バルセロナの忘れもの
1
晩秋の、薄曇りの日の夕刻、私の経営する小さな画廊に初老の紳士がひょっこりとやって来た。
紳士といってもスーツを着ているわけではない。えんじのセーターにジーパン姿だが、白髪の混ざった長めの頭髪や、眼鏡の奥からチラとあたりを見る繊細な感受性を秘めた瞳に、私はその男を紳士だと感じた。人間的な懊悩に呻吟しながら真摯な生き方を貫かなければ、こういう雰囲気は生まれるものではないと私は思う。これは六十年近い年月を経た私が、僅かに自負する人間への洞察だ。
私とほぼ同世代かと思われるその男は、私と目が合うなり、小さく頭を下げて、
「ちょっと見せていただいていいですか?」
「ええ、どうぞ」
それだけで、互いが相手に尊重の気持ちを抱くには充分だった。
どうぞ、ゆっくり、心ゆくまでご覧になってください。私はその男に対し、そんな気持ちになった。
男は店内をゆっくり一周した。そして一枚の絵の前に戻ると、じっとその絵に見入っていた。
男はその横顔に、何か深い思いにとらわれた、憂愁とも、苦悩とも表現できない複雑な情感を漂わせ始めた。こういう特別な思いにとらわれた様子で絵を眺める人は別に珍しくはない。
その絵を味わってもらうために、私は男にしばらく声はかけなかった。するとどうだろう。三十分経っても、一時間経っても、男は絵の前から離れない。憂いを含んだ表情で、じっとその絵に見入っている。まるで、絵の中を一編の長い物語が流れていくかのように。
私は少しためらったが、一時間半くらい経ったところで、男に声をかけてみることにした。
私はゆっくりと男に近づき、そしていった。
「余程気に入られましたか」
男は我に返って私の方を振り返り、いった。
「ええ、いい絵ですね。なんとも表現しがたい趣きがある。スペインの画家の絵ですか?」
「ええ、日本では無名の人ですが、本国のスペインでは最近人気があるようです。まだ新鋭でしょうね」
その絵は、つい先日、欧米に買いつけに行った友人から安く譲り受けたものだった。私もその画家については全く知らない。ただ、独特の、ノスタルジックとでもいうのか、古き良き時代を思わせるようなタッチが悪くないと思い、友人にいわれるままに店に一枚置いてみただけのことだった。
「スペインの、バルセロナのランブラスという通りだそうです」
私がそういうと、
「ええ、そうですね。懐かしい。昔行ったことがあるんですよ」
男はそう答えた。
中央に花を売る店があって、数人の人が行き交い、両側に古い石造りの建物が遠近法を使って描かれている。一見変哲のない風景画だが、その不思議な寂しさとでもいうのか、街中を描きながらも画面に漂うノスタルジックな寂寥に、男も強くひかれているようだった。
「一九七九年のことでした」
男はいった。
「旅行か何かで?」
私は尋ねた。
「ええ、まあ長期の旅行といえば旅行なんですが、このランブラス通りを港の方へ下ったところに公立の語学学校があったんです。そこのスペイン語科の夏期講習に二ヶ月ほど通いました……懐かしいなあ」
「そうですか。この絵も決して明るくはないのに、人々は半袖です。夏なんでしょうね」
「そう、夏ですね……夏でもずっと長袖だったあの人のことを思い出します」
「あの人、というと?」
「いや、僅か二ヶ月の滞在でしたけどね、わたしはそこでひとりの女性と知り合ったんですよ。いや、女性というよりはまだ少女というべきかもしれない。その娘は夏なのに、いつも長袖の白いブラウスを着ていた。そうしてランブラス通りのカフェテラスに座っていた。わたしが毎日語学学校の帰りに立ち寄り、宿題をやっていると、決まってその娘は同じカフェテラスに座って、石畳が照り返す日差しを浴びながら、憂いを含んだ表情で分厚い本を読んでいた……」
2
わたしはカフェテラスに座りながら思ったものです。バルセロナには、こんな綺麗な娘がいるのか、と。こんないい娘がいるのか、と。
色白で、ナイーブそうで、その面持ちからは、娘の優しい性質が充分に伝わってきました。髪は栗色に近く、眉も目も栗色、しかし彫りはあまり深くなく、鼻もさほど高くなく、スペイン人としては柔らかな印象を与える顔立ちでした。そして太ってもなく、かといって痩せてもなく、背は百五十五センチくらいだったでしょうか。
私がその店に行くと、それまで分厚い本を読んでいた彼女はわずかに顔を上げ、ちらと私を見ます。そして語学学校に通い始めて二週間ほどが過ぎた頃には、わたしがその店に行くと、わたしたちはオーラ(こんにちは)と、声を交わすようになっていました。
「日本人?」
初めに言葉をかけたのは彼女のほうからでした。ひかえめな、恥ずかしそうな声でした。
