第一話 光る空と、透き通った夏
「ねぇ、この後ちょっと時間あるかしら?」
すでに教師と生徒が三人帰った教室。
用済みになってしまった飾りつけは、虚しく放置されている。
声の飛んできた方を、振り向く。
「ああ、あるよ」
話しかけてきたのは隣に座っていた白髪の少女――名前は、陽光……ヒカリ。
僕と身長がたいして変わらないが故に同じ高さの瞳は、ちょうど外に出れば空一面に広がっていそうな碧で、黒髪で赤目の僕とは真逆。
暑さのせいか、表情の薄い頬に少し朱がさしている。
腰まで伸ばした長い髪は一房だけ水色のリボンで束ねられ、あとはゆっくりと開け放たれたままの風に吹かれ揺れている。
制服のブラウスも肌も髪も白くて、まぶしいことこの上なかった。
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれない?」
こうやって誘われることも、珍しくはなかった。
自宅の関係から一緒に帰ることは少ないけど、何か用事がある時は暇つぶしのためか連れられて行ったりする。
「ん。了解。帰る準備済ませるからちょっと待ってくれ」
机の中に入れっぱなしにしていた使いかけのノートを取り出してカバンに入れようとしたところでふと、気づく。
……そっか、もう使わないんなら持って帰る必要、ないな。
筆箱から鉛筆を一本だけ取り出して、持ったままだったノートと共に自分の机――窓際最後方に置いておく。
勝手に満足した僕は一回頷いて、くるりと回転。
ドアの近くに立って僕を眺め続けていたヒカリのほうへ歩いていく。
「……何故?」
首を傾げたヒカリが置きっぱなしにしたノートを指さして聞いてくる。
…………いや、恥ずかしいんだけども。
「存在の証明。この世界が滅んでから、誰かがここに来たとして、僕たちがいたって証明するための手段。実際どこまで消えるかわかんないしね」
あー大体理解したわ。とヒカリ。
「じゃあ、中に挟んだままの零点のテストも証明の一つなのね」
「…………っ! 確かに挟んだまんまだったわ。ありがと」
「取ってらっしゃーい。んじゃ、私は先歩いてるわ」
「感謝した先からこれだよ、この薄情者っ!」
「嘘よ、早くとっておいで」
彼女の碧眼に見つめられたまま、僕はぴらりと後ろのほうに挟んだプリントを抜き取った。
計算の方法を全部間違えた小テストなのだが、やっぱり知らない誰かに見られるのは恥ずかしい。
念のため、他にも挟んでいないかぴらぴら捲って確認。
……一学期の間、積み重ねてきた記録が汚い字でつづられているだけだ。
パタン、と思い出の塊を閉じてヒカリの方へと向かう。
僕がドアを閉めてそちらを向くと、彼女は困ったような表情を浮かべてから微笑みかけてきた。
「うん。今度こそオッケーだ。――さ、帰ろ」
「そうね。……でも、おそらくは夏休みの間に少なくてももう一度はここに来ることになるでしょうけどね」
「……なりそうだよなぁ」
僕たちはともかく、残りの三人が夏休みに何をすると言いだすか、わかったことじゃない。
学校で泊まろう! とか言いだしそうだ。
じゃああのノートも、皆で集まった時に遊ぶための道具にもなるかもしれない、か。
「去年の倍はハードそうよね」
確かに。
去年も去年で色んな事をしたけれども。
「倍で済めば良いな。できることは、全部やりたいけど」
「私も同意。せっかくだから、いつもはできないことやりたいわね」
確かにな、と返す。
……話してるうちに、いつのまにか校門を出ていた。
振り向くと、古びた校舎が僕たちを見下ろしている。
いったい何年の間ここに立っていたのかは分からない。
木造の建物って結構長い間持つから、もしかしたら六百年の間ずっとある建物なのかもしれない。
