逃走の果てに
兄妹は立ち上がれるのか?
どれだけ時間が経っただろう。兄妹は泣き続けていた。やがて涙が枯れる頃、妹は蹲ったまま、兄に呼びかける。
「ガガ、ガアガア」
妹の言葉を聞き、兄は目を見開いた。
いつも兄の後ろに隠れ、小さな動物でさえも怖がる妹が、見知らぬ森に足を踏み入れようと言う。
妹だって、怖かったはずだ。でも前に進む事を、決意した。そんな勇気が、どこにあったのか?
妹は、いつの間にか成長していたのか?
いや違う、元々勇敢だったんだ。守らなければならない、そう思っていた。だが、守られているのは、自分だったのかもしれない。
故郷の森は、目を瞑っていても、走る事が出来る。それ位に、慣れ親しんだ場所であった。
しかし逃走の最中、兄は何度か道を間違えた。かなりの動揺があったのだろう、仕方のない事だ。
手を引かれながらも、周囲を観察し、兄に道を教えたのは妹であった。
きっと妹は自分よりも、勇敢なのだ。そして、自分よりも冷静だった。
妹は反対した。心配をかけるから、あの場所から離れるのは駄目だと言った。そんな妹を説得し、山に向かう事を決めたのは、自分なのだ。
仲間と両親から、勇気を受け継いだのだ。妹だけじゃない、自分も受け継いだのだ。
自分が前に立たずにどうする。
あの優しい人間に、迷惑をかけない様にするには、ここで暮らすしかない。そう決めたのだ。立ち止まって、何になる。泣いているだけで、何が出来る。
悪夢の様な出来事に怯えていては、生きてはいけない。自分達は、生きていかなければならない。
母の言葉を守る事が、死んだ仲間への手向けになる。
「ギイギ! ギギギギギ、ギイギ! ギイ、ギイ!」
「ガガ。ガガア、ガアガア。ガガガ、ガアガ」
兄妹は、立ち上がる。そして、兄が妹の手を引き、一歩ずつ慎重に歩き出す。
恐怖は、まだ心の中で蠢いている。両足が震え、上手く歩けない。
妹は震える手で、存在を確かめる様に、兄の手を強く握る。そして兄もまた、妹の体温を感じながら、強く握り返す。
恐怖の為、視界が狭まっていた。
よく見れば、生えている木が違う。そこに巣くう鳥が違う。飛んでいる虫が違う。草むらに身を潜ませて、休んでいる小さな動物達が違う。
何もかもが、故郷の森とは違う。匂いが違って当然だ。
大丈夫、ここにはあの化け物はいない。
大丈夫、ここは安全だ。
己に言い聞かせる様に、兄は小声で呟く。それを聞いた妹は、ようやく周囲を見渡す事が出来た。
ここには、色んな種類の虫や動物が暮らしている。
ここにもちゃんと、生態系が有るのだろう。あの悲しい化け物が、余所者だった様に、今は自分達が余所者なのだ。
森の秩序を壊せば、森の恵みを受ける事は出来なくなる。周りの虫や動物に、余計な緊張を与えない様に、兄妹は音を立てずに歩いていく。
これからここが、新たな住処となるのだ。
故郷との違いを感じながら、ゆっくりと心を落ち着け、じっくりと周囲を見渡す。
何が糧となるのか。また、何が自分達にとって脅威となり得るのか。冷静に見極めながら、歩みを進める。
ただし、森はそれほど甘くはない。
虫も動物も、己が生き延びる為に、進化を遂げて来た存在だ。そして、余所者を簡単に受け入れる程、優しくはない。
虫達は告げる、何かが訪れたと。鳥達は告げる、奇妙な生き物が現れたと。小さな動物は、休む事を止め騒ぎ出す。
大人のゴブリンであったら、状況は異なっただろう。
薄暗い森の中でも、獲物を捉える事が出来る目。音を立てずに、獲物に忍び寄る技術。故郷の森では、最弱の部類に入るゴブリンでも、この森では脅威になったはずだ。
だが、兄妹の技術は余りにも拙い。どれだけ足音を消そうとしても、森の住人を欺ける程、完全に消す事は出来ない。
気配を消す事が出来ない、匂いを消す事が出来ない。ましてや、夜目が利くのは、兄妹だけではない。
「ガガ、ガア」
「ギギ、ギイギギギイ」
兄妹は、警戒されている事を、感じ取った。緊張感が漂う森の中で、兄妹は更なる慎重さを求められた。
森に認められるには、時間がかかるだろう。仕方がない、兄妹は余所者なのだ。歓迎される方が、おかしいのだ。
やがて、大地は緩やかに傾斜していく。兄妹は、一歩ずつ足元を確かめながら歩く。住処になり得る場所を探して、徘徊を続ける。
