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第二話 リヒターテンシュの罠

 その町、カノードロに人が徐々に戻って来る少し前。

 本当に町から脅威が去ったのかを確認するための国の調査班の中に、その男は居た。

 白衣に身を包み、すべてを見下げる様な目を周囲に向けながらも、どこか興奮した様子も見せる、そんな男。

「すまないが……ここにあった巨人の肉片はすべて運べたという事で良いのか?」

 男は、かつて巨人と、そして時計塔のあった場所付近に立ちながら、町をせわしなく走り回っている兵士に話し掛けた。

「はっ。最優先事項との事でしたので、王都の研究機関にすべて運び込む予定で馬車に運搬しております!」

 男は兵士よりも目上の立場らしく、仕事の最中だというのに話し掛けられた兵士の方が恐縮していた。

 そんな兵士の言葉に対して、白衣の男は首を傾げる。

「おや? まだ実行は出来ていない?」

「そこは……申しわけありません。何分、量が量ですので。現在は幾らか縮んだとの報告を受けていますが、それでもまだ何台もの馬車を用意する必要があるかと」

「そうか。そうか。そこまで強大化していたか。そうして……それを倒した者がいる。まったく、随分と皮肉じゃあないか? 天井を見つけたと思ったら、それより上がすぐに現れるのだから」

「はい? ネズミの話、ですか?」

 天井とその上という話で、天井裏のネズミを想起したらしい兵士。そんな兵士の言葉を聞いて、何がおかしいのか、白衣の男は笑い始めた。

「ハハハ! そうだな。ネズミだ。呼び方はネズミが相応しい。実験動物らしい呼び方だ。そうは思わないか?」

 白衣の男はそう言って笑い続ける。

 獲物を見つけて喜ぶ狩人の如く。




「リヒターテンシュという砦を知っているか? 叡王国が戦線維持のための拠点の一つにしている砦だ。あそこを落とせば、一気に戦王国が叡王国へ領土を食い込ませる事が出来ると言われる、そういう砦だ」

 そんなショーゴの話を聞きながら、戦士の館併設の酒場で、安酒をちびちびと飲むソール。

(知らないわけないだろう。俺は傭兵で、戦場で有名な砦なんて嫌でも記憶に残ってる)

 そんな風に心の中で思うものの、言葉にはしない。

 こういう奴なのだ、ショーゴという女は。それが分かるくらいに、どうにも付き合いを繰り返して来た……と、ソールは思う。

(あのカノードロでの一件から暫く、完全にこいつ専用の傭兵みたいな扱いになっちまった……)

 ショーゴと初めてあってから、もう数か月は経つだろうか。

「おい、聞いてるか?」

「聞いてるよ。相変わらずこの酒場のつまみは味が変わらないよな」

「まったく聞いていないではないか!」

 と、対面の椅子に座り、酒入りのジョッキで机を叩くショーゴ。

 こいつもなかなかふてぶてしくなって来ていると思う。一応、ソールに仕事を持って来ているという事は、ショーゴの方は仕事中という事だろうに。

「リヒターテンシュ砦の話なら嫌でも聞いてるよ。そこは叡王国の砦で、お前さんは戦王国の人間だって事も良く良く理解してる」

「だったら―――

「だったらなんだ。あれか。潜入やら偵察やらしろってか? 御免だね。あの砦はな、傭兵の間じゃ兵士食らいで有名なんだ」

「兵士食らい?」

「何かしらで挑んだ連中が帰って来ないって話だろ」

「なるほど、だから兵士食らい。だが実際は食べているのではなく、挑んで死んでいるんだ」

「分かってる! 皮肉だ皮肉!」

 どうにもショーゴは生真面目な部分があれどズレた感性をしている。これまででそれを学んで来たソールは、悔しい事に彼女に対して気安さが生まれ始めていた。

 だからと言って、向こうが持ってくる仕事そのすべてを受け入れるつもりは毛頭無いものの。

「まあ聞け。何も無茶をしろという仕事じゃあない。ソール。お前にしか出来ない仕事であるというだけだ。それに今回は偵察も攻略も仕事の内じゃあない。どちらかと言えば脱出……だな」

「脱出? 戦王国側じゃあ入れもしない場所からか?」

「それは認識違いだ。あの砦に戦王国の人間が入った事は幾らでもある。それも重要人物がな」

「二国間交渉の話をしているのか?」

 長い間、戦争を続けている戦王国と叡王国であるが、何も殴り合いを常時続けているわけでは無い。

 得るものが無いからこの地域での争いは止めて置こう。他所の国が介入して来そうな雰囲気があるから数か月程休戦しよう等々、時々、暴力以外での交渉が行われる事がある。

「交渉が行われる際、交渉場所としてどちらかの重要拠点が選ばれるのは知っているな?」

「ま、暴徒やらに相手の交渉役を傷つけられたら交渉もおじゃんになるわ面目も潰れるわで良い事は無いからな。軍事的な施設で兵士に守られながらってのは、威圧感も与えられて丁度良いってのは分かる」

「脅しは脅す相手が生きてこそ、だな。とりあえず今回の仕事に関する前提だが、叡王国側が捕虜交換を持ち出して来た。いい加減、溜まって来た無駄飯食らい連中をまともな職に就かせてやろうではないかとそういう話だな」

「言い方」

「別におかしな話では無いだろう? 定期的にある話だ。で、詳細の打ち合わせをお互いの国の代表者同士で決めようという話で、リヒターテンシュが選ばれた」

 しかしそういう場所であれば、国の高官だったり貴族だったりが向かう場所であって、やはりソールが仕事で赴く様な状況ではあるまい。

「……ちょっと待てよ? 脱出って言ったよな。その交渉の場で、脱出?」

「うむ。リヒターテンシュの砦内は貴族のための催しを開ける会場があってな。今回は交渉もだが、お互いの組織の重要人物を複数人呼び合って、会食を行う予定があるらしい。で、そこに一人か二人、身分を偽った人間を潜り込ませる余裕もある。という話だ」

「見えて来たぞ。納得はまだしてないが」

 つまり、その偽った身分の人間として、ソールを会場に潜り込ませるつもりなのだろう。

 その後、脱出する。正規の方法で会場から立ち去るのでは無くだ。

「攻略するのも困難極まる砦。その砦の内部情報を探るまたとない機会だとは思わんか? なぁに、会食の最中、気付かれない様に会場を抜けて、砦内部を探り、良い具合にどこぞから抜け出してくれるだけで良いんだ。それで仕事は成立。報酬もしっかりと言うやつになる」

「俺は砦内部の潜入なんて事を専門にする人間じゃあ無くてだな―――

「ほら。例の戦場における風と水の力だったか。周囲の状況からさらに広い範囲を観測し、突発的な状況でも的確に行動できるというあれ。こっそり侵入してさっさと逃げるというのに相応しい技能だと思うが」

「だから受け入れますってのも違うんだけどな」

 だいたい、今はショーゴが頻繁に持ってくる仕事のおかげかせいか知らないが、金銭的に困ってはいない。

 聞くだけで困難極まる危険な仕事を、さあ受けるぞなんて気分にはならないのだ。

「ま、そういう反応になるのは分かっていた。が、もうちょっと話を聞けば、興味くらいなら湧くのじゃあないか?」

「……まだ事情があるのか?」

「カノードロでの事件を憶えているな?」

 忘れるはずも無い。あそこまで酷い記憶として脳裏にこびり付く事件もなかなかない。

 最終的に巨人となった不気味な化け物。元はただの人間だったらしきそんな存在に町一つが半ば滅ぼされた。

 どうやって忘れられるというのか。

「あそこの研究所で中心人物になっていた研究者の一人が、何故か今回の交渉に参加するらしい。無理筋な話だと思うのだが、どうしてだか叡王国側がそれを了承した。その影響で、さっき言った一人、二人潜り込ませる隙が生まれたとも言えるな」

「……つまりあの町の一件、叡王国も関わってる可能性が?」

「さあな。だが、また繰り返される可能性も無くはない」

 考える。考える必要はある。

 それでも面倒な仕事だからと断るのも手だ。ショーゴとの付き合いが長くなって来たという事は、気に入らないから嫌だと言えるくらいの距離感も出来始めているという事でもあるから。

 そうしてそれが、考えない場合の結論だ。

「あれは要するに、戦場で利用できる兵士を作ろうとした研究……で良いんだよな?」

「前にも言ったが、私も詳しくは分からんから、そうなのだろうとしか言えんな。そもそもあんなのは趣味じゃない」

 趣味にする様な人間も居ないと思う。あの様なキワモノは。

 だが、確かに開発した人間がいるのだろう。それが想定内だったのか想定外だったのかはかなり重要な話になるのだろうが。

「俺もあんなのはそう見たくも無いんだが……研究者とやらがまだ精力的に動いているとなるなら―――

「また、カノードロみたいな事件が起きるやもしれん」

「どちらかと言えば、戦場がカノードロみたいになるとか」

 カノードロについてが失敗した結果として、あれが失敗であって欲しいという思いも加味したうえで、もし、研究が成功するとなれば、そうなるのではないか。

 戦場において、あの様な存在が出て来るというのは、飛竜の騎兵に囲まれてる時よりも恐ろしい。そうソールは感じる。

「危険だと判断したら、勝手に逃げるぞ、俺は」

「それも含めて、仕事を頼んでいる。無茶する奴には向かない。こういう仕事は。そう思うだろう?」

 乗せられた気もするが、今は受け入れる事にする。

 あくまでソールが考えたうえでの選択なのだ。あんな怪物がごろごろする様な世の中にはなって欲しくはない。もしかしたら今回の仕事は、そんな未来に対して反抗できる。そういう類のものなのかもしれないと、そんな風に考えてしまったのである。




 リヒターテンシュの砦は戦王国と叡王国の境界線。そこをやや叡王国側に食い込んだ土地に、その砦はある。

 境界線となっているのは細い川であるのだが、平時においては大人なら歩いて渡河出来る程度のものだ。その他に明確な障害物は無く、開けた土地が広がっている。

 普通なら、境界線というよりは係争地を経て、どちらかの勢力の領地となっている可能性が高い、そんな場所。

 そこを明確に境界線として実現させているものこそ、リヒターテンシュと言える。

 高く分厚い壁に囲まれた、壁よりも高い岩。そんな外観に思えるそれであるが、実際、平原に唯一あった岩盤に近い大岩を利用して、その砦は作られていた。

 一部をくり抜き、時に囲い、魔法に寄る技術も用いて、その砦は難攻不落と呼べるものへと仕上がっていた。

 頑強なだけで無く、食糧庫や水源についても砦内部に完備されているため、多くの兵を駐在させる事が可能であった。

 戦王国側が川を越えて叡王国側へと踏み込もうとするのならば、この砦の全機能がそれを阻む。

 実際、川でもたついているうちに、砦の兵士達に寄って撃退されるを繰り返された結果、川そのものが国境線となったという経緯があるのだ。

(そんな難攻不落の境界線の向こう側に、俺はいるってわけだ)

