慈悲深き聖女の妹様
目の前で白のローブを纏った神官たちが朗々と呪文を唱えると、私たちの体は強い光に包まれていった。この光に包まれるのはこれで2度目だ。今この時と、姉と共にこの異世界に強制的に召喚された、1年前と。
この世界は100年に1度の瘴気の汚染に侵されていたらしい。それを浄化する聖女として異世界から呼ばれたのが佐藤マイカの姉、佐藤マリアだった。
通常ならマリア1人が呼ばれるはずだった異世界にマイカが一緒に呼ばれたのは偶然というしかない。
ちょうど召喚の光がマリアの体を覆った時、マイカは当人のマリアと抱き合っていたのだから。
そんな訳でマイカは姉と一緒にこのレール国に来た。
ここに来てからの毎日を短く表すなら、危険と隣り合わせ、だろうか。
光が消えた瞬間、私たちは金髪の青年と白のローブを纏った人たちに取り囲まれていた。後から知った事だが、その金髪の青年はこの国の王だったらしい。
神官たちは私たちを見て最初は戸惑っている様子だったが、金髪の青年の一声ですぐに姉が聖女として連れて行かれた。
何で力を測ったのかは分からないが、私と姉の格好を見れば誰だってそう思った事だろう。
そしてその後、間違いなくマリアが当代の聖女としてこの国の隅々まで周知された。
そしてマイカはというと、聖女の妹として国に大切に保護されました、というわけにはいかなかった。
姉が知らない人たちに連れて行かれそうになったとき、マイカはその男たちを持ち前の腕っ節で一瞬にして叩きふしたのだ。
今でもあの時は、小さい頃から習ってきた柔道の腕が1番発揮された瞬間だったとマイカは思っている。
だが、いくら女相手に油断していたとはいえ大の男を抱え飛ばしたマイカを見た王国の者たちは、マイカを要注意人物として牢の中に放り投げた。
といってもそれは数時間だけで、聖女の妹と分かるとすぐに解放されたわけだが。
そうして、牢から解放され姉がいるという部屋へと案内されている途中に、マイカは彼と出会った。
物騒な事に、彼は矢で射殺されそうになっている真っ最中だった。
彼の横を通り過ぎた時、左上から彼を狙う弓矢が見えた時は流石のマイカも驚いたものだ。咄嗟に走り寄って彼を突き飛ばしたから難を逃れたものの、もう少し遅ければその矢は真っ直ぐに彼を貫いていただろう。
そう思って初めてマイカはこの摩訶不思議な状況が現実なのだと理解した。
その青年は後にアディと名乗った。薄い茶色の髪と深い緑の瞳が特徴の、優しい印象の男だった。悪くいえば、どこか頼りないと言うだろうか。実際、腕っ節ならマイカの方が強かった。
マイカがアディの命を救った後、彼の心配をする暇もなく案内人はそそくさとマイカをマリアのもとへ連れていった。
そこで聞かされた、この世界のこと、瘴気のこと、聖女のこと。
先に事情を聞いていたマリアはマイカがその話を聞いている間、震えながらマイカの手を握り続けていた。
訳もわからず知らない世界に連れてこられて、この世界の命運を握らされたら不安に思うのは当たり前のことだろう。
もちろんマイカは反対した。聖女なら私がやる、だからせめて姉だけでももとの世界に戻してくれ。
だが残念ながらマイカに聖女の力はなかった。
そしてマリアも、そんな重荷を大切な妹に押し付けてもとの世界に帰れるほど薄情な人間ではなかった。
条件は、聖女の役目が終わったら必ず2人をもとの世界に帰すこと。
こうしてマリアは聖女として、瘴気を浄化する旅に出た。
一方、その頃。
王国に残されたマイカはというと……。
