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押し入れの角

作者: 園葉凌

「押し入れって、怖くないですか?」

と、Yさんは話を切り出した。彼女が母の実家で、一度だけ体験した話だという。

 普段Yさんは父方の実家に家族で住んでいる。代わりに盆や正月になると、必ず母の実家に帰省していた。祖父母や母の兄弟、従兄弟たちへの挨拶と墓参りをするためだ。幼い頃は一室に布団をずらりと敷き詰めて、従兄弟たちと二泊するのが恒例だった。

 Yさん一家が帰省すると仏壇に手を合わせ、挨拶もそこそこに祖母を手伝って押し入れから布団一式を出すのも習慣だったそうだ。

 あまり出し入れのしない押し入れはよくある二段構造ではあったが、二枚の引き戸をどちらか両側から開けるものではなく、四枚の戸で部屋と隔てられていた。祖母は必ず真ん中の二枚を左右へ大きく引いて、上段の布団を取り出すのだ。しかも両端の布団は絶対に出さない。

 衣装箱が敷き詰められた下段は異様に狭く、逆に上段は子どもが余裕で座れそうな高さの空間になっていた。詰め込まれている布団は真ん中だけで人数分はあったが、頑なに端から開かなくさせているようにも思える。実際、Yさんは端から開いたのを見たことがなかった。彼女の母も気にしていなかったらしい。

 好奇心で、一度「どうして」と訪ねたことがあるそうだ。祖母は襖を閉めて、幼い目をじっと見据えて答えた。Yさんも瞬きせずに見つめ返すしかなかった。

「角は出しちゃ駄目なんだよ。隠しておかないと見つかってしまうからね。Yちゃんもここから開けるんだよ」

 隙間なく閉めた襖を撫でる祖母を真似て、Yさんも撫でる。言われた約束は守っていたが、小学生にもなると子どもを入れないための屁理屈だと思うようになった。


 大人の決めた屁理屈だと勝手に無視し、とても後悔したのは小学校四年生の夏だった。

 その日、Yさんは従兄弟や自分の兄弟とかくれんぼをしていた。最後の一回になって、長く隠れられていた人から食後に好きなアイスが選ぼうという話になった。単純で子どもらしい、大切な一戦だった。

 見つけるのが上手い、一番年上であるJさんが鬼となった。鬼が数を数え始めると子ども全員がほうぼうに散る。Yさんも最初の方に見つけられたくはなかった。

「なるべく見つからない所に」と思ったそのとき、例の四枚戸の押し入れが視界に入った。周囲には謀ったかのように誰もおらず、布団を出し終えた祖母の姿も見えなかった。押し入れのある部屋だけが賑やかさから切り離されていた。

 ばたばたと隠れる場所を探す足音を聞きながら、Yさんはその押し入れを見つめた。

 祖母の不注意だろうか。向かって左の端が、僅かに開いていた。あれだけ堅く閉ざされていると思っていた場所がいともたやすく、隙を見せている。

 そうだ。あそこにしよう。Yさんは隙間に誘われるように押し入れのある部屋に進んでいた。

 年上の鬼も、もう祖母の話を信じていないはずだ。途中で見つかるだろうとも予想できたが、そこまで長く隠れている必要性も感じていない。

 最後のほうまで見つからなければいいや。楽天的なYさんは軽く考えた。

 意気揚々と真ん中の襖を開き上段にあがると、端追いやられていた山積みの布団を真ん中へと引きずり出した。一度降りて真ん中に布団の山を移動させると扉を閉め、右端の隙間を改めて広げる。

 作った初めて見る空間。Yさんは何食わぬ顔で上段に手をかけてつま先をあげたものの、置いた左手に違和感を感じて床に踵を付けた。何かがYさんの手に触れた。感触から、細い糸だと思った。きっと布団から出たゴミだ。そう思って離した手を見ても、目の前の板を見ても彼女が思い描く物体はなかった。