「うん」
「バルセロナには何しに来たの?」
「うん、まあ、短期の留学だけど」
「いつ来たの?」
「三週間くらい前だよ」
「じゃあ、もうバルセロナはだいたい見物した?」
「いや、まだそれほど」
「じゃあ、私が案内してあげましょうか?」
娘の唐突な言葉に、わたしは日本人らしく、曖昧に答えました。
「ありがとう。じゃあ、機会があったら」
ところが、娘はこういいました。
「じゃあ、明日でいい?」
「明日?」
わたしは娘がどこまで本気なのか分かりませんでした。
「そう、明日。いい?」
「いいけど……」
「あなた名前は?」
「ケイスケ」
「私はコリーナ。じゃあ、ケイスケ、明日、ここにいつもの時間に来てね。ピカソ美術館はもう行った?」
「いや、まだ」
「じゃあ、行きましょうよ、明日」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
「じゃあ、明日ね」
「じゃあ……」
コリーナは勘定をして席を立つと、手を振りながら街中へ消えて行きました。
わたしは思いました。――な、なんで? なんでこんな素敵な娘がオレを? ピカソ美術館へ?……
わたしはランブラス通りから歩いて十数分の所にある、アリバウ通りの小さな民宿に間借りしていました。
その民宿は、女主人がひとりで切り盛りしている、小奇麗な、清潔な宿でした。
ところで少し学校の話をしましょう。
学校は、港のすぐ近くにありました。
バルセロナ公立語学学校といい、スペイン語のほかに英語、フランス語、ドイツ語、アジアの言葉は日本語や中国語などのコースがあって、スペイン語を習う外国人だけでなく、たくさんのスペイン人が外国語を習いに通って来ている、本格的な語学学校でした。
わたしは高校生の頃からスペインに興味があり、憧れていて、独学でスペイン語を学習していたので、その甲斐あって、スペイン語科でも上級の方のクラスに入ることができたのでした。
クラスには色々な国の学生が来ていました。
中でも多かったのは、ベルギー人、ドイツ人、オランダ人、イラン人などで、台湾や香港の学生もいました。
わたしはこの学校に通うのが、毎日とても楽しみでした。なんといっても、様々な国の人とスペイン語を通じて交流するのが楽しく、自分の人生に突然大空に向かってパッと窓を開いたように光が差し込み、初めて空の広さを実感したような思いでした。
それだけでわたしは充分に楽しく、満ち足りていたのに、コリーナという美しい娘が街案内をしてくれるなんて、と思うと、わたしはスペインに来て、本当に空に向かって羽ばたくような心地でした。
学校を出ると、わたしはひとりでランブラス通りを歩きました。ランブラス通りの終わりにカタルーニャ広場という所があるのですが、わたしが目指すカフェテラスは、その広場の近くでした。
カフェテラスに着くと、コリーナは相変わらず長袖のブラウスにジーパンという出で立ちでそこに座って、いつもどおり分厚い本を読んでいましたが、わたしを認めるなり、
「オーラ、ケタル(ご機嫌いかが?)」
と挨拶しました。
「いいよ。君は?」
「私もいいわよ」
そういって、わたしたちは少しの間にこにこと見つめ合いましたが、わたしは何だか恥ずかしいやら緊張するやらで、そのあと自分が何をいったのか覚えていないのですが、コリーナは、
「じゃあ、行きましょうか」
と、勘定を済ませ、歩き出しました。
わたしたちはふたり並んでランブラス通りを横切り、古いゴシック地区へ入って行きました。
そこは中世の街並みが残る美しい地区で、わたしは一瞬、何だか自分がお伽の国に迷い込んだような錯覚を覚えました。
こんな素敵な娘と、こんなに情緒ある街の中を自分は今歩いている……わたしは緊張しながらも、本当に不思議な感覚にとらわれたものです。
しばらく歩くと、その地区の一角に、ピカソ美術館はありました。
コリーナはわたしのチケットまで買ってくれました。
わたしたちは厳かな建物の中に入り、一面に展示されているピカソの作品をゆっくり見てまわりました。
「あなたは何歳?」
コリーナが突然私に尋ねます。
「十九歳」
「私は十八。このピカソのデッサンは十三歳の時のよ。どう? 完璧でしょ」
そのデッサンはとても十三歳の少年が描いたものとは思えない、卓越したものでした。それだけで、ピカソの力量に圧倒されてしまいます。
また、コリーナは別の絵の前で、
「この絵は青の時代の代表作のひとつなの。私は青の時代は好き。この頃、ピカソは本当に寂しかったんだわ」
「う、うん、そうだね、寂しい絵だね」
わたしは相槌を打ちます。