「マイカさん、お茶はいかがですか? 美味しいケーキがあるんです。あ、クッキーの方がいいですか? それとも焼き菓子」
「どれもいりません。アディさん」
以前助けたアディという青年の屋敷に預けられていた。
理由は歳が近いからということとアディ本人たっての希望ということだったが、今にして思えば暗殺対象が同じ屋敷にいる方が都合がいいと思ったのだろう。
大体おかしいと思っていたのだ、歳が近いと言ってもマイカは20歳でアディは26歳。彼以外に歳の近い人間は他にもいただろうし、アディが名乗り出たとしてもわざわざ独り身の男の家に預けるとは。
といってもそれに気づいたのはもっとずっと後のことではあるが。
「マイカさん、寒くないですか」
「寒くないです」
「マイカさん、喉は乾いてませんか」
「乾いてないです」
「マイカさん」
「すいてないです」
アディが差し出すお菓子を横目にマイカは言葉を遮った。
マイカがここに来てからというものアディはずっとこの調子だ。
偶然とはいえ、マイカが命を救ったことに恩を感じているらしい。
手厚く歓迎してくれるのは嬉しいが、正直手厚すぎて、困惑している。
マリアが聖女としてこの国を旅立って半年、2人がこの世界に来て7ヶ月と少し。
姉、マリアに対して聖女の力がなく旅に同行することも出来ないマイカはこうしてアディの家で穏やかな毎日を過ごしていた。
外見だけは。
「ところでアディさん、そのお茶を淹れたのは」
「これですか? これは僕が淹れましたよ」
「それ、貸してもらっていいですか?」
「え、でも僕が淹れたので大丈夫だと……」
アディはマイカの言葉を否定したものの素直にカップにいれた紅茶を差し出した。
マイカはテーブルに置かれた紅茶に、銀でできたスプーンを差し込む。
すると銀はみるみるうちにその色を変えた。
「え、まさか。どうして⁉︎」
「間違いなく毒ですね。恐らくカップの表面に付着していたものだと」
「そうか、茶葉や水は自分たちで用意しているから……」
「カップ、同じデザインですけど新しい物に変わっています。ほら、私のは底が少し欠けていたはずなのになくなっている」
「つまり犯人は毒を塗った同じカップを用意して、僕がお湯を沸かしているうちにすり替えた」
「私とアディさんが使う食器は棚に入れて自分たちで厳重に鍵をかけているから、それを取り出した、その隙に」
そういうとアディさんは、はぁと重苦しいため息をついた。
アディが命を狙われていると知ったのは3ヶ月ほど前のこと。
お茶の途中にいきなり苦しんだと思ったら倒れたのだ。最初はアディが何か悪いものを食べてしまったのかと思った。
でも違った。毒が盛られていたのだ。
マイカは異変を察してアディの口に指を突っ込っこむと胃のものをすべて吐き出させた。水を大量に飲ませて、また吐き出させる。その処置を繰り返したお陰かアディは2日ほど熱を出したが回復した。
ただその時に知ってしまったのだ。苦しんでいるにも関わらず助けようともしない使用人。医師を手配するようお願いしても聞き入れなかった王国。
体調を崩した彼のもとに見舞いの友人ひとりさえ来ないことに。
出会ったあの日、彼が死にかけたことは偶然と聞かされていた。
侵入した何者かがたまたまそこに居合わせたアディに矢を放ったのだ、と。
今にして思えば、なぜ大勢の人の中でアディを狙ったのか。なぜ侵入してまで適当な者を選んだのか。
そもそも聖女召喚のあの日、誰かが侵入出来るほど王宮の警備が甘いことなどあり得るのだろうか。
もし、聖女になにかあったら取り返しがつかないのはこの国だ。
だがそれが、最初からアディを殺すためだとしたら?
