5.
「しょうがないことはしょうがない。つまらないことはつまらない。それだけのことだよ。桜の咲き具合を見に行かない?」
と変男は言った。
あたしは下を向いていて、変男の手に『清涼堂』という紙袋が下がっているので、その袋に目がくぎ付けになった。それは、その例の、香澄さんが押している美容液を出している会社だ。
それで、あたしは変男に目を戻すと、もう、記憶の隅々まで探るように、変男とあたしのこれまでのやりとりを繰り返し思い出そうとしてみた。このなれなれしさといい、なんといい、やっぱり、この人は顧客だったのだろうか?
「あの? ええと…。以前にどこかでお目にかかりましたか?」
と澄まして言ってみた。
「最初の場所は覚えてないんだ。悪いけど…。だけどどこかの美容室だよ。オレ、カットしてたし」
ははあ、この人も雇われ美容師ってことなのか?
「お前の頭の大きさがすっぽり手に吸いついた。まあ、それはわかっていたことだけどな」
え? 何? お前って? 顧客じゃなくて、あたしが客だったってこと? だけどそれだったらお前なんて言うか?
みなとみらい行きの電車がホームに入って来た。
「一台遅らせられるの?」
と変男が聞いたので、とっさに首を振った。
あたしがみなとみらい行きの電車に乗ると、変男はホームで清涼堂の紺地の紙袋をかかげて、それを指をさして、「ミノル!」と一言言い、電車のドアが閉まった。
ミノルとは何なのか? わからなかった。
中目黒のホームで馬鹿みたいに紙袋を掲げている変男が目に焼き付いた。考えても考えてもわからなかった。
その姿だけが焼き付いたまま数日が過ぎた。
そのおかげで、なんか井角さんとのやりとりが薄まった。
清涼堂への製品の注文もこの頃はメールでやりとりするようになり、電話をかけることはめったになかったのだけれど…。
その日も職場でメールで注文をしながら、変男のことが気になって、思い切って電話をしてみることにした。
「お電話ありがとうございます。清涼堂、ナンバラがお伺いいたします」
と受け答えのその女性は言った。
「いつもお世話になっております、ラズベリー・ピンクのスドウと申します」
「こちらこそいつもお世話になっております」
「あの、ミノル…。さんという方が…」
と言い、そのあと何と切り出そうか迷っていると、
「あ、ああ、ええと…。ラズベリー・ピンクのスドウ様? ですね? うかがっております。少々お待ち下さい」
と少し間があり…。
「申し訳ございません。ただいまタカナシは外出しておりますので、直接スドウ様のお電話にご連絡申し上げるということでございますので、お手持ちの携帯電話のお電話番号をお伺いできますでしょうか」
もう、頭の中にクエスチョンマークがあふれそうになりながらも、あたしは自分の携帯番号を告げた。
数分後にあたしの携帯が震え、なぜだかあたしはドキドキしていた。
「あ、おれ。ミノル。へへへ」
と変男の声が笑った。
「あの…」
「あ、わりいけど、電話じゃあ説明しきれないんだよ。わかると思うけど。説明がすっごく面倒なのでさ。今夜、食事はどう?」
例によってなれなれしい。
でも不思議と最初に感じていたうさん臭さは消えていて、あたしはすんなりと、
「うん、いいよ」
となれなれしいモードに乗り、
「良かった。桜が咲いているうちで」
と言うそのミノルの言うとおりに、目黒川が見える店で約束をした。
川沿いのわりに新しい二階建ての店舗。その二階の、川側が足元までガラス張りになっている店でミノルと会った。和食のちょっとシャレた居酒屋でみそおでんがウリらしい。
店に入ると、ミノルはドアのあたしの方を向いていて、なれなれしく笑った。
あたしはやけにドキドキしていて、笑顔を作れなかったのだけれど、ミノルの前に座るとミノルは、まず名刺を差し出し、それには「清涼堂 高階守三」と書いてあった。
「は?」
とさらにクエスチョンマークが増えているところに、
「お飲み物はお決まりですか?」
と店員さんが言って来たら、ミノルは飲み物メニューを指さしながら
「この芋焼酎のお湯割りで…、で、こいつは」
とあたしを見て、「生ビールでいいんだよな?」と言うので、あたしはこくんとうなずいた。
あたしが怪訝そうな顔をしていると、
「ああ、良かった。ほんと、スゴロクと同じだな。じいちゃんが言ってた」
とミノルは言い、
「まず、名前の説明からな」と座り直すと、
「ミノルってのは、会社での呼び名というか、暗号みたいなもんかな? ほら、ゼロゼロセブンみたいな。社外の人でミノルっていきなり呼ぶ人はいないと思ったから、ミノル投げておいて、正解だったな」
と言った。
そこにお酒とつきだしが運ばれて来ると、
「おい見ろよ。ここから見える所、今、ちょうど桜が満開だから、正解だったな」
と言い、
「もう、オレの話って信じてもらうのが大変なんだよ」
と言った。
あたしはなんと返事していいのかずっとわからずにいたけど、
「じゃあなんと呼べばいいの? タカナシさん?」
と聞いてみた。
「まさか。それじゃ、うちの会社タカナシばかりだからわからなくなる。モリゾーでいいよ」
とモリゾーが言った。