 自分が乗る馬車がリヒターテンシュの中へ入って行く光景を見つめながら、ソールはぼんやりと考える。

 傭兵として、叡王国側で戦った事もある我が身であるが、傭兵如きはこの砦の様な重要拠点に入る事は許されない。戦王国側の時はなおの事、侵入を阻まれてしまう。

 そんな不可侵であったはずの場所に、歓迎されながら入るというのはむしろ居心地の悪さを感じてしまう。

「おい、顔が固いぞ。こんな場所で任務失敗なんてさすがに想定外になるから、なんとかならんのか」

「煩い。なんでお前まで一緒なんだ」

 同じ馬車の中にいるショーゴの声聞いて、より顔をしかめる。

 お互い、正装というか、幾ら掛かっているのか考えるのも恐ろしくなるスーツとドレスを着込んでいるせいで、気持ちの悪さが三倍くらいになっている最中なのだから、静かにして貰いたいものだ。

「仕方ないだろう。私とお前、二人とも新興の貴族の夫婦として、今回が社交場デビューという設定なのだからな。ちなみに、今回限りで何らかの手酷い失敗をして、没落して名も残せなく予定だから安心しろ」

「どういう人間を演じろってんだそれで。それにしても、ここが社交場?」

「並ぶ馬車の数を見ろ。だいたいが偉い立場の人間だが、全員が全員、続く戦争に深く関わってる立場だと思うか? 交渉に当たるのはこの中で数人だけ。他はお互いの国同士で縁を作って置く事が狙いの連中だ」

「縁って、戦争してる側の相手だぞ?」

「それが何かおかしいか?」

「いや……そりゃあ何時かはどっちかが負けるんだから、そうもなるか」

 貴族なんてものは、国ありきで偉い人間だ。その国が無くなるかもしれない。そういう戦争がずっと続いているのだから、自分達が負けた時の助けを求める相手を、今の内に探しておこうという話なのだろう。

(実際、そんな事態になった時、本当に助けて貰えるか怪しいもんだから、別に浅ましくも思わないな。要するに、文字通り社交場以上の意味は無いってわけだ)

 ある意味で無意味なイベント事。そんなものに何かを見いだせる人間がいれば、それはそれで上等なのだろう。

(俺達も、そういう上等な側の人間って事になるのかね?)

 敵の砦に侵入して、非正規な方法で砦の内部を探る事が? 冗談にもならないと感じる。

 ソールが生きるのは何時だって下世話な世界だ。戦場においてこそ、ソールはその真価を発揮できる。

 この砦とて、戦場の一部だと思えばこそやってきている。

「固かったり腐っていたりと言った話はすぐに終わる。それまで下手くそな演技を続けて居れば良い。お互いな」

「あんたも下手そうだもんな。高貴な人間の演技ってやつ」

 存外、ショーゴとソールは似た性格をしているのかもしれない。

 もしかしたら、だからこそ長い付き合いになりつつあるのだろうか。




 実際のところ、その催しは砦の中で行われているとは思えない程に豪奢なものだった。

 会場には常に穏やかな音楽が演奏され、並ぶ丸テーブルの上には、ソールが見た事も無い料理が並び、贅を尽くされている。

 そんなテーブルの間を、歩く姿すら洗練されている様に思える人間達が、お互いに出会い、言葉を掛け合っている。

「もっとも、料理に手を付けないみたいな不文律があるみたいなのは疑問だが」

「あと、新参者には話し掛けないみたいなルールもあるらしい」

 と、一応は地方の新興貴族の夫婦という事になっているソールとショーゴは、お互いに冷ややかな目線で催しを見つめていた。

 これで本当に、この催しでの出会いを求めて来た貴族だと言うのなら、随分と無様を晒している事になるのだろうし、他の貴族達の悪意だって感じて来る。

 何せ、顔を合わせてもごく自然に目を逸らされるのだ。こちらの演技がバレるにしたって早すぎるタイミングでの事だ。

「なあ、もういい加減会場を離れても良いか? ほら、隙を見つけてさっさと砦を探った方が、まだ気分的に良くなりそうだ」

「その場合、私が長時間、一人でこの会場で待機する事になるわけだから、それはそれで駄目だ」

 仕事を率先してやろうと提案しているのに、この雇用主はなんて事を言うのだろうか。

 向こうの意見など無視してこの場を立ち去ってやろうかと思えて来たが、ショーゴの方は目でそれを制して来た。

「一応、切っ掛けがあるはずだ。そのタイミングで会場を離れろとの指示でな」

「そういうのがあるのか? ってことは、この会場に他の協力者が?」

 もう少し、金は渡すから後は好きにやれ的な大雑把なものであると思っていた。これまでがそうであったし。

「そうであるはずだ。そもそも私達がこの会場に身分を偽ってやってこれたのも―――

「あーら。こんな場所に寂しそうなご夫婦がいらっしゃると思えば、荒れ果てたガズディンナ地方の領主権を買った、いじらしい商人様方じゃありませんの」

 と、そういう身分を偽っているソールとショーゴに、話し掛けて来る貴族の女が居た。

 美しいと素直に言える金色の髪を伸ばす、顔立ちもそれに見合ったものであるその女性。

 明らかにこちらが着ているそれより豪奢なドレスを身に纏ったその女性は、ソールより背が低く見えるが、それでもこちらを見下している様な視線で近づいてくる。

(おいおい。別になんだって良いが、不自然にならない会話なんて俺には出来ないぞ!?)

 恐らく、向こうはこちらが怖気づいて困惑しているという風に取るのだろうが、ソールはまた違う理由で困惑していた。

 貴族の相手をした事なんて、戦場でだってそんなに無いのである。

「これはこれはサーロンデルのお姫様ではありませんか。あなたが仰る通りに新興の貴族ではありますが、そんな相手にどうしてわざわざ言葉を交わしに? もしかして、あまりにも代々と古くあったせいで、新鮮な空気が恋しくなって来たのでは?」

 と、助け船が如くにショーゴが口を開いた。しかしそこから出て来たのは一般的挨拶では無く、どう考えても嫌味の類の言葉であった。

(おいおい。これが貴族流ってやつなのか? だったら勘弁して欲しい展開というか)

 内心で思っている間の、ショーゴと金髪の貴族の口論は続く。お互いの距離が縮まり、それこそ顔を突き合わせて殴り合いでも始めるのではないかという距離にまでなったタイミングで―――

「あと数分で、会場で演奏している音楽が大きく派手なものに変わります。当然、人々の意識もそちらに向かいますから、会場を出るタイミングはその時でお願いしますわ」

「えっ……いや、え? そういう事?」

 金髪の貴族は困惑を続けるソールの言葉に対して、ウインクを返した後にこの場を去って行く。

 残されたソールは、彼女の背中と、その次にショーゴを見る。

「彼女はアレクシアス・サーロンデル。その名がついている地方の領主一族の一人でな。今回の作戦の後援者でもある」

「つまり黒幕の一人って事でもあるか」

「そう言ったものでも無いさ。少なくとも私財を投じて戦王国の益になる事をしようと考える人間の一人だ」

 そうで無い者もいる。ショーゴはそう言いたげだった。貴族にもいろいろ居るのだろう。それこそ、存在して良いのだろうかと首を傾げる様な連中が。

「はっ。つまりさっきの罵倒は演技だったってわけか。ま、お互いに近づくには喧嘩のフリをするのが丁度良いかもしれないが―――

「さっきのは貴族同士において一般的な挨拶だ。もし今後、付き合いが生まれた時のために憶えておくと良い」

「絶対に今後は関わらねぇ」

 頭を抱えたくなったものの、すぐにそれをする事も出来なくなった。

 アレクシアスという貴族の女が言った通り、会場で流れる演奏の音が大きくなったのだ。

「ああもう、料理の一つにも手を付けてないうちに、やらなきゃいけないみたいだ」

「ま、今の内から言っておこう。お疲れ様。ここからどうするかの算段は付けているのか?」

「付けてなきゃ、あんたも俺を雇ってない。そうだろう?」

「だろうな。会場そのものは常に観察していたお前だ。誰にも気付かれずに出て行くくらいは出来るだろうさ」

 もっとも、ショーゴには気付かれているから、誰にもバレずにとは行けていない。

(次からは、こいつにもバレずにどっかへ行ってやろうか)

 そんな風に思いつつ、ショーゴと次などというものがある事を、自然と受け入れている事にソールは気が付いてしまう。

(あーやだやだ。次なんて、今回上手くやらなきゃ無いってくらいの思考が自然だろう? ここはさ)

 考えつつ、ソールは歩き始めた。そっと、足音も立てずに、その気配を消しながら。




 気配を消すと言っても、誰かの目の前を通って気付かれないなんて事は無い。

 人間の視界というのはなかなかなもので、動く対象を目敏く見つけて来る。

 だから会場の正規の出入口から、ソールは出入り出来ない。常にそこには見張りの兵士がいるからだ。

 ではどこから出入りしてくかについてだが……。

(こういう大規模な砦の穴だよな。本来、防衛用の機能としてはまったく不要なあんな会場を設置したせいで、人一人が通れる通気口なんてものを用意しなきゃならなくなる)

 岩盤をくり抜き、建物を増設した形のリヒターテンシュの砦において、通気口の存在は必要不可欠だ。

 あちこちにそれを通さなければ、酸素が足りなくなる空間というのが出来てしまう。

 さすがに外から潜入する事は出来なくしているだろうが、内側からなら、通気口を通ってどこへでも行ける。そんな風にソールは考える。

(もっとも、それでもここは叡王国の重要拠点だ。この通気口だって、何もかもが安全ってわけでも無い……ほうら来た!)

 進んでいる通気口の後方から小さい光が見えた。光は徐々にソールへと迫っており、通気口内を這って進むソールに対しては直に追いつく程の速度だ。

(大規模な砦の内部構造を、魔法に寄る光の反射で、適宜把握出来る機構が開発中って話らしいが……)

 さすがに頻繁に人や物が移動する様な場所では実用化されていないものの、そもそも動くものがほぼ存在しないはずの通気口内部においては別らしい。

 追ってくる光に当てられた時点で、ソールが通気口内に居るという事がバレてしまうだろう。少なくとも叡王国はそれを実際に導入している。

(叡王国は戦王国より魔法関係の技術が上って聞くし、ただの脅しの光なわけでも無いだろう……となると)

 急ぐ必要がある。這うスピードを上げつつ、一方で次の出口を探す。

 薄暗い通気口内部で、幾つかの空気の出口が存在している。その幾つかを探りながら、外に出ても誰かに発見されない様な場所を探して行く。

 急ぎはしても焦りはしない。というより焦らない様に努める。徐々に近づく魔法の光を意識しながら、それでもそれに心を乱されてはならない。

 時間に余裕があるなら、その余裕を使って、ギリギリまで適切な選択肢を判断し続ける。

 そうして見つけた。

(ここだ!)

