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バニティ 9 

カゲは、構えていた剣を静かに下ろした。


「今まで俺は自分が生きるために、なんの躊躇もなく目の前の人間を殺し続けた」


カゲはゆらりと兵士のほうに足を向けた。

そのまま、ゆっくりと進んでいく。


兵士は一瞬怯んで「来るな」と叫んだ。

槍を高く振りあげると、再び聖水の雨を降らしはじめた。


聖水に打たれたカゲの全身は、ジュウと嫌な音を立てた。


「やがて左足を痛めた俺は、恩師のように屠殺されることになった。

致命傷を負った剣士は処刑される。それがコロセウムの掟だ。

俺は、運命を粛々と受け入れるつもりだった。それなのに死ぬ前夜、

突然、すさまじい恐怖にとりつかれた。雷に打たれたように死ぬことが怖くなった」


感情をなくしたカゲの目は木の洞のように見えた。

両手をだらんと下げ、ゆらりゆらりと近づいてくる。


「死神だ」兵士はつぶやいた。

俺はとんでもないものにケンカを売ってしまったのかもしれない。

人間じゃなく、何か、とんでもなく邪悪なものに。


「コロセウムから逃げ出した俺は、あてもなく歩き続けてグアヤキルにたどり着いた。

絶望と貧困が支配するそこは、俺にとっておあつらえ向きの場所だった。

ああ、ここだと思った。それからは、生きるためにあらゆるものを殺した。

人も、虫も、動物も、喰えるものは何でも喰ったし、飲めるものはなんでも

飲み干した。グアヤキルは、この世界の陰そのものだ。

地上のあらゆる毒が流れこむ。薬物、汚水、化学物質。

俺は世界中のあらゆる毒を喰らいつくした」


兵士は何かに魅入られたように、ぴくりとも動かなかった。

カゲは、兵士の目を見つめながら軽く舌なめずりした。


「喰われる」もはや聖水も尽きていた。

いや、そもそも聖水など奴はもろともしない。

奴の全身から発する毒と呪いが、全てを穢していくようだ。


「お前は正義か?」カゲが問うた。


気づいたとき、死神は兵士の目の前にいた。

切れ長で美しい右目が幾つも兵士の複眼に映っている。

通った鼻筋が、かつては高貴な出身だったことを物語っていた。

薄く紅い唇は、むしろ楽し気に微笑んでいるようにも見える。

美しい。迂闊にも一瞬、そう感じた。


「お前は正義か?」


兵士は凄まじい恐怖の中で、怯えていた。

さながら蛇に睨まれた蛙だ。


「俺は正義というものを知らない。お前が俺に教えてくれ」


兵士が、カゲの腕が自分の身体にまきついたと感じると同時に

甲殻の一部は、死神に噛み千切られていた。

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