「私はね、寂しくなると、よくここへ来て、青の時代の絵を観るの。そうするとね、何だか涙がぽろぽろこぼれて、気持ちが慰められるの。私、おかしい?」
わたしはコリーナの言葉に何か今までに感じたことのない違和感をおぼえながらも、
「ううん、全然」
と答えました。
そして、ピカソのデッサンも絵も、圧倒的な迫力で迫ってきたのですが、それよりもわたしには、コリーナの独特な、柔らかなスペイン語の発音が不思議でした。
ご存知かもしれませんが、普通に話していても、スペイン語の発音というのはそんなに柔らかな印象を与えるものではないと思います。しかしコリーナが話すと、まるで静かな湖のほとりで恋人たちが囁き合っているように、とても穏やかな印象を与えるのです。
それはわたしの緊張をほぐすと同時に、わたしはうっとりするような一種の寂寥感を覚えるのです。
「絵が好きなのね?」
コリーナがわたしに尋ねました。
「好き。君は?」
「私も大好きよ。ミロとか、ダリとか、バルセロナが育んだ画家は多いけど、あなたミロ美術館やダリ美術館はもう行ったの?」
「いや、まだ」
「まだあ? じゃ、ガウディの聖家族教会は?」
「いや、まだ見てない」
「そう……」
突然彼女は寂しそうな表情になりました。
「あなた、じゃあ勉強ばかりなのね?」
「うん……まあ……」
「じゃあ、私が案内してあげる。あなたにバルセロナのいいところ、たくさん教えてあげる……」
それからわたしたちはピカソの絵をゆっくり鑑賞し、時にコリーナの知性的な解説を聞きながら、夕刻近く、美術館を出たのです。
わたしたちはまた中世の街並みの中を歩きながら、ランブラス通りへ向かう途中、しゃれたバールがあったのでそこへ入り、ひと休みしました。
バールというのは街中のいたるところある、レストランとカフェを兼ねたような店で、スペイン人には馴染みの深い、気楽に寄れる場なのです。
わたしたちは古い建物や石畳が見渡せる窓際のテーブルにつき、スペインオムレツとビールを注文しました。
「あなた、日本では何をしているの?」
コリーナがわたしに尋ねました。
「僕は、大学生。大学のスペイン語科の学生」
「ああ、だからスペインへ来たわけね」
「うん」
「じゃあ、将来はスペイン語を生かした仕事につきたいの?」
「うーん、それはまだ分からない」
「じゃあ、何やるの?」
「実は……実は僕はマンガ家になりたいんだ」
「マンガ家って、あの雑誌なんかのマンガを描く人?」
「そう」
「ふうん、変わった職業に就きたいのね」
「いや、スペインではマンガって、そんなにポピュラーじゃないけど、日本ではマンガって、すごく人気があるんだ」
わたしは紙ナフキンに、有名なマンガのキャラクターを描いてみせました。
「すごい、じょうず、びっくり!」
コリーナがほめてくれたので、わたしは少し照れました。
「あなた、きっとそのマンガ家になれるわよ。きっとなれる」
コリーナはわたしをじっと見ています。わたしは
「ありがとう」
といって、何を思ったかというと、ああ、コリーナは憂いを含んだ、何とキレイな顔立ちをしているのだろう……と、うっとりとなってしまったのです。
「でも、私も絵は得意よ」
コリーナはそういうと、紙ナフキンに少しぎこちない手つきで何かを描き始めました。
出来上がったのは女の顔でした。
「あなたほどじゃないけど、私の顔。どう?」
「びっくりだなあ。うまいね」
「ありがとう」
「君もマンガ家になるの?」
「まさか」
コリーナは笑いました。
「私はね、今はウエイトレスをしているけど、でもお金を貯めて、将来は雑貨店をやりたいの」
「ふうん、夢があるんだね」
「お互い、夢があるわね」
さらにそれからひとしきり、わたしたちはお互いのことを紹介するように話し、ビールで少し酔って店を出ました。
ランブラス通りへ向かいながら、コリーナはいいました。
「あした、ガウディの聖家族教会を案内してあげる」
「本当? いいの、そんなに毎日」
「もちろん。じゃあ明日ね。いつものカフェテラスで、いつもの時間に」
「うん」
そういってコリーナはランブラス通りの雑踏の中へ消えていきました。
それからコリーナはわたしを聖家族教会だけでなく、ミロ美術館やダリ美術館、グエル公園など、毎日のように色々な場所へ連れて行ってくれました。そうしてその日の見物を終えると、夕刻にランブラス通りへ戻り、カフェテラスに座って冷たいビールやワインを飲むのが日課のようになりました。
そしてある日、コリーナはこんなことをわたしにいったのです。
日暮れに近い、赤茶けた港をふたりで歩いていた時のことでした。