熱が下がった日、マイカはアディを問い詰めた。そこで知ることになる。
聖女の召喚方法。アディの存在。
そのアディがマイカ姉妹の命運を握っていることを。
この世界とマイカがもといた世界、地球は裏と表のように重なっている。
2つの世界は普段交わることはないが、完全に断たれているわけでもない。片方の世界に子供が生まれればもう片方の世界にも生まれ落ちる。
この世界と地球で必ず自分と対になる人間が存在するのだという。でも普通の人間はそれに気づけない。
ただ唯一、お互いを感じとれる人間。聖女とその対になる人間を除いては。
そう、つまりマリアの対となるのが、アディ。
「僕は幼い頃から聖女様の存在を感じていた。それは多分、聖女様も同じだと思う」
マイカは姉から誰かの気配を感じるとかそういった類の話を聞いたことはなかった。ただ守護霊やお化けの存在をやけに信じていたところはある。
それがもしアディの言った通りなら、マリアも無意識に彼の存在を感じていたのかもしれない。
「小さい頃は、この力が特別なものだとは気づいてなかった。生まれた時から感じていたものだから」
でもある日、彼がその存在をうっかり親に話してしまったことで事態は変わった。
この世界はもう20年ほど前から瘴気に侵され始めていたらしい。
そのため聖女の召喚は近いとされていて、人々は国をあげて、聖女の気配を感じとれる人間を探していた。
なぜなら聖女をこの世界に召喚するためには、対の人間が不可欠だからだ。
聖女とその間に存在する繋がり。それが聖女をこちらの世界に導くための命綱。
そしてまた、その逆もしかり。
「その逆? その逆というのはどういうことですか?」
「……。聖女をもとの世界に帰すためにも僕が必要というわけ」
「では、そのアディさんの命が狙われているということは。つまり」
その事実に至ってぞっとした。
この国はもとからマリアを地球に帰すつもりなどなかったのだ!
「なんで、そんなことを……」
「聖女の権力は絶大だ。それは国境を越える。彼女がいれば無条件で他国が従う。そんな人間をみすみす手放す者はいない」
「でも、アディさんが対の存在なら、アディさんが死んでしまったら」
「生は対でも、死は対ではないよ」
「なんて身勝手なの!」
マイカは怒りのあまり気づけば目の前のアディに飛びかかっていた。
「なんで! なんでもっと早くに教えてくれなかったのですか!」
「言えなかった。他人には言えない呪いがかけられていたんだ。皮肉にもそれは死にかけたことで解かれたみたいだけど」
「今すぐに私たちをもとの世界に戻してください! 早く!」
「僕の力じゃ出来ない。僕はあくまで聖女とこの世界を繋ぐ命綱なだけであって、君たちを帰すには神官たちの力が必要だ」
「だったら今からその人たちに頼みに…!」
「やめろ! 君も殺されるぞ!!」
「っ!」
マイカは入り口に向かっていた足を止め、はっとしてアディを振り返った。
驚いた。いつも穏やかでニコニコしている彼がこんなにも大声を出すとは。
「国はなんとしてでも聖女を帰さないつもりなんだ。帰ろうとしているなんて知られたら君もどうなるか分からない」
「だったら、どうやって……」
「なんで王国側は君たちにもとの世界へ帰れると教えたと思う?」
いきなりされた質問にマイカは戸惑った。そう言われればそうだ。もとから帰れないと言ったら良かったのに、彼らはそれをしなかった。
「それは以前、帰れないと知った聖女が絶望して衰弱死したり身投げをした前例があるから。そうなればこの世界は100年、瘴気と戦いながら次の聖女の誕生を待たなくてはいけない」