しかし、余所者に易々と住処を与える程、森は優しくない。小さな動物達は、威嚇を続ける。そして、虫達は、身を潜ませ襲撃態勢を整える。
どれだけ歩いただろう、兄妹は山の中腹まで進んでいた。
「ガア、ガ。ガア、ガア」
「ギイ、ギイ。ギギギギ。ギギイギイ」
徐々に、足を踏み出す速度が落ちていく。呼吸が荒くなり、膨大な汗が流れ出す。
診療所で仮眠を取り、多少は疲労が軽減したとは言え、完全に癒えた訳ではない。
そして山の傾斜は、兄妹の体力を否応なしに削っていく。疲労に加え、緊張の連続は、兄妹の集中力を奪い取る。
あの逃走劇で、冷静であった妹でさえも、頭が回らなくなる程に疲れていた。
ただ、ここまでの道程で、自分達を害する事が出来る脅威は、見当たらなかった。それが油断に繋がったのだろう。
兄は、周囲の警戒を緩めて、寝処に最低な場所を探す事に、意識を割いていた。
何が潜んでいるのか、完全に把握してはいない。見知らぬ森の中で、警戒を緩めるのは、最大の悪手であろう。
普段なら、そんなヘマはしない。だが今の兄妹は、集中力を著しく欠いている。故に、この山で最大級の獣に近寄っている事に、気付く事が出来なかった。
低い唸り声と共に、それは現れた。気が付いた時には、もう遅かった。巨大な獣が、ゆっくり枝を掻き分けて姿を見せた。
兄妹の何倍あるのだろう、毛に覆われた、がっしりとした体躯。そして鋭い爪と牙。それは、この森で兄妹が初めて目にする、脅威であった。
一瞬、兄妹は凍り付いた様に動けなかった。幸いにも、その行動は正解である。
しかし次の瞬間、兄は妹を背に隠す。そして、足元に転がる枝を手に取る。
そんな物で、巨大な獣を相手取る事は出来ない。しかし身を守る方法は、それ以外に考えられない。
疲労で、脳の回転が遅くなっている。しかし、よく見れば理解出来たはず。
微かな音しか立てずに歩く、見知らぬ生き物が突然現れた。
警戒心が強く、聴力の高い生物なら、さぞ驚いた事だろう。そして、威嚇行動を起こしたのだ。
聡い妹なら、それに気が付いてもおかしくはない。
怯えさせない様に、ゆっくりと距離を取る事は出来ただろう。
ましてや、人間とは異なるゴブリンの身体能力ならば、逃げる事も可能であっただろう。
仮に逃げ切れなかったとしても、他に手段なら幾らでもある。
木を伝って逃げれば、相手を振り切れたかもしれない。なにせ相手は、大きな体躯である。木の上で有利なのは、身軽に動けるゴブリンの方だ。
また逃げる迄もなく、相手が去るまで、身を隠す事も出来ただろう。
だが、極度の疲労が、兄妹の判断を狂わせた。
兄の行動は、巨大な獣の目に、攻撃の意志が有ると映ったのだろう。
ただ脅すだけの行動を、攻撃に変化させる。勢いよく突進してくる様を見れば、容易にわかる。
その突進は、兄弟の体を簡単にバラバラにする。
「ガ……」
「ギイ……」
兄妹はこの瞬間、死を覚悟した。
兄の体は強張って動かない。妹は、兄の背中にしがみ付く。
そんな時、パンッという乾いた音が、山の中に響き渡った。
その音に反応したのか、巨大な生物が動きを止めた。
パンッパンッと、乾いた音は続く。
兄妹には、その音が理解出来ない。しかし、巨大な獣は、その音を理解しているのだろう。
巨大な獣は、突進を止めて、ゆっくりと兄妹から距離を取る。
それと同時に、吠えながら近づいて来る妙な生物がいるのを、兄妹は理解していた。
兄妹の緊張は、些かも解けていない。それは、本能的な行動だったのかもしれない。
兄は妹を背に隠したまま、ゆっくりと巨大な獣から離れる。
また、一連の出来事は、兄妹に更なる疲労を与えた。
距離を取ったとて、巨大な獣は警戒を緩めていない。吠える何かが近づいて来る。
しかし、既に体力の限界を超え、兄妹は身動き一つ取る事は出来ない。
見知らぬ森で、兄妹は危機の只中にいた。
それは、自らの力では、どうにもならない。悪夢の再来であった。
このエピソードが公開されるのは、三月です。
はい、そろそろ季節の変わり目ですね。
そして、花粉の季節ですよ。
私自身、この時期は体調を崩します。
出歩くと、涙が出てくる時も有ります。
しかし! 私は認めないのだ!
花粉症ではない!
下らない事を口走りました。
皆さんは、くれぐれも体調管理をしっかりなさって下さい。
次回もお楽しみに!