「私はね、実はバルセロナの育ちじゃないの。サン・キリコって知ってる?」
「サン・キリコ? いや、知らない」
「郊外の小さな町なんだけど、十三歳までそこにいたの。優しいママと一緒に。その後バルセロナに出てきたの。サン・キリコ――いいところよ。家の庭からはね、野原や小高い山が一面に見渡せるの」
その時、スペインの田舎の小さな町の風景が、わたしの脳裏にぼんやり浮かびました。
「へえ……そんな郊外の町も見てみたいな」
わたしがいいました。
「じゃあ、行ってみる? 私も、もう何年も行ってない」
「行ってみたいな」
「じゃあ、明日ね、行きましょう」
コリーナはそういうと、
「じゃあまた明日」
といってわたしの頬にキスしてくれました。
わたしは学校では、その頃何人もの友人ができ始めていました。
特に親しかったのが、カルロスという日本語科に通う日本語の達者なスペイン人学生です。カルロスは眼鏡をかけ、髭をたくわえた大柄な男で、彼とはよく学校の食堂で、昼食をとりながら色んな話をしました。
「きのう、アキラ クロサワのデルス・ウザーラを観たよ。もう五回目だ」
翌日、昼食をとりながら、カルロスがわたしにいいました。
「そう、どうだった?」
「素晴らしい。あんな監督はスペインにはいないね。何とも美しい映画だ」
カルロスはベタ褒めです。
「クロサワはそんなにすごいのか?」
わたしがいうと、
「ああ、七人のサムライを観た時の感動は本当に格別だった。今新作を撮ってるんだって? 随分久し振りだから、楽しみだなあ」
カルロスとは、こうしてよく映画の話で盛り上がりました。
その時もひとしきり映画の話をしてから、話題は女の子のことになりました。
「おまえは、どんな女の子が好みなんだい?」
「やっぱり、やっぱり女の子は綺麗で優しくないとな」
わたしは、もちろんコリーナのことを思い出していました。
わたしは少し笑っていました。そして笑いながら、本当に心も楽しくて仕方ありませんでした。
――きょう、自分はコリーナに案内してもらって、コリーナの育った町へ行くのだ――そう思うと、早くコリーナに会いたい一心で、カルロスとはそこそこに挨拶をして別れ、はやる気持ちを抑えながら、コリーナの待つカフェテラスへ向かいました。
コリーナはカフェテラスでわたしを待ってくれていました。まだ来たばかりのようで、テーブルの上に置かれた分厚い本は、閉じられたままでした。
コリーナはわたしが行くと、満面の笑みを浮かべながら、頬にキスをするスペイン流の挨拶をわたしと交わしました。
何という駅から、どちらの方角へ向かったかはもう全く覚えていません。
わたしはその日、コリーナに案内されるままに、サン・キリコという町へ向かいました。その日も暑い日でしたが、コリーナは相変わらず長袖のブラウスにジーパンという出で立ちでした。
コリーナと過ごす日々は、わたしにとって夢の世界の出来事のようでした。こんなに綺麗なスペインの女の子と、こうして楽しく話をしながら列車に揺られている。これが夢でなくていったい何だろうとわたしは思うのでした。
わたしたちは、駅員もいない小さな駅に降りました。サン・キリコです。
駅舎を出て、町の中心へ向かう小道を歩きます。しばらく歩いていると、路傍の木々や古びた家々が、立ち昇る炎熱の中で朦朧とした印象を与えていました。
わたしたちは汗を拭き拭き、五分か、十分ほど歩きました。すると、白い、ひときわ大きな建物が見えてきました。
それは町の中心のバールで、わたしたちはそこに入り、コーラを飲みながらひと休みしました。
コリーナは寡黙でした。何だか少し沈んだようにも見えました。先ほどまで明るかったのに、どうかしたのかな、とわたしは少し不安になります。
と、コーラを飲み干すと、コリーナは突然立ち上がり、行きましょ、といってわたしの手を握りました。
バールを出て、家並みに沿ってほんの三分ほど歩いた所でコリーナは立ち止まりました。
「ここよ」
そういって、コリーナはわたしのほうに身体を寄せ、じっと一軒の薄汚れた家を見ています。
その家は二階建てで、一階の壁の中央に入口と思われるうす茶色の扉がありました。二階の中央には、縁が緑色に塗られた窓があり、植木鉢に植えられた黄色やオレンジの花が並んでいました。よく手入れはされているようでしたが、とても古い建物でした。
「もう、今は知らない人が住んでいるのね」
コリーナは少し眉を寄せて、わたしに身体をよせたまま、しばらく佇んでいましたが、
「裏にいきましょう」
そういって家のすぐ脇の路地を抜けました。
突然目の前に広々とした夏の野原が広がり、遠くには小高い山々がそびえていました。