 勢い良く飛び出す。というか勢いを付けなければ魔法の光に追いつかれるそんなギリギリのタイミング。

 出たそこは何らかの倉庫内部であり、現在は使用されていないせいかソールの他に人は存在していなかった。

(ま、確認するまでも無く、そこは把握出来てたわけだしな)

 ソールが持つ四つの戦場技能。うち一つの風の技能は、周囲の状況を微かな環境の変化で読み取るそれ。

 近くの空間の人の有無を、視界に寄らずに把握する事だって出来てしまえる。

(癪だが、こうやって潜入するってのにも適性があるんだろうな。ショーゴの言う通り)

 食いっぱぐれはしないであろう。そのための技能だ。だから今は頼らせて貰う。問題としては、そんな技能があったところで、次に何をするかはソール自身の考えにしか寄らないというところであるが。

(どうしたもんかね? 魔法光に寄る探査は定期的だから、隙を見てまた通気口に戻って別の場所に向かう事も可能だろうし、それを繰り返して砦内部の構造を把握する……ってのも仕事にはなるだろう)

 だが、頭に過ぎるのはカノードロの町の一件。

 あの町で行われた事に関わる人間がこの砦居る。そんな可能性がここにはある。

(考えろよソール。そういう人間が居たとして、今はどこに居るかだ)

 会場で悠長に政治をしている連中の中に居るという事も無いだろう。あちらは専門的な知識より、その地位や立場が重要になる場だ。

 今、研究者みたいな連中を必要としているのは―――

(会議室だろうな。とりあえず、表向きは捕虜交換のための交渉が行われている事になっている。その会議室を誰にも気付かれずに探るのも……大丈夫。仕事の範疇だ)

 砦内部を探れとの指示であり、それを裏切る事は仕事を受けた以上出来ない。だが、仕事の内においては幾らかの自由が与えられていた。

 まるでソールを試しているかの様に。

「良いさ。やってやる。俺がどれほどのものか、定期的に見せつけとかないと、何時か仕事に困る事になる」

 一人、誰にも聞こえない声量で言葉を漏らす。

 声に出したものの、内心を外に出したわけではない。これはある種の決意だった。問題に深入りするぞというソール自身の決意。

(これは好奇心から来ているのか、それとも、変な使命感に駆られているのか。何にせよ、先生は良い顔しないだろうな)

 ソールに戦場での技能を教えた師の顔をふと思い出す。

 彼は今のソールと同等か、それ以上の技能者であり傭兵でもあった。それでも、ソールにその技能を教えた頃すら年老いていた。

 そんな師が常々言っていた事だ。戦場での技能は生き残るためであって、おかしな意地を通すためじゃあないと。

(分かっているけど……出来る事はあるんだよな。面倒な事に)

 今は師の言葉を振り払い、頭の中に情報を巡らせる。

 先ほどまでの通気口の構造と風の通り。現在いる倉庫の位置。その前に居た会場の相対的な距離と角度。

(重厚な砦と言っても、砦としての機能は一般的なものと変わらない。その大まかな施設配置はそう変わったものじゃあないはずだ。この倉庫が……内容的には食糧庫だって事は、会議室はそこまで遠い場所じゃ―――

 と、思考が停止する。考えを巡らせつつ、倉庫内部を探り、さらに扉の向こう側を覗いていた身体も、一旦は止まる。

 ここが戦場だと言うのなら、あってはならない隙になってしまうであろうそれであるが、それでもソールは驚愕してしまったのだ。

 覗く倉庫の外側。そこにある廊下に、驚愕すべきものがあったから。

(落ち着け……落ち着け。どういう事だ? なんでだ? どういう偶然なんだ? いや、偶然なのか?)

 一旦止まった分、一気に思考が雪崩の様に押し寄せてくる。

 どうするべきだろう? これからソールは何をするべきか。それを考えるに至り、それでも答えが出てしまった。

(やる事は……変わらない。この砦の、交渉が行われる予定の会議室へ向かう)

 むしろ、決意を強くしてしまった。ソールはそう思う。

 今回の仕事もまた、安穏とは終わってくれないらしい。




 音楽と談笑と、どこか蔑みの混ざった視線。それらが空気に混じり合い、居心地の悪さを感じさせる。

 今、ショーゴの居る会場はそんな場所だ。

 ソールが会場から誰にも気付かれずに去ってから暫く、ショーゴは一人、目立たない会場の隅で立っていた。

 間違っても目立つわけには行かなかった。夫婦という事になっている片割れが何時の間にか居なくなっている。そう察せられれば、その時点でソール側に危機が訪れてしまうだろうから。

(とは言え、私にとっての危機は、この会場の空気をもっと時間を掛けて味わわなければならないという事実だ)

 貴族同士の対話方法や当たり障りの無い接し方。それくらいは学んでいるショーゴであるが、それが馴染んでいるかと言えば別だ。

 だからこそ、目立たずに居るというのはむしろ好都合なのだが、会場そのものの空気に関しては、息をする度に身体に入り込んで来る様な、そんな気がしてくる。

(私も、こういう世界には慣れぬのだろう。私とて、つまりは兵士だ)

 ソールと会話している間の方が、どこか落ち着いてしまう。戦場特有の、どこか抜けて、どこかギラギラしている様な、そんな空気が性に合っているのだと思う。

「ん?」

 だがふと、それとは違う場所であるはずの会場が、ショーゴが良く知ったそれに変わった気がした。

「つまらなさそうな顔をしていますわね」

 金髪の貴族が、話し掛けて来た。

 アレクシアス・サーロンデル。ショーゴより年は上のはずだが、それでも若々しさを感じられるそんな雰囲気を放つ大貴族の女。

 そうして、現状はショーゴの後援者でもある。

「事実、私にとってはつまらないですが、あなた方にとってはそうでは無いのですか?」

「そうですわね。つまらない以上に嫌になる時はありましてよ? けれど、止めてしまえば、わたくしは貴族という立場では無くなる。そういう事ですの」

「良く分かりませんが、あなた方だって相応に苦労している。そこだけは理解できます」

「ええ。そこだけを理解してくれれば結構。ああ、嫌な顔をしないでいただけますかしら? あと暫くは、先ほどの罵り合いの折り合いをしている風を装う必要がありますもの」

「あれに関しては、あくまでそういうフリだと」

「わたくしとあなたにとっては、ですわね。けれど周囲の人間から見れば、喧嘩はまだ続いていますし、あなたの旦那様は、ショックで頭を抱えて誰もいないところに逃げ出してしまった状況ですから」

「ああ、そういう事にしていただけたのですね」

 これで、ソールがずっと居ない状況も、言い訳が立つのだろう。目の前の貴族は、これで気遣いはしっかり出来る性質らしい。根回し、と言う方が近いかもしれないが。

「ところで実際のところ、上手くやれると思いますかしら?」

「あいつは出来る人間です。それだけは保障しますよ。それで上手くやれないというのは、余程の場所だという事です。この砦が」

「事実、その通りだと思いますわ」

「?」

 余程の場所である事を肯定する態度に違和感を覚える。

 この貴族にとってこの砦は、難所ではあれど、あくまで盤上で行われる政治のうえでの事で、実感を伴うものでは無さそうなのであるが。

「今、この場所で行われるのが、貴族同士の睨み合いと、実情を伴った交渉事。それだけだとお思いかしら?」

「普通は、そう思います。違うのですか? まだ何かある?」

 だとすれば、ショーゴはソールに謝罪しなければならなくなる。

 事前の取り決め以上の事をしなければならぬ状況が、ここにあるかもしれないのだから。

「今回、身元が不確かなあなた方を貴族として潜り込ます事が出来た理由が、そこにありますわ。そもそもからして、本来は来るべきで無い者達を今回の催しや交渉には参加させていますの」

「なんですって? それは―――

「ええ。あなた方にも話していない秘密のお話。けれど、わたくし達側にも理由がありますの。今回に限って言えば、やむにやまれぬ事情というものが」

 もっと深く考えるべきだった。

 この場が戦場の空気になった様な、そんな感覚を先ほど覚えた時、それは事実そうなのだと考えるべきだった。

 この貴族の女は、何か、とんでも無いものを呼び込んでいる。

「そろそろ、始まる頃だと思いますわ。二度目の合図が」

 そうアレクシアスが呟いた瞬間、会場の出入口が勢いよく開く音がした。

 確かにそれは、合図だった。空気だけで無く、この場が戦場へと変わるそんな合図が聞こえて来たのである。




 そこへあっさりと辿り着けたのは、ソールにとっても意外だった。

 会議室と隣り合った部屋。というよりかは物置。

 そこに身体を潜ませながら、ソールは会議室の音を伺っている。

 薄暗く狭いそこであるが、人に見つからない。咄嗟の状況に対応できる。という条件に見合った、上等な場所。

(そんな場所に、どうして俺は居られる? 順調過ぎるってのも考えものだ)

 警備が厳重な砦。内部の機構もまた最新鋭のものが注ぎ込まれた、そんな場所。しかも―――

「で、結局のところ、今回の交渉の裏にあるのは何なのかね?」

 会議室内での会話が、壁を通してソールにも聞こえて来る。話の内容を把握するだけならここで十分。というより壁の薄さがむしろ大丈夫かと心配になってくる。

(存外、外からが頑強な砦ってのは内側がこんな感じなのか……)

 考えているうちにも、会議の話は進んでいく。

「ま、意図ならありますよ。捕虜交換の交渉に関して言えば、それこそ書類を幾つか用意するだけで終わる話だ。これだけ人を集める必要は無い。でしょう?」

「重要なのはそこじゃあない。集めて、どうするかだ。我々の内だって、つまりはそういう疑いが掛けられている」

「あなたがそうである可能性もあるものね?」

「無礼な。侮辱や疑いは、話が終わった後にして貰おうか」

 矢継ぎ早に、何人もの人間の声が聞こえて来る。誰がどの声か。それを判断するより前に、ソールは話の内容がそもそもどういうものなのかを把握しようとしていた。

(会議の招集そのものに裏があるって事らしいが……結果としてギスギスしてるってのは、目的としてどうなんだ? 何某かの交渉がしたいからこそ、こういう形になってるんだろうに?)

 お互いに疑いの目を向ける状況というのは、話し合いの場としては最悪だろう。どんな言葉を交わしたところで、自分の意思というのは欠片も受け止められなくなるのだから。

 色々と考えるソールであるが、話はまだ続くらしい。

「交渉を準備した何者かの意図があるとしてだ。というか、いちいち持って回った言い方をしても仕方あるまい。あのカノードロでの一件について……それは間違いがあるまい」

(……!)

 肩が震える。繋がってしまった。繋がっているかもしれないと思っていた話が、ここに来て、漸く現実になった。

「あなたがその件に関わりがあるという事だけは分かったがね」

「そちらとてそうだろう。ここに居る人間全員が、そうでは?」

「かもしれない。けど、だったらどういう事か。よ」

 会議室内にいる人間すべてが、カノードロの町で起こった事件について関わっているらしい。この場で聞き耳を立てているソールに関してもそうであるというのは皮肉であるが。

(偶然なわけ無いよな。何かの必然があるんだ。この場を作り出した何者かの必然が)

 その必然の中に、ソールも組み込まれている?