そしてもうひとつ、と彼は続けた。
「聖女がもとの世界に帰れるのは全国民周知の事実だから」
だから、王国側が嘘をついたとしても旅のなかで多くの人々と触れ合ううちに、その事実はどうしたってバレてしまう。
「でもね。この世界の人間は、帰れると知ってて、聖女自らがこの世界に残ることを決めたと思い込んでいる」
「ど、どうしてですか?」
「それは歴代の聖女たちが召喚された国の、王や王子と結婚しているからだよ」
マイカは考えた。
普通に考えて旅の中で聖女が一緒に行動する異性に惹かれてもおかしくはない。
だが、皆が皆となるとそれも変だ。
それではまるで仕組まれているような。
「仕組まれているんだよ」
アディがマイカの思考に返答するかのように口を開いた。
「聖女の一行は少人数、しかも男性のみで構成されている。それは異質な状況の中で聖女が仲間に好意を抱きやすいように」
「でも、そんな簡単にいくはずが」
「いくんだよ。例えば危機に面したとき。挫けそうなとき。大切な人を……亡くしたとき。そっと側にいて支えてあげれば」
「大切な人を……亡くしたとき?」
あまりにも不穏な言葉にマイカは唾を飲み込んだ。
アディが今までずっとマイカを見ていた目をふっと逸らすと、悲しい面持ちで口を開いた。
「その相手に選ばれるのは、もっぱら、生まれた頃から繋がりを感じてきた人だが」
「アディさん」
「でも、今回ばかりは違う。聖女には僕よりもよっぽど大切な人がいる」
マイカは目を見開いた。
「わ、たし……?」
「!? マイカさん!」
マイカはあまりの衝撃に膝から崩れ落ちた。アディが支えてくれなければ膝にあざができていたかもしれない。
アディは力の抜けたマイカを抱え上げるとソファの上へと座らせた。
そして自分もその隣に腰を降ろし、マイカの背を撫でる。
マイカはそんな事にも気づかないぐらいショックを受けていた。
自分が殺されそうだということじゃない。
姉がそんな危うい立場に立たされていることへだ。
ようやくこの世界が分かってきた。
危険な旅ではないというのに同行させてもらえなかったのは、妹に依存させないため。
王宮の人間と違って国民から刺を感じないのは、彼らがその事実を知らないため。
マリアの前では丁重だった王宮の対応が、姉がいなくなった途端変わるのは、いずれ私を殺すため。
「帰る方法はひとつ。生き残ること。生き残って国民に、もとの世界に帰る、と聖女の口から聖女の声で宣言すること」
そうすれば国は聖女をもとの世界に帰さざるを得ない。
もし帰ると宣言した聖女を無理矢理留めおけば他国から反感をかい、聖女を守るという名目のもと侵略される恐れがあるし、聖女を無理矢理留めおいても他国へのカードとして使えないなら意味がない。
それなら他国に奪われるより、もとの世界に帰した方が安全と言えるだろう。
だが、聖女を帰すときに肝心のアディがいなければ。
「マイカさん?」
マイカは顔を上げると、アディの手を握りしめた。
絶対にこの人を死なせない。
絶対に。絶対にだ!
「私が守ります。必ず私が、あなたを守ります!」
さっきまでの呆けた様子はどこへやら。急に顔を上げたと思ったら凄い形相でこちらを睨むマイカの様子にアディは思わずぷっ、と吹き出した。
そして彼女を引き寄せると胸に抱え込む。
「ア、アディさん」
「自分の力がわかったあの時から、いつか僕は殺されるんだと諦めてきた」
だけど
「聖女召喚の広間であなたが男たちを投げ飛ばした時、生きたいと思った。あなたみたいに運命に抗ってみたいと思った」
だから、一緒に生きてくれませんか?
