逡巡
幸いなことに、勾配がきついものの、壁はすり鉢状にはなっておらず、
時間をかければ登っていけそうに見えた。
カゲ自身も、独房で鼠を食べてから、何も口にしていない。
ヒグマとの闘いや森の中の逃避行で、己が立っているのも
やっとな状態のはずだが、そんな素振りは露も見せなかった。
カゲは崖の下から蜂の巣をしばらく見上げて、
登っていく経路を考えていた。
グアヤキルにいた頃、塀をよじ登って追手の目をくらませていた。
垂直に切り立った塀を上るので、時には爪から血がにじみだすこともあった。
それに比べたら、この程度の崖、どうということもない。
カゲは、血だらけの右手を崖の上の岩に軽くかけた。
そのまま身体をぐいっと引き上げる。
同時に左足を、わずかなくぼみに突っ込む。
一足一足、丁寧に登っていく。
崖の土は硬く、足場をとりやすい。
もし、この崖が砂だったら登ることは不可能だった。
登り始めて20分ほどが経過した時、蜂の巣が間近に見えてきた。
ブンブンと騒がしい音が聞こえ、無数の蜂が出入りしている様子が
見てとれた。
すでに湖からは10メートル近く高い場所までたどり着いた。
ふと斜め上を見ると、いくつもの亀裂が見え、そこから
太陽の光が差しこんでいる。
中央近くには、ぎりぎり人が通れそうな隙間が見える。
一人なら、このまま地上に戻れる。
そんな言葉がカゲの脳裏を横切った。
彫りの深い横顔は、無表情のまま微動もしなかったが、
両腕で崖にしがみついたまま、カゲはその隙間を凝視していた。
そうだ。俺一人なら、今すぐにでもあの隙間をくぐりぬけることができる。