 そんな予感が背中をぞくりとさせてくる。だが、そんな怯えは、これから始まる事の前段階でしか無かったのだ。

「ご老人。何を笑っている?」

 恐らく、会議室にいる男の一人の声が、別の人物へ話し掛けたのだ。

 老人。その言葉を聞いて恐怖したのはソール自身だった。

 その老人を、ソールは見たのだ。この会議室に来る前。通気口から出た倉庫から、牢かを歩くその老人を見てしまった。だから恐怖している。

 その老人が笑っている事に恐怖する。

「何故笑う……か。いやはや。何。失礼な事ではあるのだが……探り合いや謀り合いというのも、それが将来無為に終わるというのは、どうしようもなく愚かに見えるものなのだなと、そう考える自分を自嘲したのだよ」

「なんだ? 何を言っている? そもそもお前は―――

「疑念を抱くのが遅いとは思わんか?」

 と、老人の、しわがれた声が言葉を発したタイミングで、その会議室から他の言葉が消えた。

 悲鳴になったのだ。誰かの啞然とした声。誰かの叫ぶ声。誰かの引き攣る声。

 命乞いの言葉すら無く、それらの声の後には何も残らない。

 全滅した。ソールはそう思う。いや、そう実感する。会議室の中で何が行われたかも、ソールは分かっていた。

 あの老人が何をしたのかを、ソールは知っているから。

「何時までも聞き耳を立てずに出て来ると良い。バレて不味い相手は、この部屋から居なくなったのでな」

 老人は、壁の向こうのソールにも話し掛けて来た。ここに居る事に、ずっと気が付いていたのだ、この声の主は。

 ソールは考える。声に誘われず、逃げるべきだ。その結論は一瞬で出たし、ソールは走り出そうともしていた。

 だが、そんな行動すら、老人は上回って来る。

 ソールが聞き耳を立てていたはずのその壁が、何かがぶつかる音がして、砕けたのだ。

「……」

 砕けた壁の向こうには、やはり老人が居た。ソールよりも背は低く、腰もやや曲がった、弓を構えた老人の姿。長く髭と髪を伸ばし、暗い黒のローブを着込むそんな老人。

 ソールはその老人を……良く知っている。

「久しいな。ソール。ソール・レイント。師に対して挨拶も無しか?」

「こんな場所で、こんな状況で無ければ手土産くらい用意していましたよ。師匠」

 ソールは師であるその老人を見つめていた。

 倒れた人間達から流れた血濡れの床の中心に、老人は立つ。その光景が不思議な程に馴染んでいるのがこの老人の怖さだった。

「こんな状況で、意外な相手と出会う事がある。戦場というのは悪趣味が大半を占めていると教えたはずだが……」

「あなたもそういう趣味の一人だとは思って居なかったんだ」

「ふふん。善人ぶったつもりは一度たりとも無いのだがな」

「こうやって、殺す必要も無いのにそれをする人でも無かった。あなたは。そもそも、そんな興味すら無いと思っていた」

「お前一人では計り知れんさ、ソール・レイント。それがワシだ」

「伊達に、オールド・エルフなどと呼ばれてはいませんか」

 オールド・エルフ。それが老人の名前だった。いや、名前かどうかも怪しい。周囲がそう呼ぶのだ。

 長命種であるエルフのうちでも、さらに誰よりも年老いている。そんな風に言われるこの老人は、文字通りの戦場の生き字引とも呼ばれている。

 何かの冗談で、戦場という概念が生まれた時に一緒に生まれたなどとも呼ばれる、そんなある種の伝説だ。

 そんな伝説に、ソールは師事し、その技能を身に着けた。

 他者からは常人離れしているというそんな技能の、あくまでその一部を。

「歳をとるとな、他人からは欲が無くなり、丸くなったなどと呼ばれる。だが、それは違う。隠すのが上手くなっただけなのだ。それをこれから、お前に話しても良い」

「冗談じゃあない。あなたとここで会った時点で、俺がするべき事は話を聞く事じゃなくなった」

 と、ソールが叫んだ瞬間。ソールの隣に、何かが落ちて来た。

 矢が一本。そこに転がる。オールド・エルフが持つ弓に丁度良い長さの矢が一本。

 ソールはその矢を見た瞬間、高鳴る心臓を抑えるのに必死になった。冷や汗は我慢ならなかった故に流れる。その矢が落ちて来た場所は、これからソールが逃げ出そうと考えた方向なのだ。

 逃げる事は許さない。そういう意思を矢から感じた。何より、この会議室の光景だ。

「この矢だけで、この光景を作り出したんですか、あなたは」

「矢の一本。たかが木切れと鳥の尾羽と、石片一つで人は殺せる。それだけの話だ」

 その矢の一本だけで、何人もの人間を貫き、ソールが居た部屋と会議室を隔てる壁を破壊し、そうして今この瞬間、ソールの動きを阻止した。

 冗談に見えるかもしれない。何かの悪い夢だと思いたい。そんな事を、この老人はしてしまえるのだ。

 それがオールド・エルフ。ソールの師。

「あなたはそうやって、簡単そうに奇跡みたいな事を仕出かす。だが、それでも、あなたは何か欲求があったとしても、こういう事に快楽なんて覚えない。そうでしょう?」

「まったくだ。箸を使って物を食べられたとして、箸を使う事が好きなどとは思わんしな。だが……物は食べるだろう。誰だって」

「目的がある。そんな事を言われたって―――

「理解出来ぬだろうが言っておく。ここに居る連中はな、失敗したのだ。失敗を失敗と気付かぬまま、改善すらしようとしなかった。だからカノードロはあの様になった。まさかその尻拭いをしたのはお前だとは……くく、皮肉なものだなぁ?」

「戦王国と叡王国。どちらの人間も居ただろう。ここには!」

「ああそうだとも。共同で研究をしていたのだよ。あの様な怪物を生み出す、そういう研究を、どちらの国も求めた。結果としてはあの有り様で、どちらの国の人間もこう考えた。奴らには相応に罰を与える必要がある。まさか国同士手を組んだなどと思われてはならぬと、赤の他人に処刑を命じたのさ」

 最初から仕組まれていた会議という事らしい。不穏な連中を全員集めて、全員を処刑するというのであれば、それを画策出来る連中というのはどれだけの地位にいるというのか。

 そもそも、そういう目的があったとして、目の前の老人を動かす事が出来るかは怪しいものだ。

 極まった戦闘技能者であるこの老人は、どの様な脅しだって効果が無い。それを簡単に覆してしまう。そういう存在であった。

「待て。関係者を集めたってのなら……あの会場に集まる貴族達も―――

「ああそうだとも。あそこに集められた連中も、同じく処刑対象だ。ワシはこちらを仕留める役目を担わされたがね」

「くそっ!」

 師に怯えている場合では無くなった。会場にはソールの雇用主がいるのだ。彼女が今、危機に陥っているのだと知れれば、そちらに向かう必要がある。

 走り出すソールに対して、師の追撃が向かっている可能性はあった。だが、その場合は全身全霊で避けて、なお会場に向かわな変えればならない。師には逆立ちしたって勝てぬだろうし、そもそも戦う時点でソール自身の目的は見失われてしまうのだから。

 自分がするべき事を見失うな。それもまた、この師に教わった事だった。

 実際、それで正解だったのかもしれない。オールド・エルフは、ソールを追って来なかった。

 代わりに、言葉をソールの背中に向けて来る。

「やるべき事があるのは幸いだよ。ソール・レイント。それがワシのそれと重なる時は、気を付けると良い」

 まだ、その時ではない。そう遂げる様な師の言葉を背中に、ソールは会議室を去って行く。

 冗談では無い。そんな時が来るのは、つまり自分が死ぬ時ではないか。

 そんな事を思いながら。




 会議室で何が起ころうとしても、あくまでこの砦は敵地だ。

 再び貴族達の集まる会場へ向かおうとしても、それを妨害する人間や施設は多いだろう。そう考えていたのだが、意外な事に、ソールは特段、妨害に遭遇せずにそこへと辿り着けた。

 いったいどうしてか? そんな疑問はやはり会場へと辿り着いた瞬間に氷解する。

 そこもまた、会議室と同じく血溜まりだった。いや、その量と範囲を見れば、こちらの方が酷い。

 逃げ惑っていたであろう貴族達の死体があちこちに倒れ、ずたずたに切り裂かれている。

 血染めの絨毯はもはやこの砦の特徴になってしまったかの如く。そんな死体が転がる事態が砦内部で起これば、侵入者の一人に注意を払う余裕は無くなってしまうだろう。

(外からが幾ら頑強だろうと、内部からは弱い。この砦だって変わらないんだろうが、これは……)

 会場の方の惨状は、会議室とは違い、個人が成したものではあるまい。

 それぞれの死体の範囲が離れているし、これを成した凶器は剣の様な刃物であろうが、傷跡にバラツキがある。

 死体の数からして、少なくとも十人は下らない数がこの会場へと押し入り、貴族達を追い詰めながら、そのすべてを―――

「ああくそっ。いちいち現場確認してる場合じゃないだろ!」

 つい叫びながら、それでも会場を探す。

 ソールの雇用主であるショーゴの姿が、このどこかにある。いや、あっては欲しく無いが、ここに居る以外にどんな可能性があるというのか。

 そう思いながら、散らばる死体達を確認して……気が付く。

(ショーゴが……いない?)

 どういう事か。考える必要があった。何故、会場に居た者達すべてを死体に変えようとしたとしか思えない現場に、会場に居たはずの一人が居なくなっているのか。

(無事に逃げた? それとも、それ以外の可能性があったりするのか……不味いっ)

 足音が複数。さすがに砦内部の兵士達が集まり始めたらしい。ソールは会場の隅の窓近く。何時でも会場内から逃げられる場所に位置取り、様子を見極める事に決める。

(この足音が、会場をこんなにした連中である可能性もあるしな……違ったが)

 慌てた様子の、砦内部共通の装備をした兵士達が会場へと入って来た。ソールに気が付いた様子は無く、ごくごく一般的な人間達である事が分かる。

「おい、どうなってる! やつら、ここ放棄して、砦を制圧するつもりだぞ!」

「あいつらの目的なんて俺が知るか。くそっ、何人いるんだ? どうやってあの数が砦の中に……」

 兵士達は良く見れば傷を負っている様に見えた。話していられるくらいに軽傷だが、既に幾らかの戦闘が砦内部で行われているらしい。

(数は居るんだろうが、ここを放棄してるし、生き残りの兵士もこうやっているって事は、兵士達が言う程、砦を制圧できる数じゃあないだろ。会場の被害から見て、恐らくは精鋭が十数人程度。それが砦内部の重要施設を制圧し……そうして何をするつもりなんだ?)

 どれほどの腕が立ったとしても、数が居なければ砦を制圧する事なんて出来ない。一人一部屋管理したとしても部屋の方が多くなる。例え、師の様な存在が居たとしても。

(出来る方法の一つとして、砦内部にいる人間すべて殺してしまう……ってのもあるが、ここに生き残りが集まってる事からして、それをするつもりは無い……なら、なんだ?)