そう耳元で囁かれた震える声にマイカはいちもにもなく頷いた。
それからは忙しい毎日だった。
まずマイカは毒を警戒して、銀を用意することから始めた。ビックリする事にこの世界は銀の流通が一般ではなく、ほとんど使用されないらしい。
そのため探すのに苦労したが、代わりに見つかれば安価で手に入れることが出来た。
町の鍛冶屋にスプーンに出来ないか聞くと、聖女の妹の頼みと快く協力してくれたのは嬉しいことだった。
次に食べ物。
毒は紅茶に仕込まれていたため、自分たちで飲むものはなるべく自分たちで用意するようにした。料理も然り。
だがいきなりでは怪しまれるため少しずつ自分で作る機会を増やし、毒殺未遂から3ヶ月が経つ頃にはすっかり自分たちで作るのが定着していた。
王宮から派遣された使用人は今でも遠巻きに私たちを眺めている
隙あらば毒殺しようと、虎視眈々と。
屋敷に空き巣と見せかけて男たちが襲って来たこともあった。
だがこの世界は戦争をしなくなって久しいらしい。
食べ物を求めて下層の者が争い合う、なんてこともないくらい穏やかに富んだ世界。
皮肉にもこの世界はマイカがいた地球よりも遥かに豊かだった。
そんな世界で鍛えられてもいない男たちは、正直マイカの敵ではなかった。
だがそうは言っても時には隙をつかれて怪我をしたり寝込んだりしたのは1度や2度ではない。
その度にマイカがアディを、アディがマイカを、励まし合って乗り越えてきた。
そしてマイカ姉妹がこの世界に召喚されて約1年。
「私は、もとの世界に帰ります!!!」
聖女マリアの宣言により、この長きに渡る戦いに幕が降された。
「マイカ!」
「……アディ」
アディに止められてマイカは振り返った。その姿はアディの屋敷にいた頃のドレスではなく、この世界に来たときのものだ。
「本当に帰ってしまうの?」
「家族が心配するから。それに友人や、大学の人たちも。どうしても外せない用事もあるし」
「そうか……。そうだね」
マイカがへにゃりと笑ってみせるとアディも釣られて笑顔になった。
この1年間、片時も離れず共に過ごしてきた。苦しいことや悲しいこともあったけれど、楽しいことや一緒に笑い合ったことも沢山あった。
だけど、マイカはもとの世界へ帰ることを決めた。
「マイカ、行くよ」
「うん、お姉ちゃん」
「マイカ!」
姉に呼ばれ広間に足を向けようとしていたマイカは、再びアディに呼び止められて振り返った。
「最後に一度だけ、抱きしめさせてくれないか?」
アディが腕を広げる。
マイカは素直にその腕に歩み寄った。それがこの世界の親友との別れだった。
聖女マリアは王宮側の企み虚しく誰とも恋に落ちることはなかった。それもそのはず。
この世界の人間は知らなかったに違いない。マリアの着る純白のドレスがウエディングドレスだという事に。
そう2人はマリアの結婚式の真っ最中に異世界へと召喚されたのだ。
「マイカ、後悔しない?」
「うん」
マリアの質問にマイカは迷わず頷いた。
アディと共に過ごした時間は長かったけれど、もとの世界に帰りたい思いはどうしても消せなかった。
だが、間違いなくアディはマイカにとってかけがえのない親友だった。
その親友を悲しませることにはなってしまうけれど。
「帰ろう、お姉ちゃん」
目の前で白のローブを纏った神官たちが朗々と呪文を唱えると、マイカたちの体は強い光に包まれていった。この光に包まれるのはこれで2度目だ。今この時と、姉と共にこの異世界に強制的に召喚された、1年前と。
さて、もといた場所、時間に帰れるとしても2人からしてみれば1年だ。1年間、大切な人たちに会えなかった。その寂しさは自分たちが思う以上に募っていたらしい。
帰ったら何を話そう。この世界のこと。戦いのこと。親友のこと。
その前に空手の師範代でマイカの師匠でもある父に一戦、手合わせ願おうか。
マイカはこの1年間、訓練を欠かさなかった。それどころか、今まで以上に練習を重ねた。
