冷たい体と戻る事のない意志
続きです。
「なぁ、親父」
「孝道ぃ、それ以上は言うんじゃねぇ!」
「でもよ」
「お前はよく頑張った。貞江もだ。胸を張れ」
孝則は、孝道の言葉を遮ると、貞江に歩み寄る。
そして、貞江の肩をポンと叩くと、柔らかなトーンで声をかける。
「貞江、お疲れ様」
孝則の言葉で、貞江の瞳から、堰を切った様に涙が流れ出す。
孝道は貞江を抱き寄せる。そして孝則は、貞江から背を向けた。
「今だけだ。わかるな、貞江」
声を押し殺すように嗚咽する貞江を、孝道はきつく抱きしめた。
そして孝則は、スマートフォンを手に取り、歩き出す。
「あぁ、俺だ」
電話を受けた佐川は、孝則の低い声色で全てを察した。
「村長。診療所に集まったみんなは、一時解散させます。後の手配は、お任せください。村長はお気をつけてお帰り下さい」
「わるいな。こっちの手続きが終わったら戻る。必要な物は、こっちで調達する」
「ありがとうございます」
「後、さくらに伝えといてくれ」
「なんでしょう?」
「先生に挨拶出来るのは、今日までだ。葬儀の準備が始まるまでに、ギイ達を合わせてやれ」
「わかりました」
孝則から電話を受けた瞬間と、打って変わって沈んだ佐川の表情で、診療所に集まった住人達は理解したのだろう。
電話を切った佐川の口から、告げられる言葉を受け止めようと、改めて覚悟を決めた。
「先生が……お亡くなりになりました。皆さんは、一旦ご帰宅下さい。後はいつも通りです。付き添いは、交代でやりましょう。明日は葬儀の準備。今回は、調査隊が手伝ってくれます。それほど大変な作業にはならないでしょう。それと、さくらさん。あの子達が、別れの挨拶を出来る時間は、限られてます。和尚さんがいらっしゃるまでに、済ませて下さい」
淡々とした口調で、佐川が語ったせいも有るのだろう。住人達は現実を受け止め、これからやるべき事を確認する事が出来た。
帰宅しても、眠れる訳が無い。それに、もうすぐ夜が明ける。
皆が、待合室から出ていく。皆が出たのを確認すると、みのりは電気を消して、診療所の鍵をかけた。
さくらが帰宅する頃には、クミルが朝食の用意を始めていた。
あれから眠れたのだろうか。それより、何と伝えたらいいだろう。この子達は、耐えられるのだろうか。
そんな事を考えながら、さくらはギイ達をぼうっと眺めていた。
その様子に違和感を感じたのか、ギイ達はさくらに近づくと、顔を覗き込んだ。
「ギイギ、ギギギ?」
「ガアガ、ガアガガ?」
「何でもないよ。あんたらは、眠れたのかい?」
「ギイギ、ギイギギギ」
「ガアガ、ガアガガガ、ガガガア」
「そうかい。なら、ご飯を食べたら、ばあちゃんと寝ようか」
「ギイ」
「ガア。ガガガア?」
「大丈夫だよ。それとね、ギイ、ガア。今日は、畑の手伝いをしなくていい。先生の授業も無い」
「ギギギ?」
「ガア?」
「先生はね。旅立ったんだよ」
ギイとガアは、言葉の意味を理解出来なかったのだろう。首を傾げて、さくらをじっとみつめていた。
さくらは軽くギイ達の頭を撫でると、キッチンから離れようとする。クミルは、コンロの火を止めると、さくらを追いかけた。
「さくらさん。なにか、あった?」
「言葉の通りだよ。先生とお別れが出来るのは、今日だけだ」
「せんせいが? なにか……」
さくらから伝わった感情で、大体の事情を理解し、クミルは言いかけた言葉を呑み込んだ。
「そうかい。あんたは、わかるんだったね。ごめんよ、何て伝えたらいいか、わからなくてね」
「いえ。だいじょうぶ、です」
「あんたは……いや、無理はしないで良いんだからね」
「はい。わかって、ます」
クミルが自身の変化を自覚したのは、さくらと離れてコンロの火を付けた時だった。
手が、震えていた。
失った命を、あの悲しみを、痛みを、全て背負うつもりだった。でも、背負ったつもりに、なっていただけだった。
乗り越えたつもりだった。でも、温かさに守られ、忘れていただけだった。
失う怖さが蘇る、あの惨劇が蘇る。自覚してしまった、もう震えは止まらない。