 ただ様子を見ている間にも謎が増えている。ここを襲った連中は、ソールの師は、いったい何を狙っているのか。

(いや、違う。そういう話じゃあない。俺が今やるべき事は、ショーゴを―――

「おい」

「……!」

 自分が背にする窓から声を掛けられる。

 咄嗟に振り向くソールであるが、あまりにも唐突であったため、危うく声を上げてしまうところだった。

 ただし、それは良く聞いた声で無ければの話だ。

 振り向いた先の、窓の向こうには、静かにと口元に指を当てた、ショーゴの姿があったのだ。




 リヒターテンシュの砦を囲む防壁。通常はそこにも居住出来る空間が存在しており、長時間の見張りが可能となっている。

 そうして現在であれば、砦内部へと侵入し荒らし回っている集団に対する、体勢を立て直すための拠点としても機能していた。

 そんな場所に、今、ソールは居る。一人では無い。潜入もしていない。

 招かれたのだ。ショーゴと、そうしてソール達の後援者であるらしい女。アレクシアス・サーロンデルに。

「さて、漸く状況を説明出来る段階に入りましたわね」

「あなたに説明が出来るって事がもう嫌な話ではありますけどね」

 とりあえず用意された防壁の内側の拠点。比較的広い通路の途上となっているその場所では、簡易な机と椅子が用意されていた。

 やや薄暗い石作り壁と床で作られた空間で、用意された椅子に座りながら、ソールは不釣り合いに可愛らしいティーセットで紅茶を飲んでいるアレクシアスを見つめている。

 彼女の周囲には彼女の私兵とやらが常に護衛として立っているが、主の様子に対しては特に何か変わった反応は示していない。彼女は何時もこんな感じらしい。

「アレクシアス様曰く、陰謀があるらしい。私はそれに巻き込まれる前に、彼女に会場から連れ出された」

 と、椅子に座るソールの横で、律儀に立ったままのショーゴが告げて来る。

 こちらが砦の会議室での殺戮を見ていた頃、彼女の方は会場に入り込んできた何者か達からアレクシアスと共に退避していたらしい。

「いったいどういう事ですか? 頑強が過ぎてリヒターテンシュの砦には不敗神話まであるそんな場所でしょう。それがおかしな集団に容易く入り込まれてる。あなたの私兵も含めて」

「ええ。あなた達も含めて、ですわね。他の者もそれと同様というだけの話ですわ」

「……つまり、どんな頑強な砦だろうとも、中の人間の隙さえあれば、潜り込ませる方法は幾らでもあるって事ですか?」

 ソール達がこの砦に侵入出来ているのは、様々な思惑により混乱する現場の隙を突いて、身分を偽れた結果……との事だが、他の連中もそういう隙を突いたという事だろうか。

「多くの貴族。その使用人。そういう名目で、幾らかは身分を偽らせる事が出来る。そういう状況は、わたくしが嗅ぎ付けた時点で、作り出されていましたの」

「嗅ぎ付けた……」

「ええそう。今回の件については、わたくしの方も、後手に回っている状況ですわ。そもそも、カノードロの事件の関係者を集めて何をするつもりなのか。それがまだ予想の段階でしかありませんから」

「……」

「おい。怪しい話だと思っているのが丸わかりだぞ」

 アレクシアスに指摘される前に、ショーゴから言われてしまう。

 内心を隠す事が苦手というわけでも無いが、それにしたって腹の探り合いなんてのは経験が浅い。

「全面的に信頼していただきたいなどとは申しませんわ。けれど、一応は遠回しにあなた方を雇ったのはわたくし側という事は理解していただきたいものですわね」

「わたくし側という事は、もう一つくらいは別の思惑をもった連中が?」

「あら、言葉の裏を読むのが得意なのかしら?」

 まったくもって得意では無い。むしろ話題を誘導された様な、そんな気がする。

「順を追って説明すると、やはりカノードロの事件が発端としてありますの。ご存じですわよね? カノードロの町については」

「なんとなくは、そうじゃないかなとは思ってましたよ、ええ」

 ソールにしたところで、そこを切っ掛けとしてこの仕事に関わっている。この砦で起こっている事は、カノードロの延長線上にある。それは間違いあるまい。

「カノードロに関わる研究を主導していた男の名前をセイスリギ・カイヴァスと言います。叡王国側でも戦王国側でも無い国の出身であるという身元は分かっていますわ」

「分からないって言い方をそう言いかえる事も出来るわけですね」

「あらあら。わたくし、これでも頑張って警戒していましたのよ? そういう良く分からない立場の人間が、どうしてだか人を集め始めましたから。当人のカリスマ性か、研究内容か。その研究を後援しようとする貴族が叡王国にも戦王国にも現れる事に、そう時間は掛かりませんでしたの」

「カリスマ性と研究内容……多分、そのどっちもだな……」

「何か心当たりが?」

「いや、そんな勘がするだけです」

 話を聞いて、本当にふとそう感じただけだ。ソールの師、オールド・エルフは、その男に従っているのではないかと。

 オールド・エルフの言動はカノードロで失敗した連中の粛清を請け負ったという話だったが、どこかの国が裏に居るというよりは、そのセイスリギという者の話に乗る方が、余程らしいと思うのだ。

 そうして、師が従う以上、従う相手には当人の特殊性と思想が、必ずまともなものでは無いと考えている。

「そう。まあ、よろしくてよ。そういう男がいる事は、今のところは些末事。重要であるのは、後始末をし始めた事」

「後始末?」

「この砦で、カノードロで行われた研究の関係者や後援者が集められている。そうして、それを排除する動きがある。つまり―――

「何か、研究の成果があって、後になって邪魔な輩を排除している。それがこの砦で行われている事だと?」

「カノードロの街の一件で、話し合う必要がある。だからその場を用意して欲しい。大方、そうやって双方の国の関係者を貴族も含めて呼び出したのでしょうね。その動きを知って、わたくしは何かあると、わたくし側になる私兵やあなた方をねじ込んだわけですけれど……」

 それでも今のところは、セイスリギという研究者の行動を妨害出来てはいない。

 今、奴らは順調に砦の中で殺戮を繰り返しているのだ。

「ちなみに、このアレクシアス様は、カノードロには関わっていない。むしろそういう連中の足を掬ってやろうと考えたらしい」

 そんなショーゴの補足を聞いて納得する。とりあえず、ソール自身とその雇い主の意図は分かったからだ。

「ここまでになるとは、あなたも知らなかったのか」

「私闘くらいならあるやもと、兵を集めていましたのよ? まさか向こうの兵の数も質も多いなどとは思ってもみませんでしたけれど」

 セイスリギは少なくとも、手練手管に長けた貴族を相手にして上回るやり口は出来る様子だ。

 問題はそんな彼の目的であるが……。

「あなたの予想通りとするなら、研究にはある程度の成果が出て、さらに関係者の整理も始めたって事になる。それで向こうの仕事は終わりだって言うのなら、俺達はもう手遅れだって話で終わるが……」

「その続き、きっとありますわよねぇ」

 困ったという風に頬に手を当てるアレクシアス。今回の件で、砦内部で集まった大半の人間は、既に殺戮済みだ。残っているのは砦を普段から守る兵士達とここに集まるアレクシアスとその私兵。そうしてソールとショーゴくらいか。

 それでも、セイスリギの一向は行動を止めていない。ソールの師、オールド・エルフも。

「ソール。お前、何か気が付いた事があるだろう?」

「なんでそんなのが分かるんだ、お前は」

 睨み合うソールとショーゴ。どうにも気安さが生まれてしまっており、相手の内心がお互いに幾らか分かる様になってきている。そんな気がする。

「では参考までに、何が起こると考えて居ますの? ソールさんは」

「こういう事情により詳しそうな貴族様に対して、言えるかどうかは分かりませんが……研究の成果が出たなら、実際にそれを試すものでは?」

「……それをこの砦で実証すると?」

「なあ、ショーゴ。この人は、カノードロでの俺達を―――

「ああ。知ってる。話して構わないぞ」

「じゃあ言ってしまいますけど、あそこで行われていた研究は、化け物みたいな巨人を作り出したわけで……あれが実験の失敗であれ、周囲に害をもたらすタイプの成果がある研究である事は変わり無いでしょう? なら……」

 ある程度周囲から隔絶されて、それでいて頑強に出来ている砦で、試してみようとするのでは無いか。ソールはそう考える。

(セイスリギって研究者はともかく、俺の師はそういう情緒なんて無くした効率ってのを求める時がある……)

 彼もまた研究に対して望むものがあるのだとすれば、丁度良いからここでその研究成果を試してしまえと言ってのける事だろう。

「なるほど。早々に逃げるという選択肢がかなり有効そうに思えますわね」

「実際、そうするべきだ。絶対に、ここに残るべきじゃあない」

「ならばあなたへの報酬を釣り上げますので、砦を探って来てくださいまし」

「なんつったあんた?」

 死んで来いと言われた気がする。いや、気のせいではなく、貴族流の死んで来いという命令なのかもしれない。

 ちなみに、その命令に大人しく従う程、ソールの人間性は出来ていないしアレクシアスへの忠義も無い。

 逃げ足という話であれば、この場でソールがもっとも速い自信もある。

「逃げる前に砦を探り、多少なりとも具体的な利益を得て置かないと、この場を催したわたくしの沽券に関わると申していますの」

「なら、こっちも率直に言わせて貰うが、そこまでする義理は無い。金を幾ら積まれたって、それをあの世まで持って行けるわけでも無いしな」

 それが分からぬ女だったか。自分などより余程頭の良さそうな相手に見えたが、ソールを打算抜きで動く人間として見ているとしたら、それはとんだ勘違いだ。

「無論、死んでしまえば何も持ち替えられないでしょう。ですから、自分の生命が守れる範囲で、やれる事をしなさいな」

「あん?」

「聞き返される事が多いですわね。報酬は高くします。そうして、それでも何も出来ないというのなら逃げても結構。ですけれど、そういう部分での意地はありますわよね? あなた自身が傭兵という稼業をしている自負があるのでしたら」

「ぐっ……」

 この女、他人様の矜持に、正面から堂々と足を突っ込んできた。

 対価は用意するから、能力が許す限りの事をしろと言っているのだ。

 このまま何もせず逃げる事が、選択としては確かに最良ではあろう。

 だが、仕事をするというのは最良では無く、当人の能力の中で、最優の結果を出す事なのだ。

 少なくとも、稼げる傭兵とはそういう存在だ。

「おい、ソール。言っておくがな、この手の話で、この方に勝とうなんて思うな。格が違う」

「分かってる。今、分からされた。くそっ。ああ、そうだ。無駄死になんてのは御免だが、出来る範囲の事をしているかって話なら、まだ出来ていないさ」

 今、砦を襲っている連中についてを探る事すら出来ていない。オールド・エルフに関しては、出会えば死が待っていそうだが、それでも出会わない様に注意は出来るだろう。万が一出会ってしまっても、あの師の様子からして、未だ猶予はある気がする。

(払った金の分だけ働いているかと言われれば、確かにそれは出来ていないし……そうか、この女が初っ端から報酬を釣り上げて来たのもそういう……)

 アレクシアスはソールの情になど最初から期待はしていなかった。ただ、ソールの判断がごく自然に砦へと向かう様に促していただけなのだ。

「……一応、契約書でも交わしてくれるか。今、素直に言う事を聞いていると、そういう部分でも足を掬われそうだ」

「ええ、勿論。ここに用意していますわ」

 もしやここまで話が進む事も読んでいたか。私兵の一人が、既に向こうのサインが入った紙を一枚持ってやってくる。

「なんとかして、この人に勝てる方法は無いもんか」

「諦めろ。少なくとも生きて帰ればやり返す機会もあるとだけ信じておけ」

 そんな言葉をショーゴと交わしつつ、再びソールは砦へと向かう事にする。

 正直なところ、気には成り続けていたのだ。いったいここで何が起きようとしているのかについて。




 再び空調用の穴の中へ……とは行く必要が無かったソール。

 砦は今も現在進行形で侵攻を受けている最中であり、その混乱の只中を縫う形で、ソールは進めば良い状況だった。

(と言っても、侵攻する側される側、どっちとも正面から会えば戦闘に発展しちまうよな)