きっと凄く強くなっていて父もビックリすることだろう。
光がより一層強くなる。
その隙間から今にも泣きそうなアディの姿が見えた。
泣かないで。笑って。
だからマイカは震える唇を精一杯持ち上げて笑った。
アディの口角が微かにあがる。
その姿を最後にマイカたちは完全に光の中に包まれた。
こうして聖女マリアはもとの世界へと帰ったのである。
「え」
マイカが目を開けると、そこは変わらず帰還の儀式が行われていた広間で、目の前には白いローブを着た神官たちが佇んでいた。
「どうして」
はっとして隣を見る。そこにマリアの姿はなかった。
つまり、マリアだけがもとの世界へ帰り、自分だけが帰れなかったということになる。
「どう……して」
マイカはもう一度同じ言葉を繰り返した。
まさかと思って神官たちを見たが、彼らもマイカが残されていることに心底驚いている様子だ。
それが示すのは、ここにいる誰ひとり、マイカが帰れなかった理由を知らないということ。
「マイカ!」
マイカは追いつかない思考に、生まれてはじめて気絶した。
アディはそんなマイカの崩れ落ちる体を、床に着くすんでのところで抱きとめた。
「誰か! 部屋を!」
「は、はい!」
そしてマイカを抱え上げると用意された部屋のベッドへと優しく降ろした。
それからマイカが目を覚ましたのは、半日後のことである。
「つまり、私の対の人が、病気か事故かは分からないけれど、なんらかの形で死亡した」
「マイカ」
「だから私はもとの世界には帰れない。一生」
「ごめん、ごめんマイカ」
「なんでアディが謝るの?」
そうアディはちっとも悪くない。
どうして気づかなかったのか。姉がアディとの繋がりを辿って召喚されたのなら、私もまたこの世界に対になる人物がいるということに。
「今回の召喚はイレギュラーだったから。ふたり召喚された事例なんてなかったし、だからてっきり自分がいればふたりとも帰れると思ってた」
それはマイカも同じだ。
アディさえいればもとの世界に帰れると思っていた。信じて疑わなかった。でも結果は違う。
もう戻れないのだ。姉の結婚式に出ることも、父と手合わせすることも、出来ない。
そして何よりマイカの心を深く削ったのは、心の支えであった姉もこの世界から居なくなってしまったことだった。
「うっ、っ……」
この日、マイカはこの世界に来てから初めて泣いた。
アディはそんなマイカをずっとずっと、夜が明けても抱きしめていた。
「マイカ、どうか僕と結婚してくれませんか」
僕がそう告げて指輪を差し出すと、彼女は驚きのあまり固まってしまった。
それを見て思わずふふっと笑う。
アディはいま、国の一部に領地を与えられ貴族位を得ていた。
それもこれも聖女をこの世界に導き、そして無事に送り届けた功績を称えられて。
だが王宮のお偉い方は笑顔の裏で、さぞアディを恨めしく思っていたに違いない。
「マイカ、返事を聞いてもいいかな?」
アディが尋ねるとケーキを口に運ぶ形で止まっていたマイカがはっと息を吸った。
どうやら驚きのあまり息をするのも忘れていたらしい。
その姿さえ愛しく思える。
マイカは震える手でフォークを皿に置いたかと思うと、膝の上で手を握り締めた。
「私でよければ、喜んで」
「! ありがとう、マイカ!」
「えっ、ちょっ」
アディは嬉しさのあまりマイカを抱え上げるとぐるぐるとその場を回った。そしてそれが終わるとマイカを胸にぎゅっと抱き込んだ。
そう、アディには造作もないのだ。
成人女性ひとり抱え上げるくらいなど。
「ねぇ、マイカ聞いて欲しい」
「何?」
「僕はここに連れてこられた時からいつか自分が殺されてしまうと諦めていた。だけど君を見たとき、生きたいって思ったんだよ」
「前にも聞いた」
「そうだっけ?」
そうだとしても伝えたかった。アディの人生はマイカに出会ったあの日、あの瞬間に変わったのだ。