 内心首を傾げながら掌と板から埃を払い、もう一度乗り込む。今度は何も触らなかった。そのまま角に陣取ると手を伸ばし、内側から戸を閉めた。



 家の中で一番濃い暗闇が彼女をひっそりと包み込んだ。Yさんは闇に溶けようと息を殺し、膝を抱えて座っていた。

 戸を一枚隔てた内側は別世界だ。見えない従兄弟たちがどこに隠れようか、どこに隠れているかを探しているのが耳でわかった。時々向こうから音が聞こえている。ぱたぱたした細かいものは廊下や床を足早に駆ける証拠。合間に聞こえるこしょこしょと聞き取りにくい声は内容はわからないが、おそらく移動の相談だろう。それらを全て聞いている自分は怒られるような場所で高見の見物ならぬ、聞き耳を立てていた。

 祖母に怒られるようないけないことをしている。いつもいない静かな場所にいる。

 非日常的状況に、Yさんは子ども心ながら高揚感と背徳感で興奮していた。どきどきと脈打つ心臓の鼓動が体の中心から指先まで響く。始めは暗いなかで大人しくできていたが、やはり子どもらしく好奇心が落ち着くのも急だった。

 よく言えば賑やか、悪く言えば騒がしいなかで育ってきたせいだろうか。あまりにも音がない現状に飽き始めていた。膝を抱えていた腕をはずして、何気なく掌を下に向けて置こうとした際。覚えのある感触に右手だけが弾けるように宙に戻る。登るときに感じたものがまた、指にまとわりついたのだ。

 糸の塊だと思われる埃らしきものは指先から離れない。Yさんは周囲に気付かれないよう襖を僅かに開け、右手をうっすらとした光の筋に当てた。そして、後悔した。

 絡まっていたのは糸ではなかった。黒々とした髪の毛が何本も何本も人差し指から薬指にかけて、まとわりついていたのだ。誰も出そうとしなかった場所に急に現れた毛髪。

 まるでYさんをここに絡め置くつもりのような、そんな気さえしたという。疑問よりも気持ち悪い感情が勝った。両手を擦りあわせて振り払うなか、また誰かが歩くような音が小さな耳に届いた。

 ――誰か、来た。

 慌てたYさんは僅かな隙間から向こうの部屋を覗いた。片目で覗いた部屋には、最初と同じように誰もいなかった。だが耳はまだぱたぱたと軽やかな音を拾っている。擦りあわせて熱くなったはずの指から、熱が一気に退いた。

 聞いていた小さな音は襖側からではない。扉以外の方向から、聞こえていた。


 気付いてしまえば無意識に音の出所を探ってしまう。小さな音は遠くで聞こえていたわけではなく音自体が小さいらしい。右の壁から後ろの壁へYさんを回り込むように移動し、何度も往復する。軽やかな足取りを想像させるものに混じり、あの囁きも聞こえている。

 掠れた早口の呟きは、唇を最低限しか動かさずに発せられるものと似ていた。何を言っているのかは全くわからなかった。

 わからないからこそ、怖かった。声だと理解しているのに、聞き覚えがない。

 そんな認識のズレが不安に侵される心をどんどん闇の奥にと追い込んでいく。押し入れの中にいるのはYさんに似た指のひとつも動かせない、音を追うだけの塊だ。

 肺に流れてくる湿気と澱んだ空気は場所だけが理由ではないだろう。煩い心臓の音はいつの間にか興奮から恐怖にすり替わっていた。

 突然、音がYさんの真上で止まった。いきなり静まり返った内側に目を動かす。天井から垂れ下がった何に項を撫でられ、反射的に顔を上げてしまった。奇しくも外界の存在を繋ぐ一筋の頼りない光で、Yさんは見てしまった。

 勢いよく見上げてしまった先には目があった。鼻先から拳ふたつぶんの距離に、彼女を見つめる血走った目。少し下のほうで三日月のようなものがひとつ現れてもいた。

 こっちが目で、あっちが口だ。

 Yさんが理解した途端、闇が動いた。両方がまるで「にちゃり」と音を立てるかのように、粘度のあるゆっくりとした動きで弓なりに細くなった。嗤っている。口の中に不揃いで歪に並んだ薄汚い歯の一本一本まで見えてしまった。気持ち悪い。気色悪い。

 小学生までの知識しかない脳は『おぞましい』という単語を知らなかったが、言い表すべき感情はこのとき初めて知ったという。

 わななく口が閉まらず、喉から嫌な風音が漏れていた。それでもYさんは目を逸らすことができなかった。

 二列の歯が真ん中で上下に割れた。開いたと思ったその瞬間、生臭く重い息とともに視界が暗くなる。戸が閉まったのではない。視界が重く黒いもので塞がれた。Yさんの肌は知っていた。これは自分の項を撫でたもの。信じたくないが、首にはぷつぷつと鳥肌が立つ。落ちてきたものを触って予想通りか確かめなくても、わかってしまった。

