バニティ 3
「何があったんですか?」カイトが固唾を飲んで、ルキアの言葉を待った。
生物兵器の研究をやっていた博士を、時間遺伝子の方向に大きく舵を切らせた出来事。
「今から12~3年ほど前のことだよ。ドクター・アーシュには一人娘がいた」
ルキアは、軽く目を伏せるとゆっくりと語りだした。
彼女の長いまつ毛が、頬の上にうっすらと影を落としていた。
凍てつくような寒い冬の夜だった。
遅くまで研究資料を読み込んでいたアーシュは、大きく伸びをした。
三日後は娘の誕生日だ。その日は予定を開けられるよう、仕事を片付けて
おかないといけない。
去年も、一昨年も、娘との約束を守れなかった。
いや、考えてみれば小さな頃からずっとかもしれない。
「お父さん、次のお休みには海に連れて行ってほしいの」
「お父さん、お誕生日のプレゼントもケーキもいらないから、
一緒に遊んでほしいの」
また、今度。
この仕事が片付いたら。
もう少ししたら時間を作れるから。
そんなことを言っているうちに、娘はずい分大きくなってしまった。
学校に通い始め、しばらくすると、娘は彼に何も求めなくなった。
手が離れて楽になったものだ。そう感じたけれど、勘違いだったかもしれない。
ただ、何も期待されなくなっただけなのだろう。
だからこそ、数年ぶりに娘が
「18歳の誕生日を一緒に祝ってほしい」と言ってきたときは、
無性に嬉しかった。
「さあ、もう一息だ」そう呟いて机に座りなおした瞬間、
甲高い悲鳴が闇夜をつんざいた。
「あの声は……」アーシュは、立ち上がった。椅子の倒れる鈍い音がした。
ドアを開けて、廊下に走り出ると、娘の部屋まで全力疾走した。
「何が起きた?」アーシュは強い恐怖を覚えた。
耳の奥でドクドクと鼓動が脈打っていた。
さほど広くないはずの屋敷が奇妙なまでに広く感じられた。
アーシュが娘の部屋のドアを思いきり開けると
ベッドの上には、胸を刺されて血だらけになった娘の姿が見えた。
窓は開け放されており、カーテンが揺らめいていた。
アーシュは娘を抱き上げると、狂ったように彼女の名前を呼び続けた。
娘は一瞬、目を開けると「お父さん、助けて」と声にならない声でつぶやいて
意識を失った。
その時、ドクター・アーシュは初めて知ったんだ。
未来は永遠に続くものではないということ。
また、今度。いつか、きっと。
時間はまだまだあると思っていたのは、単なる幻想だったんだ。
また、今度。この仕事が片付いたら、娘と一緒に彼女の望むことをしよう。
二人でお茶を飲みながら、いろいろな話をしよう。
今はやるべきことがあるから、またあとで、ゆっくりと時間をとればいい。
間違いだった。
ある日突然、未来は奪い去られることがあるんだ。
いつか、きっと。いつか、きっとなんて言っているうちに
そのいつかが消えてしまうことがあるんだ。
それならば、あの時、娘と一緒に過ごしていればよかった。
その瞬間の時間を大切にしなければいけなかったのに
私は、取り返しのつかないことをしてしまった。
すべて間違いだった。
「うわああああああああ」彼は娘を抱きかかえたまま
、暗い部屋の中で狂ったように叫んだ。
ドクター・アーシュは、屋敷の一角に温度や湿度を完全管理した部屋を作ると
娘の亡骸を冷凍保存した。
その日から、彼は人の生命を司る時間遺伝子の研究を始めた。