手から腕へと震えが伝わる、やがて全身へと広がっていく。顔が青白く変わり、立っていられなくなる。
次の瞬間、クミルはふらついた。
「やっぱり戻ってきて良かったよ。あんたは、少し休んでな。ギイ、ガア、一緒に居てやりな」
「ごめん、なさい」
「謝る事なんか、無いよ。誰でも簡単に乗り越えられたら、苦労はしないよ。一人で抱え込もうなんて、しなくていいんだ。頼りなさい」
「はい」
後方に倒れそうになったクミルを、さくらが支えた。そしてギイとガアに支えられながら、クミルは居間へと向かう。
さくらから伝わる違和感、クミルの変化を感じ、ギイとガアも何かを察したのだろう。
食事の際は、さくらの両脇にくっついて座った。仮眠の際も、しがみ付いたまま、離れようとしなかった。
さくらと共にいても、漠然とした不安が消えてくれない。寝覚めの悪さと相まって、ギイとガアからいつもの笑顔が消えていた。
ぐっすりとはいかない。ただ時間が経過しただけ。それでも、少しは眠れたのだろう。
碌に食事が喉を通らず、さくらに言われるがまま、クミルは横になった。そのクミルも、ゆっくりと瞼を開ける。
「少しは落ち着いたかい?」
さくらは、柔らかな声が届く。だがクミルは、言葉を返す事が出来なかった。
「良いんだよ。無理な事は有る。仕方ないんだよ。でもあんたの事だ、わかってるんだろ。いずれは乗り越えなきゃいけないんだ」
クミルは無論、ギイとガアがどんな状況を乗り越えて、日本に辿り着いたのか。それを考えれば、容易に受け入れろと言えない。
だがさくらは、別れの挨拶をさせる為に、先生の所へ連れて行くつもりだった。
クミルが死と遭遇したのは、あの時が初めてではない。
少なくとも、クミルは母親を看取っている。そして当時の、やせ細ったクミルの体を見れば、わかるだろう。
クミルが暮らしていた場所は、いつ誰が死んでもおかしくない程の、悪環境であった。
自然死ならば、クミルは受け止められるのか? 多分違う。あの惨劇が、未だに影を落としているのだ。
目の前で、親や仲間を殺されたギイとガアは、尚更だろう。
忘れてしまえるなら、それでいい。だが、刻まれた恐怖はじわじわと、心を縛り付ける。そして、気が付いた時には、身動きが取れなくなっている。
そうならない内に、乗り越えさせねばなるまい。
彼らは、さくらに依存している。そしてさくらは多分、彼らの成長を見届ける事が出来ない。
さくらは、近くに置いてあるスマートフォンを手に取る。そしてメールを確認すると、ゆっくり立ち上がった。
「さて、行くよ」
「ギギ?」
「ガガ?」
「先生の所だよ。お別れの挨拶をするんだ」
不安の正体がわかる。だが、その正体を知りたくない。
そんな気持ちの表れだろうか、ギイとガアは素早く立ち上がると、さくらの足にしがみ付く。
「大丈夫だ、ばあちゃんがついてる。それに、あんた等は強い子だろ?」
さくらは語り終えると、ギイとガアの手を取る。そして、クミルに視線を送る。
「あんたも、手を繋ぐかい? 少しくらい甘えたって、良いんだよ」
「いえ。わたし、だいじょうぶ。さくらさん、いてくれる、おちついた」
「そうかい。じゃあ、行こうか」
クミルは、さくらの自分達に対する思いを、感じ取っていた。それ故だろう、震えは止まっていた。
ゆっくりと歩くさくらの後をついて、クミルも歩みを進める。
やがてさくら達は、三笠の家に辿り着く。
貞江の車が庭に停まっている。玄関前では、孝則と佐川が話しをしているのが見える。
学び舎として、慣れ親しんだ三笠の家は、不思議な緊張感が漂っていた。
「さくら……」
「心配しなくてもいいよ」
「そうか」
「それで、手伝う事は有るかい?」
「お前は、あいつらの傍にいろ」
「そうかい、たすかるよ。確か、先生には親族が」
「あぁ、子供はいねぇ。でも先生には、この村の奴らが子供みたいなもんだ」
「そうだね。あたしも、随分と叱られたよ」
孝則とさくらの姿を見て、クミルは酷く違和感を感じていた。