それはわたしにとっては、初めて見る、平和でのどかな郊外の風景でした。が、コリーナは寒そうに身体をこわばらせ、深刻な表情でいいました。
「私は、ひとりぼっちなのよ」
わたしにはその意味が分かりませんでした。コリーナは、日差しに輝く野原を、眉をさらに寄せて眺めながらいいました。
「十三歳の時にね、父の暴力とギャンブル癖に耐えられなくて、ママは家を出ていったの。私をおいて……それ以来行方が分からないの……」
わたしは急に神妙な気持ちになりました。
コリーナは目に涙をいっぱいに溜め、そっとわたしにもたれかかり、そしていいました。
「わたしも半年もしないうちに、ママを探すために、あの男をおいて家を出たの。ママはきっとバルセロナにいる――そう思ったの」
わたしはコリーナの突然の告白に、なんといえばいいのか分かりませんでした。
「私はウエイトレスをしながら、ママと会える日を待ったの。長い日々だったわ。ママに会いたい。私はママに会いたいの」
そういって、コリーナは涙をぽろぽろこぼすのです。
わたしはどうしたらいいのか分からず、ただじっと、コリーナを抱きしめていました。コリーナはわたしの肩に顔をうずめて泣いたのです。
わたしはじっとコリーナを抱きしめているしか方法がありませんでした。
どれくらいの時が経ったか、コリーナは顔をわたしの肩から離し、
「行きましょ」
そういいました。
わたしたちは、とぼとぼ、もと来た道を駅へ向かって引き返しました。
帰りの列車の中では、ふたり並んで座りながら、わたしたちは寡黙でした。
わたしはしだいにコリーナの言葉を噛み締める余裕が出てきましたが、コリーナがかわいそうなどというものではありませんでした。
コリーナがそんな大変な悲しみを背負っていたなんて。しかも、十三歳で家を出て、ウエイトレスをしながら生きてきたコリーナの苦しみを推察しても、それはわたしの想像をはるかに超えていました。
「ねえ……」
わたしはコリーナに向かって語りかけました。
「君はきっとお母さんに会えるよ。僕は夏期講座が終わるまでしかスペインにいられないけど、その間君のお母さんを一緒に探してあげる」
「ありがとう。あなた、やさしいのね」
列車はバルセロナに近づきます。コリーナはわたしにもたれて、いつしか静かに寝息をたてていました。……
翌日、学校では、わたしはぼーっとコリーナのことばかり考えていました。
不幸な境遇を背負った美しい娘に、自分は何をしてやれるのだろう……ぼんやり、そんなことを思っていたのです。
昼食時、レストランへ行くと、カルロスが、
「やあ、どうだい」
と話しかけてきました。
「元気なさそうだな」
とカルロスはいいます。
「そんなことないよ」
わたしは元気そうな、何の悩みもなさそうなカルロスが羨ましい気がしました。
「じゃあ、海でも行くか?」
「海?」
「そうさ、今時避暑地は裸の女がいっぱいさ」
その時、わたしは思いました。
(そうだ、コリーナと海へ行こう……)
その翌々日、コリーナの案内で、わたしたちはシッチェスという避暑地へ向かいました。わたしの「海へ行こう」という提案に、コリーナも同意してくれたのです。
エスタシオン・デ・セントロという駅から列車に乗り、小一時間南下したところに、白い街がありました。
駅を出て、白い街並みの間の路地をのんびり下っていくと、そこに青い海が広がっていました。
白い砂浜には水着の男女が戯れ、トップレスの女性も数多くいます。
この光景は、十九歳のわたしには、とても眩しいものでした。
わたしたちはしばらく浜辺のカフェテラスに座り、海辺の風景を眺めていました。青い空と紺碧の海原、白い街並み――いつか雑誌で見た地中海の風景です。それが今、自分の目の前にある。隣では、美しい、栗色の瞳と髪を持った娘が、私を見て微笑んでいる。わたしは興奮しました。コリーナに母親がいない不幸を除けば、何ひとつ欠けているものはないのです。コリーナもすっかりいつもの笑顔でわたしに語りかけてくるので、わたしも安心しました。
暫くしてからわたしたちも浜辺に降りて水着に着替え、それからゆっくり波打ち際まで行って、海に入りました。コリーナもわたしも笑顔が絶えません。
しかしわたしは、ひとつ気になる発見をしてしまいました。というのはコリーナの肘から手首にかけて、直径一センチくらいのケロイドのような斑点がびっしりとあり、コリーナはそれを気にしているふうなのです。
コリーナが夏なのになぜ長袖のブラウスを着ているか、わたしにはその理由が初めて分かりました。それはコリーナの足の膝から下にも多数ありました。わたしの心に何か影のようなものが差し始めました。
