの女──デルフィーンは、やや困惑しているようだった。
「あの、本当によろしかったのですか? 『ドラゴンの咆哮』をここに運び込むなんて」
「難しいか?」
「いえ、それ自体は容易です。重力操作魔法を用いた空輸ですので。ただ、それなりに体積がありますから、アトリエを圧迫することになりますが……」
デルフィーンの疑問はもっともだった。
大型作品なんて倉庫にでも預ければいい。なんならドラゴンはあの後、購入希望もあったんだからそのまま売り渡すこともできた。
だが俺はこれ以上、あれを他人の目に触れさせたくなかった。
会場で写真を撮られて、新聞にも載る以上、無駄な抵抗なんだろうが、それでも隠したかった。何も込められていないんだと、誰かに気づかれやしないか。それが怖い……
「もしかして、ジェイデン先生のことを考えられてますか?」
うっかり黙りこくってしまっていた俺に、核心をつく質問が飛んできた。
どう答えるか悩みながら見返した俺と対照的に、デルフィーンは前髪に隠れるように顔を伏せた。
「今夜は本当に申し訳ありませんでした。私のせいで、とんだ不愉快な思いを……」
「おい、違う。そういうわけじゃない」
「ですが……」
すかさず否定しても彼女は陰気に顔を伏せたままだ。俺があの後ずっと悩んでいたのと同じように、彼女もずっと気に病んでいたのかもしれない。
ただ否定するだけじゃ、ごまかしてるように聞こえるだろう。だが能力のことを打ち明けるのは怖い。もう利用されるかもとかじゃなく、今は失望されるかもしれないのが怖くなっていた。だから慎重に、言葉を選ぶ。
「……謝る必要はない。不愉快なのは、君のことを悪く言われたからだ」
こう言っておけば、デルフィーンも嫌な気はしないだろう。まるきり嘘でもなく、内心も隠せて一石二鳥だ。
「君の働きぶりはよく知ってる。それを、あのジェイデンはなんて言った? 芸術を金儲けの手段にしてて劣悪だとか、めちゃくちゃなことを言ってただろ。それが腹立たしいんだ」
「……いいえ」
憤慨してみせた俺に、デルフィーンが囁いたのは、短い否定だった。
「ジェイデン先生がおっしゃったことは事実です。私にとって、芸術作品はただの高額商品で、それを生み出すアーティストは金の生る木でした」
続けて囁かれた内容に、俺はすぐに言葉を返すことができなかった。芸術家が金の生る木だなんて言い回しが彼女の口から出たのが、思ったよりもショックだった。
「いかに速く顧客を見つけ、いかに高額で取引を成立させて、いかに多く案件を捌いていくか……それがすべてでした。他人からすれば、拝金主義だと蔑まれても仕方ない人間だったと思います」
「そんな……」
罪の告白のように述べられた内容が、俺にはすぐに飲み込めなかった。
ジェイデンにああも罵られ、デルフィーン自身もそう認めてる以上、事実なんだということはわかる。
だが俺はこの一か月、そんな印象をまるで彼女に持たなかった。俺が気づかなかっただけか? いや、一応は能力のことで用心していたんだ。そのうえで考慮しても、金に対する執着は見られなかった。
「じゃあ、今は? 今は違うんだろ? 今はなんで、そうじゃないんだ?」
「それは……あなたに会ったから」
少しためらいながらも、デルフィーンが思いきったように答えた。持ち上がったその指が、スーツの胸元の花に愛おしげに触れる。
「私、両親が画家だったんです。たくさんの絵に囲まれて育って、両親の膝の上で絵画にまつわるエピソードを聞いてるうちに、自分も当然、将来は絵描きになるんだって思ったものでした。でも、ドラゴンに被災して何もかも失って……お金に苦しめられる生活を続けるうちに、いつの間にか絵画が好きだって気持ちもなくしてしまってたんです」
ドラゴン。そうか、まさに彼女が被災者だったのか。
いつしか潤んでいた瞳を、彼女は俺に真っ直ぐ向けた。
「でもあなたが──リューゴ先生が、私を引き戻してくれた。この花が、両親の絵に感動したあのときの気持ちを思い出させてくれた。お金しか見えなくなってた私を、純粋に芸術が好きだった頃の私に再会させてくれたんです。どんなに嬉しかったか、わかりますか? それで、決めたんです……私を救ってくれた先生の作品を、たくさんの人に届けようって」
原体験だ。デルフィーンの原体験を、俺の彫刻は刺激していたんだ。
胸の内を打ち明ける興奮のためか、デルフィーンの頬にスッと朱が差した。
「先生の作品に込められた想いを、たくさんの人に届けよう、って」
「……っ」
〝想い〟──不意に出てきたその言葉に胸が締め付けられる。
そんなものは俺の作品にはないってのに……
「……君は、俺の作品に想いが込められてるって、思ってくれてるのか?」
「ええ、もちろんです」
つい聞いてしまった俺の妙な質問に、デルフィーンは即座に答えた。
「だって、そうでしょう。もしも何もないのなら、私は何に救われたというんですか。先生の作品には人の心を動かす、強い想いが込められてるんだって、私は信じています」
頬を染め、潤んだ瞳で告げられたその言葉に、不覚にも胸が熱くなった。
鼓動だけが聞こえる部屋の中で、俺たちは無言で見つめ合う──
彼女の手にした端末が鳴り出したのはそのときだった。
「もしもし……あっ、もう空輸が到着したんですね! はい、承知しました。受け入れ準備をしますので、少々お待ちください──」
我に返ったように端末を片手に走り出したデルフィーンの背中を追って、俺も歩き出す。
ジェイデンの声はまだ頭にちらつく。
だがそれはとても小さくなっていた。