いつもなら、孝則の声には張りが有る。だが、今日の孝則は、低く沈んだ声をしている。それに合わせてだろうか、さくらはやや淡々としている。
いずれは訪れるものと、現実を受け止めているのだろうか。それとも故人を悼み、粛々と事を運ぼうとしているのだろうか。
人には天命が有ると、理解をしていた。
少なくとも自分のそれは、倒れるまで働き続ける事であった。
先生は、天命を全うしたのだろうか。だからさくらは、旅立ったと答えたのだろうか。
クミルが、考えを巡らせていると、さくらから声がかかる。そしてさくら達は、邸内に足を踏み入れた。
見慣れた村民が、邸内で忙しそうに動き回っているのが見える。そして、さくらの後ろについて、クミルも部屋に入る。
そこは、三笠から日本語を教えてもらっていた部屋。中心に布団が敷かれ、三笠が眠っていた。
さくらが傍に居てくれる、だから恐怖は少し薄れている。しかし現実を突き付けられると、酷い喪失感に襲われる。
この瞬間、クミルの瞳から涙が零れ出した。
三笠が眠っている傍には、貞江と佐川の妻である美津子の姿があった。
「さくらさん。クミルさん。ギイちゃん、ガアちゃん。先生のお顔を見てあげて」
優しく紡がれた言葉に誘われ、さくらが枕元に腰を下ろす。続いてギイ、ガア、クミルが腰を下ろした。
血の気が引いて白くなった肌。もう二度と開かない目。それを見た瞬間、ギイとガアはパニックに陥った様に騒ぎ始めた。
「ギャアギャギイギギヤ、ギャギヤギヤギイィヤギヤイヤギイギ」
「ガウアガガガアアガガガアアアア、ガガガガガガアアアガガァアガ」
間違いなく、あの惨劇を思い出してしまったのだ。だが、ここで騒ぎ立てるのは良くない。
そう考えたクミルが、ギイ達を宥め様とした瞬間だった
さくらの手が勢いよく伸び、パンッ、パンッという乾いた音が、部屋の中に響き渡る。
さくらに叩かれた驚きが勝ったのだろう、ギイ達は喚くのを止めて頬を押さえた。
まさか、さくらが叩くと思っていなかったのだろう。そしてなぜ叩かれたのか、わかっていないのだろう。
静かになった所で、さくらはギイ達を抱きしめる。
「痛かったかい? ごめんよ」
さくらは、抱きしめる腕に力を籠める。そして、ギイとガアにも届く様、ゆっくりと語り始めた。
「あんたらが、何を抱えているか、全部をわかってはやれないよ。辛かったんだよね? 思い出したくないよね? でもね、あんたらは先生の教え子なんだ。ちゃんと見送っておくれ」
さくらはギイ達を離すと、三笠の遺体に目を向けさせる。
「いいかい? センセイは、苦しそうな顔をしてるかい? 辛そうな顔をしてるかい? 穏やかな顔じゃないか。先生は、ちゃんと戦ったんだよ!」
そしてさくらは、大きく息を吐き呼吸を整えると、言葉を続ける。
「教え子のあんたらが、そうやって喚いてたら、先生は心配で旅立てないんだ! 先生は最後まで、生き抜いたんだ。今度はあんたらの番だ! 自分達は大丈夫だって、見せるんだよ! ちゃんと、先生の顔を見な! ちゃんと送ってやりな」
恐らく、さくらの言葉を全て理解はしていない。だが想いは伝わった。ギイ達はさくらの腕から離れ、三笠の枕元に座る。
ギイ達にとって、死がトラウマになっているのだとすれば、どれだけ過酷な事を強いているのだろうか。
ギイ達は、三笠の顔にそっと手を伸ばす。そして、柔らかな表情を確認する。
この時、ギイ達の中に過る感情は、どんなものだったのか。ただ、先ほどの様に喚き散らす事は無かった。
「ギギギィ。ギギギギギ」
「ガガガァ、ガガガガ」
その小さい口から放たれた言葉を理解出来た者は、少ないだろう。だが、クミルは理解していた。
彼らの中にある、感謝の想い。それが、恐怖を薄れさせたのだろう。それは、彼らが一歩を踏み出した証だ。
さくらは、ギイ達を引き寄せると、頭を優しく撫で、きつく抱きしめた。
今回も、多くは語りません。
誰にでも、いつの日か、向き合う日が来ます。
トラウマ然り、死も然り。
次回もお楽しみに!