その斑点を気にしていたコリーナを、水着姿にさせた自分を少し後悔し、胸が痛みました。
わたしたちはひとしきり泳ぎ、戯れ、そして砂浜に上がって甲羅干しをします。
俯せになって背に陽光を浴びている時、コリーナがつぶやくようにいいました。
「私の腕、醜いでしょ」
「いいや、そんなことはない、そんなことはないけど、ごめんね、本当に。君はそれを人目に触れさせたくなかったんだね、ごめん」
「私ね、随分大きくなってから、たぶん八歳くらいかな、ママに教えてもらったの。それまで自分の腕にはなんでこんな痕があるんだろうって疑問だったんだけどね、それはね、おまえの父親が、おまえがまだ物心つく前に、セッカンだといってやったことなんだって。ごめんね、ごめんねって、ママは泣いてたわ。私はママはちっとも悪くないのに、なぜ泣くんだろう、悪いのはパパなのにって思ったの」
わたしはそれこそはらわたをえぐられるような思いでした。そんなことをする父親が本当にこの世にいるのか? いったいどんな悪魔のような父親なのだろう。わたしの胸は悲しみでいっぱいになり、その白い腕を見ながら涙があふれ出てきました。
コリーナは続けました。
「パパはね、私の本当のパパじゃないのよ。私の本当のパパは、私が生まれて間もなく病気で他界したの。私の本当のパパは、優しくて、妻子思いで、穏やかな人だったって、ママがいってたわ。私にこんなことをしたのは、本当のパパが亡くなったあと、ママが経済的に苦しいのをいいことにママをたぶらかした、悪い男だったのよ。本当のパパじゃないわ。だから私も十三歳でその男とは訣別したの。本当のパパだったら、そんなことはしなかったわ」
何ということだ、とわたしは思いました。世の中には、スペインには、こんな不幸な娘がいるのか。こんなに感じよく生まれついて、そんなとてつもない重荷を背負うなんて……。
わたしはしばらく声もありませんでした。コリーナの悲しい境遇に、自分までもが押しつぶされそうでした。
何をいったらいいか分からずにいるわたしに向かって、コリーナは続けました。それは明るい陽光の下なのに、まるで冬枯れの小道で語るように、小さな静かな声でした。
「ママは、料理がとてもじょうずだった。朝学校に行く時はね、目が覚めると、もうママがフランスパンを買ってきてくれていて、よくスペインオムレツとカフェオレを作ってくれたの。本当においしかった……」
「ママは優しかったんだね」
わたしがかろうじて合いの手を入れると、
「ええ、本当に優しかった。冬は、私にセーターや手袋を編んでくれたの。ボタンがとれたら、ボタンをつけてくれて、服の破れたところに継ぎあてをしてくれて……ママがいなくなってから、私はよくそういうことを思い出して泣くの。風邪をひくとね、ブランデーと生姜の入った紅茶を作って飲ませてくれた。本当に、ママは優しかった……」
コリーナの囁くような話が途切れると、わたしたちは俯せになったまま見つめ合いました。地中海の太陽は少しずつ、わたしたちふたりを癒してくれました。コリーナの深い苦痛も、それを知ったわたしの悲しみも、降りそそぐ陽光や絶え間なく響き渡る潮騒、美しい海や街が少しずつ、少しずつ、とかしてくれるような気がしました。
「コリーナ、僕は、君を、愛している」
わたしはぎこちなく告白しました。すると意外にも、コリーナはこういったのです。
「私もよ、ケイスケ」
わたしたちは砂にまみれながら抱き合い、キスし、初めてお互いの気持ちを確かめ合いました。
その夜、わたしたちはホテルに部屋をとりました。わたしはコリーナを、単なる美しい娘でなく、深い苦悩と悲しみを抱えた娘だと知ったうえで、心から愛しました。
そして翌朝、バルセロナに帰る列車の中で、コリーナはバッグから、あの、分厚い本を取り出し、こういったのです。
「あなたがいれば、もうこれは必要ない」
よく見ると、それは新約聖書なのでした。コリーナがいつもカフェテラスで読んでいたもの、それが聖書であったのを、わたしは初めて知りました。
「寂しい時はね、これを読んで、自分を慰めるの。苦しい時もそう。悲しい時も。でも、もう必要ない……」
そういってコリーナは微笑みました。わたしはうん、うん、と頷きました。頷きながら、涙がにじむのを覚えました。
それ以来、わたしは語学学校へ行かなくなりました。コリーナと少しでも長い時間を過ごしたいと思ったからです。
わたしたちは一緒に映画を観たり、カフェテラスに座って道行く人々を眺めたり、コリーナの部屋で音楽を聴いたりして過ごしました。そしてふたりでベッドに入り、そのあとコリーナはシャワーを浴びて夕食を済ませ、仕事に出かけて行きます。