 ソールは砦内部の第三者。どちらの勢力に対しても敵として判断されてしまう悲しい存在。

 それを理解しているから、大胆な行動は未だ出来ていない。

 砦内部に置かれた木箱や誰も居なそうな部屋に隠れながら移動を続けるのみだ。そういう地道な部分で言えば、換気用の穴を出入りしていた時とやる事は変わらなかった。

(変わった事はと言えば、どこに向かえば良いのかも分からないって事かな)

 砦内部を進みながら、兵士達の休憩室になっている一室に潜伏しながら、一旦は立ち止まる。

 休憩室は今の状況で休憩する兵士も居ないせいか、ソール以外は誰もいない。

 備え付けというわけでも無いだろうに玉遊び用の台が一つ、部屋の中央にデカデカと置かれていた。

「とりあえず……今、砦内部には二つの勢力に分かれているだろう?」

 丁度良いとばかりに、台の上にある玉のうちの二つを、等間隔に置く。

「片方が攻め込んで、もう片方が押されている状況だ。少なくとも、師匠がいる限りはそうなる」

 と、片方の玉を押し、もう片方の玉に当てる。当てられた玉はどこかへ行き、当たった玉は別方向へ。

(ぶつかった後にこそ、それぞれの状況に合わせた動きをするもんだ。兵士達は守りに入り、その間に……潜入者側は隙が出来たと考えるだろうな)

 砦内部で争いが続いている場所ではなく、むしろそれが発生していない場所こそに侵入者側が何かをしようとしているかもしれない。

 そう結論を出したソールは、再び外を伺い始めた。

 兵士達の動き。戦いの音。風の動き。

 それらを読み取る技能を発揮していく。目を閉じ、開けば、通った事の無い場所の構造すらも把握した様な、そんな感覚の中に自分を置ける。

「ま、どこまで正確か分かったもんじゃないけどな」

 ぼやきながら一歩足を進めた。出来る限り戦いの音がしない場所へ。一方で、それでも人の気配がする場所へ。

 人が少なくなる場所を目指すのだから、隠れ潜む頻度も少なくなる。大胆な動きが多くなって来たかもしれない。だが、それを抑えようとは思わなくなる。

 何かある。そういう予感がどうしてだか強くなってきていた。今は潜むよりも、覚悟を決める時だ。風がそれを教えて来ている気がする。

 砦の廊下を走り抜ける。すれ違う様な人は居ないそんな廊下を走り、その先にあるであろう大部屋まであと少し。

 構造からして砦内部の指令室であろうか。砦の中央近くにあり、砦内部の各施設から平等に道が伸びている。

(あそこを連中に取られたって事は、もうこの砦はその機能を喪失してるって事だ。少数で難攻不落の砦をそうしてのけたってのは大したもんで……それを対価に奴らは何をするつもりなのか―――

 思考が、押し流される様な感覚にソールは足を止める。

 目の前へと迫る指令室への扉が、ソールの手に寄らない形で開かれたのである。

「ま、ここまで来て、何も無いなんて思っても居なかったがっと!」

 扉の向こうから、武装した兵士が一人、飛び出して来たのだ。

 その装備は、意外な事に砦の兵士の共通装備であった。

(なんだ? 変装か? それとも本物の―――

 悠長に考えている暇も無い。その現れた兵士は、こちらを飛び掛かって来たからだ。それも文字通りに。

「うおっと!? なんだ!? おいおいおい」

 武装したまま出来るものとも思えない距離を跳躍してきた兵士は、腰より抜き放った剣をソールへ振り下ろして来る。

 そんな相手の剣を、ソールの側も愛用する幅広の短剣で受け流す。受け流しながらも、その勢いに手が痺れたのを感じた。

(まともに受け止めて無いってのに……これか!?)

 兵士は振り下ろした剣を次に振り上げながらも、そこにそれが苛烈な攻撃となる勢いを加えて来た。

 単純に、身体能力が常人離れしているのだろう。物を振り上げるという動きに、振り下ろす時と同じ速度を維持出来ている。

(まずい……接近戦は、耐えきれなくなる!)

 故にソールは切り替える。思考を、周囲を探る風から、対応する水へ。

 水の対応力は、相手の動きに勢いがあれど、勢いしか無いと見て取った。

 攻撃の仕方は直線的であり、受け流し続ける事はまだ可能だ。繰り返される衝撃が手の痺れを腕全体にまで広げるまで数合は掛かるだろうか。

 その内の一合にのみ、気を配る。

 相手の動きが直線的で単純であるからこそ、隙が大きくなる剣の振りのタイミングが分かるものだ。

 そのもっとも動きの大きい瞬間を狙い、ソールは自らの身体能力を火の如く発揮させる。

 一瞬。その一瞬だけに身体能力を爆発させ、その一瞬のみ、襲い来る兵士の動きを上回る。

 その一瞬で後方へと飛んだソールは、距離を置いたその瞬間に、折り畳み弓より矢を放つ。

 一発二発と兵士の身体に突き刺さったそれは、確実に兵士にダメージを与え、動きを鈍くしていく。

(動きに対して、耐久力はそこまでじゃあないのか? その割には悲鳴も痛がったりも無しか!)

 どう見ても、兵士は人としてあるための何かを喪失している様に見えた。

 矢が刺さり、鈍くなったその身体で、尚もこちらを見つめて襲い掛かって来るそれに対して、ソールがするべき事は一つ。

(とりあえず……これで倒れておいてくれ!)

 折り畳み弓を再び畳み、そうして幅広の短剣を手に、再び身体の内にある火の力を燃やし、今度は走り寄る。

 それはただ数歩の出来事。時間にすればたかが数瞬。

 その数瞬で、ソールの短剣は兵士の首元へと届き、切り捨てる。

「あ……」

 兵士の最後の言葉はそれだけだった。それだけの言葉と、大量の血を零し、砦の床に転がるだけの存在へと変わる。

「なんなんだこいつは……いったいどういう……ただの兵士だったのか?」

 突き付けられた謎に対して、ソールが取った行動は、先に進むというものだった。

 それほどの距離では無い。廊下から、兵士が飛び出て来た指令室へ足を運んだ。それだけの行動で、また新しい謎を与えられる。

「魔法……か?」

 指令室には、赤い塗料で何らかの紋様が描かれていた。

 専門家では無いから分からぬが、戦場で時たま見る、魔法陣と呼ばれるそれに似て見えた。

(小さなものなら魔法杖にも仕込まれてるって話だが、これは部屋全体に広がって、中央には何も無い……いや、あったのか?)

 紋様は円形で、そこから伸びる線が中央へと伸びる形をしている。

 中央に、先ほどの兵士が寝転がっていれば、収まりも良くなるであろうそんな紋様。

 嫌な予感がソールの頭を過ぎる中、それが何かの結論へと至るその前に、別の言葉が響いてくる。

 頭の中では無く、実際に部屋の中に。

「安易な技術だがな。しかし、実行を安易に出来るというのもそれなりに大した技術だとは思わないかな?」

「っ!?」

 声がした方を振り向く。

 どうしてそこに人がいると気が付かなかったのか。その事にこそソールは驚く。同じ部屋に居る相手に気が付かないなど、ソールにとっては自分の技能が錆び付きに関わって来る。

「やあ。ようこそ、ネズミ君。私の臨時的な研究室へ。とでも言えば良いかな? いや、実際のところ、それほど大したものじゃあない。さっき、貴重な実験体を一体潰されたところだ」

 その男は、白衣を着ていた。眼鏡を掛けていた。黒い髪を整え、丹精な顔立ちのままこちらを見つめていた。

 それだけだ。それ以外は話をするだけ。

 それだけであるのに、どうしてだかソールは威圧感を覚えていた。

(何者だ……こいつ……事情は知っているのか? この部屋の)

 少なくとも仲良く会話など出来る相手では無い。そのはずだ。しかし向こうは、出来るだろうと考えて話を続けて来る。

「すばしっこく、さらに牙も鋭いネズミ。君の名前を当ててみせようか。ソール・レイントだね」

「……!」

 何故、この男が自分の名前を知っているのか。警戒は十分にしていたが、それをさらに強くする。何時でも、その命を刈り取れるくらいには。

「タネ明かしをするとだ、君がどういう人間かを、既に君の知り合いから話で聞いている。随分と出来るらしいね。実際、さっきの兵士は常人相手であれば物の数にはしない程度の身体能力があったはずだ。だというのに、君は大した怪我も負っていない」

「なんでだ?」

「おや。難しい話は分からないかね? 私の実験体は、ものの見事に君に―――

「違う。なんで俺の名前を知っている。名乗ったつもりは無いぞ? 俺の知り合いってのは誰の事を言っている」

「おやおや。そういえば勝手に名乗られても居ない名前を呼ぶというのは失礼にあたる行為だったか。これは失礼。ちなみに私はセイスリギ・カイヴァスという、一研究者だよ」

「セイスリギ……あんたが?」

 カノードロの街をあの有り様にした研究の中心人物。想像通りとは行かぬ相手ではあったが、らしい雰囲気を纏っている。そういう感想をソールは覚えた。

「そちらも、こちらを既に知っているのかな? お互い、他人から相手の事を伝えられた同士と言ったところか。ちなみに私は君について誰から聞いたかについてだが……」

「無論、ワシが教えた。同盟者には、危険な存在は教えておくべきだからな」

「……」

 気配を察せなかったのはこれで二人目だ。しかし、その事に驚きはしなかった。何せ、ソールの師、オールド・エルフであれば、それくらいは出来る事を理解しているから。

「こんなのは見るからにまともじゃない。あの兵士は人の思考をしていなかった。この紋様にしたところで、この塗料が何であるか、分からないとでも思ってるのか?」

「隠すつもりも無いさ。これこそが、我々の研究の成果だからな」

 セイスリギはそう言って、白衣のポケットから赤い液体の入った瓶を取り出す。

 恐らくそれは、この部屋で魔法陣を描いている塗料と同じもの。

「カノードロで君は見たのだろう? あの巨人を。あれの身の内にもこれはあった。不完全なもので、むしろ肉体を肥大化させる結果になったが……あの結果もまた興味深い。ただひたすらに力を求める場合、どうしてだかああなってしまう。制御する事が必要なのだ。上の力を目指すというのは」

「ごたごたと理屈を並べたって、知った事か。それは人間の血だろう! 匂いでな、嫌でも分かるんだよ!」

 この部屋全体から臭うそれは、戦場で良く嗅ぎ慣れたそれであった。

「力の元となる成果物は人の身体に馴染まんものらしくてのぉ。一度人の肉体を通し精製する必要がある。もっとも、今回でその量産が成るらしいがな」

 そう語るオールド・エルフの顔には、嫌悪感などは無かった。ただ淡々と事実を述べている。そう思う。

(この人は、やっぱりこれを通して何かを求めてる……)

