深海の都 16
人魚の身体から放出された細い粘膜は、無数に広がる白い絹糸のように見えた。
それは、老人の身体に絡みつき、彼の身体を繭のように包みこんでいく。
「助けなきゃ」と叫んで立ち上がろうとしたカイトの肩を
カゲは、ぐっと掴み引き止めた。
「いいんだ」
「良くない。死んじゃうよ」
「あの人はすべて分かっている」カゲは静かな眼差しをしていた。
老人は、ゆっくりと人魚のほうに足を進めた。
そうしている間も白い絹糸は幾重にも彼の身体にまとわりつき
全てを覆いつくそうとしていた。
老人は顔をあげて、人魚の青い瞳を正面から見つめた。
あなたには何が見えているんだろう。
深海の生き物である人魚の視界。
この姿がはっきりと見えているとは思えない。
あなたに会った頃は青年だった。
だが今は、すっかり老いぼれだ。
それでも、ここに来るのを何百年もためらった。
サニー・メイ。人生を共にした最愛の妻。
君と初めて出会ったのはいつだったかな。
人魚の吐き出す糸が老人の身体をゆっくりと溶かしていく。
いつでも思い出すのは、ひまわり畑で笑う君の姿だ。
あの時、君は五つで僕は七歳だった。
君は茶色い髪を耳の上で結って、ひまわりのような黄色いワンピースを着ていたな。
君はいつでも笑っていた。
鈴のような声で楽しそうに。
戦時中の暗い空気の中、君の周りだけがお日様のように明るかったんだ。
君を忘れたくなくて、何百年もためらってしまった。
人魚が、老人の身体をそっと抱きしめた。
陶器のような冷たい感触が全身を包みこんだ。
老人の眼から涙が零れた。
思い出は胸が痛くなるほど鮮明なのに、もう二度と君には逢えない。
人魚の唇が老人の唇に静かに触れ、彼の身体がずぶずぶと取りこまれていく。
「サニー・メイ。これで、やっと君を忘れることができる」
凄まじい歓喜の歌声が鳴り響いた瞬間、轟音を立てて塔が崩れはじめた。
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