そう、生活のためには働かなければならない。それはわたしも、これから自立してそうなっていくだろうけど、わたしは密かに、このままコリーナと暮らして、コリーナに送り出されて仕事に行く自分、というのを漠然とですが想像するようになりました。それは本当に、わたしにとって幸せの絶頂を意味することでした……。
ところがある日、コリーナと会って一緒に過ごし、彼女が仕事に出かける時、彼女はこんなことをわたしにいったのです。
「ケイスケ、私が本当に愛しているのはあなただけよ。たとえこれからあなたが何を知っても、それだけは信じてほしいの」
「どういう意味?」
「今度、機会を見て話すわ。とにかく私はあなただけを愛しているということ、それだけは忘れないでほしいの」
コリーナが深刻な表情でいうので、わたしは
「分かった。僕も同じだよ」
と答えるしかありませんでした。
コリーナはその時、ただ、
「ありがとう」
といっただけでした。
それから数日後のことでした。
わたしとコリーナが、夕刻カフェテラスに座って話をしていると、そこをあのカルロスが通りかかりました。
カルロスと握手を交わしたあと、カルロスは、
「どうした、最近見かけないな。元気か?」
とわたしに尋ねます。
「元気さ。すごく」
そういったあと、わたしはコリーナを恋人だと紹介しました。ところがその途端、カルロスの表情が曇りました。わたしはどうしたのかな、と思ったのですが、
「オーケー、元気ならオーケーだ。明日、昼飯ふたりで食べないか? 話したいことがある」
カルロスはそういいました。わたしは気楽に、
「分かった。どこに行けばいいんだ」
「学校の食堂にしよう。明日二時、ふたりきりでな」
「オーケー」
カルロスはわたしたちふたりに「じゃあ」といい、去って行きました。
翌日、学食に行くとカルロスは少し難しい表情でわたしを迎えました。
「きのうのあの女、恋人ってどういう意味なんだい?」
カルロスはそう切り出しました。
「恋人は恋人だよ。ほかに何か意味があるのかい?」
「本当の話なのか?」
カルロスはわたしに尋ねます。
「本当に恋人としてあそこにいたのか?」
「どういう意味なんだ?」
「おまえ、本当に知らないのか?」
「何を?」
「何てことだ。おまえ本当に知らないんだな」
「だから何をさ」
カルロスは急に口ごもりました。そして意を決したように小声で、
「夜、コンデ・デル・アサルトという通りに行ってみろ。そしたらすべてが分かる」
そういいます。
わたしには、カルロスのいうことがさっぱり飲み込めませんでした。
「何なら一緒に行ってやろうか? いいか、おまえはあの女に騙されているんだ。オレの忠告をよく聞け。気が向いたら一緒に行ってやる。とにかくあの女はよせ」
そうしてわたしたちはそれ以降黙ったまま食事をとり、別れました。その時、わたしが何を思ったかというと、もうカルロスなんかと付き合わない、ということでした。カルロスはあまりに綺麗な娘とわたしが一緒にいたので、嫉妬して、何か訳の分からぬ文句をいっている――わたしにはそう感じられたのです。
そのあと、わたしはコリーナと小津安二郎監督の映画を観て過ごし、コリーナが仕事に行ったあと、ひとりでバールでコーヒーを飲み、自分の泊まっている民宿へ帰りました。
それからどれくらい時間が経ったでしょう。
民宿に戻って部屋でスペイン語の文法書を見ていると、民宿の入口の呼び鈴が鳴るのが聞こえました。
応対に出て、入口から戻ってきた女主人が、
「ケイスケ、カルロスという人よ」
といいました。
「こんな時刻に何の用だろう」
そう思いながら応対に出たわたしに、カルロスは、
「ケイスケ、悪いことはいわない。オレと一緒に来い」
といいました。私は訝しく思いながらもカルロスにつき従うことにしました。
わたしたちは地下鉄の駅へ行き、ふたりとも黙ったまま列車に乗り、ランブラス通りの近くで降りました。カルロスは、
「こっちだ」
といってわたしを導いて行きます。
しばらく歩いて着いたのは、コンデ・デル・アサルトという通りの、小さな、怪しげなバールでした。
カルロスは窓際の席にわたしを座らせ、そして窓外を指差し、
「見ていろ」
とだけいいました。
その窓はマジックミラーになっていて、外から見た時は真っ黒で暗い店内は見えなかったのですが、店の中からは、外の風景を鮮明に見渡すことができました。
わたしはますます訝しく思いました。いったい、カルロスは何の意味があってわたしをこんな所へ連れてきたのだろう。いったいカルロスは、何を考えているというのだ?