そうだったら、僕たちが最後の使用者だったのか。
なんか、何とも言えない気分になる。
「じゃあ学校。さよなら」
「ええ。今までありがとう。学校」
踵を返して、歩いていた向きに戻る。
ヒカリと僕の家はほぼ真反対。
だから、いつもは学校を出た時に別れていた。
でも、今歩いて行っている方向はそのどちらとも違う。
住宅街というより、店とか工場とか立ち並ぶ場所。
「ところで、要件は何だ?」
「……そんなに深いとか重いことじゃないわ。ただ、みんなで集まる前に一度『樹』を見て置きたくて」
確かに、葉とか枝とかがいくつ落ちているのか見ておきたい。
けど、
「学校からでも、見えないことはないだろ?」
教室の窓から、遠くはあるけど見えるはず。
「馬鹿ね。双眼鏡忘れたのよ」
「馬鹿はお前だよ」
確かに、いつもヒカリが持ち歩いている双眼鏡は今日見ていないけど。
「と、言うわけで。異論はないわね?」
「ああ、いいよ。じゃ、樹が植えられてるあの原っぱに行くのか?」
「河川敷でいいでしょ。そこで十分見れるし。それに、原っぱは五人でそろってから行く場所じゃない」
河川敷、か。
ここから南に十数分歩いた所にあるそこは、対岸に樹の見えるところだ。
一切整備されていなくて、雑草と芝生が一対一でボーボーに生えている、いたって普通の河川敷だ。
伝承とかで神格化されている樹には、特別な用事がない限り行かないという暗黙の了解が、僕たちにはあった。
「それもそうか」
空は快晴。
天気予報士のおじいちゃんが言うところによると、しばらくは雨が降らないらしい。
空の橋の入道雲は遠くて、どこか貼り付けられた絵みたいだった。
だけど、近くで見るととてつもない大きさなんだろう。
それを考えると、この世界を歩いている僕がものすごく小さいものに感じてきてしまう。
木々は僕よりも大きくて、空は高くて、地平線は遠くて。
僕は、こんな大きい世界に影響を与えることなんてきっとできないんだな、なんて思ってしまう。
――四十日後、か。
「そういえば、トウヤ」
そんなことを考えていると、肩を並べて歩ていたヒカリが話しかけてきた。
トウヤ――透夜。
僕の名前だ。
「ん? どうした?」
「ごめん。何か言おうと思ったんだけど、忘れちゃったわ」
「なんじゃそりゃ」
「忘れる程度のことだから、きっとどうでも良いことよ」
ふとヒカリの方を向くと、僕とは逆向きのどこか遠くの空を見ていた。
歩くたびに、髪がふわふわ揺れる。
――顔すら見えないから、真意は分からない。
「まあ、思い出したときでいいよ」
「じゃ、お言葉に甘えてるわ。……にしても、本当に私は何を言いたかったのかしら」
知らねえよ、とでも返そうと思ったのだが。
ヒカリの声に、後悔の様な暗い物が混じったような気がして、軽く流せなかった。
「暑さに頭でもやられたんじゃないのか?」
今日は暑い。
さっき教室で見た温度計が指し示していたのは、三六度。
八月でも、こんな気温なかなか出ないから。
この場を乗り切るのに、使わせてもらった。
「かもしれないわね。……あ」
ヒカリはそう言って、突然足を止めた。
ヒカリのほうを見ていた僕は、目の前で急に動きを止めたヒカリについて行けなくて少しつまづいてしまう。
何が起きたのかと思ったが、視線を前に戻すとすぐに理解できた。
「……着いたな」
「そうね……相変わらず、ひどい放置のされ様だわ」
彼女の言った通り、膝ほどまでに伸びた雑草はここに来る人がとても少ないんだとしっかり僕らに伝えてくれている。
背の低い植物が蔓延る河川敷。 背の低い植物が蔓延る河川敷。
僕は生命が感じられるこの場所の、この雰囲気が嫌いじゃなかった。