 しかし、それを深く探るより前に聞かなければならない事があった。

「量産ってのは何だ。いったい何を仕出かして、血液の量産なんかが出来る!」

「その目論見の一つは君に潰された事なのだが……まあ良い。他にも居るし、そちらは順調にやってくれている様だ」

 セイスリギの言葉は、騒がしくなって来た砦の音を聞いての事である。

 その音は……人々の悲鳴であった。

「さっきの兵士みたいなのが……別に居るって?」

「指定した形の魔法陣をこの血液で描くだけで作り出せるものだ。わざわざ一か所で行う必要もあるまい? 特別性でね。現地の兵さえ拘束出来れば、味方を犠牲にする必要すらなくなる」

 先ほど、ソールが倒した兵士は、やはり砦の兵士であったらしい。そうして、この部屋で別の何かに変えられた。

「待て。それがなんで、特別な血液の量産に繋がる?」

「鈍いなソール・レイント。兵士は目に付く人間を襲っただろう? 君だって襲われた。勝利したから良いものの、敗北すればどうなったと思う?」

「まさか……」

「血液をな、目に付く相手に注入するのさ。戦闘行動もその延長線上と言える。血液を注入された相手は、また同種の存在になっていく。分かるかな? こうして自動で増えて行ってくれるのさ。超人を生み出す血液が!」

 それは化け物みたいな連中が際限なく増え続けるという事ではないか。

 この砦中がとびきりの危険地帯になってしまう。砦内の状況が十分に分かった以上、ここでじっとしている場合でも無くなった。

 少なくとも、アレクシアスに事の成り行きを報告する事は出来るだろうし、この砦の中で発生しつつある状況についても―――

「おっと」

「なっ……」

 思考が行動へと移るその前に、ソールの足元に矢が一本突き刺さる。オールド・エルフが放った矢の一本。その一本だけで多数の人間を殺せるそれが、ただソールの行動を阻害してくる。

 恐怖すべきは、身体はまだ行動へと至っていなかった事だろうか。こちらの思考を読んだとしか思えないタイミングで、ソールの動きすらも上回って、それはこちらの行動を阻害してきたのだ。

「ここまで色々と話したのは、ただお前の足止めをするためだ。まさかどこかへ行けるとでも思ったのかの?」

「そんな事だろうと思っていたさ」

 何故、オールド・エルフはソールを害して来ないか。それは何時でもソールを止められるという自信からだろう。

 この師との実力は天と地ほどに離れている。それは嫌でも感じられてしまう。

(なら、何もしないか? 何も出来ないと諦めるか? そんな事を選べる程、俺は上等な人間じゃあない)

 だから、考え続ける。この師に勝つとは言わないまでも、その隙を突ける何かを―――

「彼の足止めが必要というのなら、私にさせてくれませんか?」

「何?」

 疑問符を浮かべるソール。それは良く分からない言葉を発したセイスリギに向けたものだ。

「エルフ老。あなたには増える砦内の血液の管理を行って貰いたい。あくまで必要量あれば良いのでね。それ以上ともなると、被害が増えすぎる。それはそれで、勿体の無い話だ」

「ほう。そう言うのであれば、そうするがね」

「セイスリギ。あんたが何を言っているのか分からない。あんたが俺の足止めをする?」

 状況の変化。それは手詰まりに近いソールにとって好都合と言えるかもしれないが、それでも疑問の方が先に立つ。

 セイスリギはソールと戦うと、そんな事を言っているのだ。

「研究者というのは頭でっかちで身体を動かすのが不得手。そんな風に思われているのかもしれないが、そうでも無い。それを教えられるよ、私はね」

 言いながら、セイスリギは構えを取った。白衣が似合わぬ、拳を前面に出す武骨な構え。

(まるっきり素人ってわけでも無い……か?)

 セイスリギに合わせる様に、ソールもまた腰の服の内側に入れた幅広の短剣を再び抜き放つ。変わらずオールド・エルフが居る限り、油断する理由が無かった……のだが。

「良いだろう。ここでやられるくらいなら、ワシが手を貸す理由も無いだろうしのう。期待しておくよ。セイスリギ・カイヴァス」

 オールド・エルフはそう言うと、羽織ったローブに包まれる様に全身を隠すと、風が吹き、ローブが中空を舞う様に、すぐさまに部屋から飛び去って行った。

(冗談でもなんでもない。本当にそんな風にしか見えない。あれが戦闘技能だって? 馬鹿にしてるだろ。現実を)

 そうして残されるソールとセイスリギ。もし、あの現実離れした師に対抗できる事があるとすれば、ここで早々にセイスリギを排除してしまう事だろうか。

「考えてみれば、ここであんたを仕留めておけば、今後がどうであろうと、解決は解決か」

「なかなか言ってくれる。そうも行かない事を……まずは証明して置こうか!」

 と、セイスリギは接近する。接近を許してしまう。ソールのその間近まで瞬時にやってきて、拳をソールの頭部に当てようとするが、それをソールは短剣で受け止めた。

「これくらい……やってくるだろうとは予想してんだよっ」

 ただの兵士を強化できる以上、この研究者だって同じ事が出来るかもしれない。

 だいたいからしてまともな性格では無さそうなのだ。自分の身体を実験に使っている事だって十分に有り得た。

 身体能力はやはり向こうが上だろうが、予想出来るのなら対応も出来る。

 ソールは短剣で拳を受け止めたまま、相手の脇腹に的を絞り、今度はこちらが拳をブチ当てようと試みた。

「そう容易くは……いかんさ!」

 ソールが伸ばして手を、セイスリギは掴み取ろうとする。その動きもまた素早いが、実際に掴まれる前に、今度はソールが弾く様に腕を引く。

(この動きだ。一発でもまともに攻撃を喰らえば致命傷になる。だが、さっきの兵士と同じだってのなら、防御に関してはまだ常人並のはず。付け入る隙はあるさ!)

 意識するのは水。襲い来るあらゆる状況に対応し、受け流し、時に濁流の様に押し流せるような水の動き。

 迫るセイスリギの手や足、時に胴体による体当たりを、すぐ近くで流し、引き、受け身を取る。

 最低限のダメージで受け止め、最大限のダメージを与える。それだけを狙う。

(だが、長くは続かないかっ!)

 体力と精神力が擦り減って行くのを感じる。錯覚でも何でもなく、ソールは追い詰められている。技能としてはソールが上だが、それを押し潰さんとするセイスリギの動きが激しかった。

 が―――

(それでも、さっきの兵士を上回るって程じゃあないさ!)

 セイスリギの攻撃に耐えつつ、擦り減りつつも、その動きに慣れて行く。タイミングさえ測れるのであれば、やり方は幾らでもあるだろう。

 例えば、ソールの腹部を貫こうとするセイスリギの手刀を間一髪の距離で躱し、掴み、関節を逆方向に曲げる事は、相手の力がどれほどであろうとも可能である。

 相手の勢いが伸びきった瞬間に、別方向の力を加えてやれば良いのだ。

「ぬぐっ!」

 自らの腕が本来曲がらぬ方向へ曲がった事に驚いたのか、ただの痛みによる悲鳴か、セイスリギはソールから距離を置く。

(このままダメージを気にせずに押し込まれる方が厄介だから、上等な結果さ。だが……)

 引いたセイスリギの表情は、すぐに冷静さを取り戻す。いや、冷静では無いかもしれない。むしろ興奮している様ですらあった。

 しかし、それは怒りでは無い。

「今のは……どうしたのかね? あのエルフ老にしてもそうだが、やはり戦場で生きる人間というのは、時々突拍子も無い事を仕出かす。それが出来る力を得る。これだよ、こういうものを私は求めている。人間の可能性だ。分かるかね? やはり、君の足止め役を買って出て正解だった!」

 折れた自身の腕を見て、セイスリギは笑っていた。与えられたダメージに、痛みに、純粋に歓喜しているのだ、この男は。

「あんた。他人から不気味がられないか?」

「うん? ああ、そうだな。そういう目で見られる時がある。恐らくは……こんな身体だからだと思うのだが……」

 と、セイスリギの折れた腕が蠢いた。折れた部分がまるで別の命を持ったかのように蠢き、そうして落ち着いて行った。

 そこに残るのは、ただ元に戻った腕のみ。折れた痕跡すら残らぬ、無事のままの腕。

「治る時がね、大げさなのさ。ただ元に戻るだけなのなら、もう少しばかりスマートでも良い。そうは思わないかね?」

「あんたの身体が、化け物みたいなであるのは、分かっていたつもりだったんだがな」

 だから再び気を引き締める。覚悟する必要はあるのだ。認識を改める。修正する必要がある。

 あの日、カノードロで出会った巨人。

 セイスリギはあれと同種だ。むしろ完成されているとすら言える。そういう存在と今、戦う破目に陥っている。

「化け物とは酷いものだ。私の研究の本質は、あくまで人間の強化なのだが……ね!」

 今度もまた、セイスリギは迫って来る。

 今さっきまでの戦いではソールの勝利に終わったが、それが一時的であると考えたのだろう。その手応えもあったはずだ。

 ソールは実際に消耗している。セイスリギ側は大怪我を負ってすら、再生する力を身に秘めている。先ほどの光景を見てそう判断する。

 ならば、セイスリギは何度だって敗北して良いのだ。命さえ取り留めていれば、何度も挑戦できるのだから。

「ちぃっ!」

 舌打ちしながらも、迫るセイスリギを受け流して行く。

 今居る部屋は、部屋としては大きいだろうがホールと呼べる程には広くない。どう戦うにしても、接近戦へと至ってしまう。

 それは覚悟していたが、セイスリギの力を実感するに従い、そう悠長に構えるわけにも行かなくなった。

(このままじゃあ負ける。認めろ。覚悟なんざあったところで、結果が伴わなければ意味は無い。じゃあどうする……?)

 水の思考は対応力の動き。そうしてそこから打開案を導き出す思考。

(賭けに出るしかない。どう足掻いたって、自分を賭けるしかないだろ。これは!)