わたしたちは十分か、十五分ほど、暗い店内に座ってワインを飲んでいました。カルロスはその間、厳しい表情で窓の外の風景をチラチラと見ていましたが、突然指差して小声でいいました。
「見ろ」
わたしの目に映ったのは、紛れもなくコリーナでした。しかもコリーナは、見知らぬ男と腕を組んで、目の前のホテルとおぼしき建物から出てきたのです。
コリーナはその見知らぬ男と接吻していました。そしてひと言、ふた言会話を交わし、手を振ってその男と別れました。
わたしはまだ事態が飲み込めませんでした。いや、今自分が見た光景を、信じたくなかったというほうが正確かもしれません。
通りは絶え間なく人が行き交っています。
コリーナからはわたしが全く見えないようでした。
しばらくすると、コリーナは通りかかった三十代くらいの男に声をかけ、ふた言、三言話をしていたのですが、男はそのまま行ってしまいました。
次にコリーナは若い男に声をかけましたが、男は素通りしました。そんなことを三、四回繰り返し、二十代くらいの男が通りかかるとコリーナはまた声をかけ、ふたりは何やらにこにこと話をしていたのですが、やがてそのまま一緒にホテルの中へ消えていったのです。
コリーナが何をしているのかはもう明白でした。カルロスのほうを見ると、彼は静かに俯いて、黙っています。
わたしはただ呆然としていました。あまりのショックに涙も出ず、口をきくことも、身動きすることもできませんでした。
その後のことは、もはやわたしは全く覚えていません。覚えているのは、翌日、自分がパリにいたところからです。
そしてそこでぼんやりと一週間ほどを過ごし、当時はバルセロナから成田への直行便がなかったため、パリから飛行機で日本に戻って来たのです。
3
「これでわたしのバルセロナでの話は終わりです」
と男はいった。私は、
「何といえばいいのか……」
そういいながら男をじっと見た。
男はじっと絵を見つめたまま、
「もう、随分昔の話です。でも、この絵を見ていると、きのうのことのように、あの日々が蘇ってきました。いや、つまらぬ話をしてしまいました。」
「いや、とても興味深かったですよ」
私はいった。
「でも、あなたは、いや、こんなことお聞きしていいのか分からないのですが、コリーナに騙されたとお思いですか?」
「いや、騙されたとは思わない。彼女はわたしに何度も愛しているといってくれました。それを信じなかったら、いったいあの恋はなんだったのでしょう。彼女も、自分の仕事をわたしにどう話したらいいか分からなかったのだと思います。それに今思うと、あんな不幸を背負った娘が、当時のスペインで売春婦に身を落としたからといって少しも不思議な話ではない。ただ、わたしはその時、自分が目の当たりにした現実に押しつぶされて、冷静な判断ができなかったんです。まだ、私も若すぎたのです……」
「その後彼女とはお会いになってないんですか?」
「もちろん会っていません。それ以来二度とスペインへも行っていない。でも、こうしてわたしは彼女を忘れられないでいる。いや、そのことが、この絵を見てはっきりと分かりました」 私と男は、それらしばらくの間、ランブラス通りの絵を眺めていた。
男が画廊を去ったあとも、私は久し振りにいい話を聞いたという気がしていた。男は自分には手の届かない価格だといって、絵との別れを惜しみながら店を去っていった。私はただ、またいらしてくださいとしかいえなかった。
戸締りが遅くなってしまった。シャッターを降ろすために外に出ると、晩秋の風は冷たかった。
戸締りを終えると、私はコーヒーを一杯飲み、なんとなく店の隅のパソコンに向かった。
――ホアン・ラモン
私はその絵の作者を、特に意味もなく検索した。ヒットした数少ないホームページの中に、次のようなものがあった。 ――ホアン・ラモン。画家。一九八0年スペイン・バルセロナに生まれる。売春婦の子として生を受け、父親は日本人だというだけで、経歴等については何もわかっていない。……
まさか、と私は思った。
一九八0年といえば、男がスペインに行った翌年だ。まさか……何ということだろう。
この画家は、あの男とコリーナの間にできた、あの男の実の息子ではではないのか? 実の息子だという偶然の一致が、この絵があれほど男を魅了した本当の理由ではないのか?
こんなことがあるだろうか。あの男は何も知らないのだ。
しかし……私は思った。今となってはあの男を探すすべはない。
私には、どうすることもできないのだ。
雨が降り出した。
(了)