「だから、一緒に生きてくれませんか?」
そんなアディの言葉に応えるようにマイカはアディを抱きしめた。
その影で、アディは黒く笑った。
マイカは知らない。
出会ったあの日、わざとアディが狙われる場所に出たこと。
その矢をなんなくかわせるぐらいの身体能力がアディにはあること。
少し傷ついて可哀想な被害者を演じて見せるつもりが、まさか自分の身を顧みずアディを助けるとは思ってもいなかった。
その行動が余計にアディに火をつけた。
だから非力なふりをしたのだ。マイカが守られるだけをよしとしたならば、アディはいかんなくその腕を発揮したに違いない。
だがマイカは自ら戦うことを選ぶ人間だった。
もちろん、既にアディの手によって戦う相手はもう仕立て上げられている。
少しの真実に大きな偽りを混ぜて。
アディが殺されそうになっていたのは、本当。でもマイカが殺されそうになっていたのは嘘。
それどころかアディが毒殺されようとしたことなんて1度もない。
王宮から遣わされたといっても使用人は一般人。そんな人間に毒殺なんて命令するはずもない。
なら毒は誰が、などお察しのいいみなさまなら言うまでもないだろう。
そうして屋敷の中でマイカの味方をアディひとりにした。
アディだけに心を向け、アディだけのために行動し、アディ以外見えないように。
大きな誤算だったのは、彼女の中の姉の存在が大きかったことだ。
マイカは日に日にアディに心を許していったが、とうとうアディが姉の存在を超えることはなかった。
だから決行した。
もちろん、人殺しなんてしてない。
ところでみなさんは、どうしてアディが自分の結末について詳細に知っているのか気にならないだろうか?
聖女の召喚方法、企み、対の人間の暗殺。
王宮のなかでもごく一部の限られた人間しか知らないことを。
まぁ、それは彼が王の親族、王兄だったからに過ぎないのだが。
だからあの日、アディは抱きしめた瞬間にマイカのポケットにある物を仕込んだ。
知っていたのだ、この世界の物を持っていると、対の人間がいてももとの世界には戻れないことを。
そうアディはわざと彼女を帰さず、真実を隠してもう一生戻れないのだと信じ込ませた。
ちなみにあの日ポケットに仕込ませた物は今はマイカの左手で光っている。
あぁ、可哀想なマイカ。
本当は彼女の口からここに残ると言って欲しかったが、仕方がない。
もとの世界に帰ると全国民の前で宣言した聖女と違って、マイカにどれだけの価値が生まれたのか彼女は気づいていない。
その後、マイカは姉の代わりにこの国に残ることと、アディとの結婚を国民の前で宣言した。
国民はなんと優しき妹だろうとマイカを歓迎し、また美しい夫婦の誕生に歓喜した。
マイカが残ることで聖女並ではないものの、他国になんとか威厳を保てた上層部はこの結婚に文句をつけることなどないだろう。
もっとも、嘘でマイカをこの国に縛り付けることは事前に弟に伝えていた。
だから、それを黙認した人たちもみな同罪なのだ。
まぁ、もし素直に頷いてくれなかったら可愛い弟を手にかけるところだったのだが。
「アディどうかした?」
「ううん、マイカが愛しいなと思って」
「もう」
照れてそっぽを向いた妻にアディは微笑みかけた。
真実の中に嘘があるように、嘘の中に真実がある。
アディはマイカに出会うまで生きることに興味がなかった。
自分は聖女を呼ぶためだけの存在。
うっかり口を滑らさなければ、温かい家庭も、王子の座も失うことはなかった。
だが今になればそれで良かったのだ。
マイカに出会うためだったのならば。
マイカに出会った、あの日あの瞬間にアディは生きたいとは思った。
心の底から、この女性と。
だから可哀想な、マイカ。
無理矢理残されたとも知らずに君はこの国を愛するだろう。
そして人々は真実を知らぬまま、きっと彼女をこう語るだろう。
あぁ、なんと慈悲深き聖女の妹様、と。