 セイスリギの腕が、足が、体当たりが迫って来る。その度に失われていく体力を思えば、思考する猶予だって惜しい状況だ。

 だから、悩む前に決める。戦い方に偏りを作るのだ。

 防ぐのはセイスリギの腕による攻撃、上半身での攻撃。受け流し、ダメージが通る箇所を限定し、逆にセイスリギを焦れさせる。

 そうして、彼は気が付くだろう。ソールの防御は上半身のみに意識が向いており、下半身にはそれは至っていないと。

「ふんっ!」

 セイスリギの方も躊躇は無い。手薄になったソールの足を、彼自身の蹴りにより砕こうとして―――

「ここだ!」

 セイスリギの蹴りへ合わせる様に、ソールも蹴りを放つ。相手が攻撃を仕掛けて来たその瞬間こそ、相手の身体がもっと近づく瞬間なのだ。

 ソールの奥の手。ソールの両靴裏に仕込まれた土の力が今、この瞬間にセイスリギの足へと接触するのだ。

「はっ……ぐぉお!」

 ただぶつかり合う互いの足。身体能力はセイスリギの方が上であるが、ソールの足には土の力、やはり衝撃力を強化する魔法が仕込まれている。

 カノードロの巨人の顔を潰した足の一撃だ。この一撃だけは、セイスリギの力を上回る。セイスリギの身体を吹き飛ばし、部屋の壁へと叩き付けた。

「痛っ……ああくそっ。向こうの一撃を、完全に相殺出来たわけでも無いか」

 ぶつかった足が痛むのをソールは感じる。

 賭け金としては高くついた気がする。立って歩けなくはないが、それでも無理は出来ない状態だと思う。

 一方のセイスリギの方は、身体が半ば壁にめり込む様な状態だ。トドメを刺せた状態。少なくともそう見える。

「巨人の顔をぶっ飛ばした一撃だ。そうでなきゃ困る」

「なる……ほど……これがそう……か」

「なっ!」

 セイスリギには息があった。身体は壁にめり込んだままだが、声も発する事が出来ている。

「耐久性は……さすがに他の兵士より……向上させているさ……当然だろう?」

 話す間にも、セイスリギの身体が蠢く。今度は片腕だけでなく全身が壊れたマリオネットの様にぐらぐらと動きだし、そうして元の身体へと戻って行く。

「ふっ……ふふ。さすがに効くなぁ。治ると言っても、こういう気分になるか」

 頭を抑えながら、壁から自分の身体を引きずり出すセイスリギ。

 こちらは一か八かの賭けに出たというのに、向こうはただ頭痛が残る程度のダメージしか無いらしい。

(はっ、頭痛程度のダメージでも通ったってのなら、もう一度試してやるさ。一か八かの賭けは、もう一度出来る)

 片足の奥の手は使ったが、もう片方が残っている。今度はもっとタイミングを測り、相手にとって致命的な一撃を与えてみせると心を決める。

「戦意は……無くなっていない様子だが……本気かね?」

 と、再び構えを取ったセイスリギが尋ねて来る。そんなセイスリギに対して、ソールは笑って返す事にした。

 やせ我慢の笑いだが、それでも牙を見せねばならない。

「大人しく殺されようなんて考える人間の方が少ないだろう? ま、あんたは俺よりも弱い。幾ら再生しようが、勝ち目は無くならない。違うかい?」

 明らかな挑発であるが、それで少しは相手の冷静さを奪えれば良い。そう思う。

「まったくだ。素直に命を無くせる人間ばかりなら、戦場に神秘は宿らない。血生臭さの中にこそ私の望むものがある。だからこそ!」

 セイスリギが再び、圧倒的速度で迫る。迎え撃つはソール。今度もその動きを見切ろうとして……ソールの予想は裏切られる。

「なんだと!?」

「ふふん」

 すぐ近くにセイスリギの笑い声が聞こえてきた。それはソールが予想出来ぬ接近であったか?

 それは違う。それくらいの接近戦は覚悟していた。今、予想外であるのは、その声が予想よりほんの少しだけ距離を置いた場所から聞こえて来た事だ。

 それが意味しているのは一つ。

「逃げるつもりか、セイスリギ!」

 セイスリギはソールとぶつかる様に見せかけ、むしろ通り過ぎ、さらなる距離を取ったのだ。

 向かった先は部屋の出入口。彼の背後にはその扉があった。

「そもそもが私の目的は君を足止めする事だったのでね。先ほどの言葉はそれに気付かせないための挑発だろう? 危機に陥ってもやるものだ。私は評価するよ」

「ぐっ……」

 歯を軋ませる。だがそれ以上が出来ない。足がひたすらに痛むのだ。セイスリギとぶつけ合った足が、激しい行動は出来ないのだと訴えて来る。

 目の前の敵一人を倒すというのであれば、それくらい我慢も出来るだろうが、これから、砦中を回って砦の混乱を収束させる行動などは不可能な状況だった。

「まずはこちらの一勝だ、ソール・レイント。まだ我々を追ってくるとなれば再戦する機会もあるだろうが、敗北を重ねない様に祈っておくよ!」

「てめえなんぞに祈られる事か!」

「私としては期待しているのだよ。君がここから、さらに成長するかどうかをね!」

 そう叫び、セイスリギはソールに背中を向けて来た。

 それを追う。追おうとするも、身体能力はあちらが上だった。しかもソールの方は万全ではない。追えば追う程に距離を離され、遂には見失う。

「くそっ。くそっ! 畜生!」

 どうしようも無い屈辱を感じる。

 生き残れたなどと喜べない。その程度に、矜持の様なものがあった事を驚きながら、ソールは壁を叩いた。

「ああ! 追ってやろうじゃねえか! 敗北は重ねない。成長しろってのなら、まずはてめぇを倒し切れる成長をしてやる! そうして―――

 そうして、彼と手を組む師も敵に回るのならば、それすら越えなければならない。

 ソールはその覚悟をしながら、今は無力な自分を情けなく思うしか出来なかった。

 リヒターテンシュの砦において、ソールが出来る事は無くなってしまったのだ。だが、砦の混乱は尚も続き、激しさを増して行く。

 この砦はセイスリギの手に落ちた。そういう事なのだろう。




 ガラガラと馬車の音が鳴っている。

 何名かの人を乗せた馬車の音だ。上等な馬車とは言えぬが、それでも急遽用意されたものとして見れば、十分なものと言えるそんな馬車。

 そこでソールは、項垂れる様に端の席に身体を預けていた。

「撤退の判断については、適切に出来たと思いたいところですわね」

 そんな言葉を、馬車の乗客の一人であるアレクシアス・サーロンデルは呟いた。

 リヒターテンシュの砦が、セイスリギが作った血によって暴走する兵士達だらけになって行く中で、その事をソールが彼女に報告した段階で、彼女はすぐに砦を脱出する事を決めたのだ。

 中は地獄そのものになりつつあったが、去ろうとする者は追わない。そんな状況であった事が幸いだ。

 もっとも、それは見張りとなる兵士すらも化け物に変じつつあったという事であろうが。

「気落ちするな、ソール。この状況はどう考えても想定を超えている。そんな中において、いったい何が起こっているのか。それが知れただけでも上等と言えるだろう」

 慰めかそれとも単なる事実か、同じく乗客をしているショーゴが声を掛けて来た。何も喋ってはいなかったはずだが、そんなに落ち込んでいる風に見えたのだろうか。

「安心してもいられないだろ。あの砦での実験だけで、奴らが満足するとは思えない。人を化け物にする血を、量産するつもりであの砦を利用したんだぞ。次があるはずだ。増やして、どうするかだ」

「話を聞く限りは、手勢を蓄えて、世界の支配を……などと考える方々ではありませんものねぇ」

 悩んだ様子のアレクシアスであるが、目はソールを見つめていた。何かあるだろう。思い付ける事が。そんな風に訴えて来ている気がする。

「……俺に分かるのは、やっている事に対して、目的は酷く単純な気がするって事くらいか」

「単純? 二つの国を越えて研究までした上で、動機は単純だと言うのか?」

 ショーゴは疑問符を浮かべているものの、その疑問に答える事はソールにも出来ない。ただ、そう思っただけなのだ。

 師とあのセイスリギという男。その二人を結び付ける動機なぞ、複雑なものでは無理だろうという考えのみが根拠だ。

 もっと単純明快で、馬鹿らしい目的の共通点が二人にはあるのでは。そんな風に思う。

 オールド・エルフとセイスリギ。二人の言動を思い返しながら、彼らはいったい何をどうしたいと言っていたかを想像していく。

「そうだな例えば……もっと強くなりたいとか、もっと色んな事をしたいとかそういう……ああ、馬鹿な事言ってるな」

「いえ、その方針が正しいのかもしれませんわね」

 と、自分でも馬鹿らしいと思った想像をアレクシアスに肯定されてしまう。

「頭目だけでは無く、彼らの構成員にしたところで、それぞれ別の国に所属している方々でしょう? でしたら、分かりやすい方針でまとまっていると考えるべきだとわたくし、思いますの。どうかしら」

「どうかしらって……そう予想されてしまえば、俺からはなんとも」

 言いつつ、ショーゴはどう思うかと目配せすれば、彼女の表情は真剣そのものであった。

「冗談めかして言っているものの、あなたの予想というのは馬鹿には出来ません。事が国家規模の事なら猶更だ」

「国家……」

 ショーゴに言われて、ソールもそうなのだという自覚をする。

 戦王国と叡王国。二つの国の狭間にある砦が、第三の勢力に寄って滅ぼされた。今はそういう状況だ。

 国家規模の事件。そう言ってしまっても遜色は無いのだろう。

「わたくし、これからはその方向で、彼らの動きを探ってみるつもりですの。あらあら、彼らと言い続けるのも言い間違えがありそうですし、何かしらの名前を付ける必要があるかもしれませんわね。今回の損をどうやって得にするかも、いろいろと根回しが必要ですし、ああ、忙しくなってきましたわぁ」

 どこか楽しそうなアレクシアス。実際、彼女はこの様な性格のまま、権力というものを自在に扱う人種なのだろう。

 ソールに出来ない事が出来る、そういう人種。

 だから、このタイミングだと思えた。

「アレクシアス・サーロンデルさん。俺を、便利な兵の一人として雇ってみる気は無いか?」

「おい、ソール!?」

 驚くショーゴを無視しつつ、ソールはアレクシアスを見つめる。

「あら。急に気楽な傭兵さんがどうなされたのかしら。雇われるという事は、意に沿わぬ仕事とてしていただきますわよ? 無論、名誉はすべてわたくしに。汚名はすべてあなたの方に」

「そんな事は分かってる。いえ、分かっています。それでも、俺は役に立ちますよ。特にあの砦に関わる物事に関しては」

「……そこにあなたの狙いもある。という事ですわね」

 結局、今後もセイスリギやオールド・エルフと関わり続けるというのであれば、今、この貴族の手助けが必要だ。そう考えたのである。

 そのための対価として用意出来るものは、自分自身の身体しかない。そうも思う。

「ソール。それは貴族の私兵になるという事だぞ。自由に辞める事も出来ない。アレクシアス様であれば、そういう存在も無下にはしないだろうが、それでも、ただ一つの駒になる」

「それも分かっているさ。そういう連中との付き合いが無いわけでも無い」

「ならば、わたくしから言えるのは、動機は何なのか。という事だけですわね。その、オールド・エルフだったかしら? 彼が師だから。というだけでは無いのでしょう?」

 アレクシアスの問い掛けにソールは頷いた。別に、関係者がそこに居るからだけで、自分の人生を決める様な決断をソールはしない。

「碌でも無い事です。思い通りにはさせたくない。奴らは遊んでる。そんな風に見えたのに、俺は奴らを止められなかった。次のチャンスがあるのなら、今度こそは」

「……それがあなたの矜持ってところなのかもしれませんわねぇ。よろしい。本来は入念な審査をしてからがわたくしの部下となる手順ですけれど、今回の件に限る仕事のみ、あなたを利用させていただきますわ。それでよろしいですわね?」

 ソールは頷く。そうしてこちらをずっと見ていたショーゴを見返してみれば、彼女が視線で何かを伝えて来ていた。

 後悔するぞ。

 そんな事は分かっている。

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