 脳が判断する前に躯がわめいた。Yさんは絶叫していた。

「あぁあぁぁぁああぁぁああああ!!」

 この黒は髪の毛の色だ。顔全面を髪の毛が覆っている。両手を突き出して逃げようとYさんはもがいたが、天井に向けた顔は毛に固定されて動かない。不安定でも、何としてでもここから出ようとじたばたと暴れる。暴れる力に比例して髪の毛は顔から首、肩へとまるで蔦のように伸びてきた。

 このまま全部、髪の毛に飲み込まれてしまったら。私はどうなるんだろう。どこかに連れて行かれるんだろうか。それって、どこなの。

 宙で暴れさせていた両腕がぐっと強く引っ張られた。Yさんが抵抗する間もなく、体も宙に浮いた。目を刺す眩しい光に忘れていた瞼を閉じた。



 次に瞼を開いたとき、Yさんは押し入れを背にして畳にしゃがみ込んでいた。目の前にはかくれんぼの鬼であるJさんがいた。彼が押し入れの角で暴れていたYさんの両腕を掴んでくれたらしい。

 ほっとしたのも束の間、後ろで襖の閉まる音がした。向かい合っているJさんは勝手に動いた戸を見たはずだ。だが何も言わず、まだ細い体を立ち上がらせる。

「振り向くなよ」とJさんは言った。

 絶対に見ないと答える気も起きず、その後、全員見つかるまで二人で行動した。意外なことにYさんが最初に見つかったらしい。数をかぞえて終わってから、数分も経っていなかったようだった。

 高校生のJさんは引っ付いてくる小学生に嫌がる素振りを一切見せず、同行を自然に受け入れてくれた。隠れているのもあと二人となったときに一度だけ離れたが、Yさんは見つけた子たちと一緒だったので気にならなかった。

 きっと襖の中で移動させてきた布団を戻してきてくれたのだろうと、今でも勝手に思っているそうだ。何故なら、彼女が祖父母に怒られることはなかったからだ。


 かくれんぼも終わったあと、Jさんから「自分もあの押し入れに入ったことがある」と、Yさんは聞かされた。

「Yくらいの頃に一回入って、俺も見た。そのときはじいさんが助けてくれた。あんなのが角にいるなんておかしいよな。でも、角を開けなければ見えないって。じいさんとばあさんだけの秘密にしとくつもりだったって」

 普段ならノリよさが滲む顔をJさんはとても険しくしながら、話してくれた。

『あれ』がいる理由を知りたい一心で祖父に駄々をこね、渋々ながらも簡単に教えてもらえたそうだ。

「かなり昔、それこそじいさんが生まれる前。親戚かなんかがどっかで人形買ってきて、よくある話で最初は飾ってたけど古くなって押し入れのあそこにしまったら、いくら閉めても隙間が開いて……真っ暗な中から人形がこっちを見てる。気持ち悪いし、古いのなんてもう飾らないからって供養に出した。でも、隙間はまた開いた。開けても何もない。それでも視線は感じる。で、最後には角にきっちり荷物を詰めて『いられなく』した。それからは開かなくなった。今日は多分、布団がズレてて……少しだけでもアウトなんだろうな」

 だから、あの押し入れの角は絶対に隙間を作ってはならない。隙間にいたものがこちらを呼ぶから。

「誰にも言うなよ」と、唯一子どもの中で同じ体験をしたYさんにそう教えてくれた。



 Yさんの一件から十何年経ち、誰かの押し入れに関する話が彼女の耳に届いたことはない。

 母の実家の家長は将来そのJさんに引き継がれるのだろう。家督を継いだとき、まずあの押し入れが締め切られ、使われなくなるのだとYさんは思っている。

「でも、あんまり納得してないんです」と、Yさんは言う。「Jさんは見たとは言っても、聞いたとは言ってないんですよ。触ったとかも言ってない。なら私が会った『あれ』は、彼の言うものと同じなのか……今でもそれは微妙で」

 確かめる気も、ないんですけどね。


 Yさんは今でも、あの押し入れの右端には近づかないようにしている。

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