4.
そんなもろもろのことが頭の中で渦巻いている間、井角さんは一人でいい気になっていたみたいで、
「あ、やっぱり? でしょ? ピンポイントでしょ?」
とあたしに共感を求めて来た。
(めんどくせ~)とあたしは心の中で思ったけれど、それは出さずに、てきぱき感を出そうと、
「で、ウダラビルの納品数はもういただいているのでしょうか?」
と切り返した。ウダラビルというのが、今、井角さんが持っている美容液で、インドネシア語で空気と青ということらしい。
「え? ああ、そういうことはスドウさんと直接進めようと思って、ここで待たせてもらったんだけど…」
「では、何本御入用ですか?」
とあたしが話を進めようとすると、井角さんは名刺を出して、
「新しい店、ここなんで、ここに来て下さいよ。店で注文しますよ。オーナーに紹介したほうが、スドウさんだっていいでしょ? ほかの店舗にもツテできるし」
とニヤッと笑い、
「これで少しはお礼になったかな?」
とウダラビルをテーブルの上にドンと置くと立ち上がり、
「そんな、事務的にならなくていいっすよ。オレ、美容師は天職だって思ってるけど、そんな仕事仕事って人間でもないし。そういう、人と人との一つずつのつながりとか、ニュアンスとか、ふっと心にとまったもの大事にする派なんで」
と言いながら、じっとあたしのことを見つめて、
「正直、ミッチからのわりに熱い思いに、オレちょっとヘキエキしてたっぽいとこあって。そこに助け船出してもらえて、スドウさんにはそういう意味でのお礼もあったんすよ。だから、いつでも誘ってください」
と手を差し出した。
あんぐりと開いてしまいそうな口を必死に押しとどめて、あたしはその手のひらに気が付かないふりをして、
「どうもありがとうございます。数日中に新しいお店の方におうかがいしますね」
とていねいにあいさつして井角さんを事務所から送り出した。
「ねえ、ミカちゃん」
井角さんが事務所から出たのを見計らって、香澄さんがあたしを呼んだ。プライベートでは「ミカちゃん」顧客がいる時には「スドウさん」になる。
「悪いけどさ、取引とか契約とかはお相手さんのお店で済ませてきてね」
珍しく香澄さんからいらいらが立ち上っているのが見えた。
嫌なことというのは、ただこれだけのことなのだけど、あたしはなんか自分の手際の悪さを改めて指摘されたような気分になっていた。
井角さんが勝手に勘違いしていて、たまたま事務所にあたしがいなかったから、ややこしいことになったけど。クールな人だったらまずあたしがいるかどうか来る前に事務所に確認くらいできただろうに…。とにかく、あたしには落ち度はないはず。あたしはあたしでいつもちゃんとやってますよってことを香澄さんに訴えたかった。
だけれど、言い訳自体しにくいことだよ。かなり前にさかのぼらなければ説明できないし。ややこしすぎる。大したことじゃないし。説明することでよけい自分のダメさを強調することになるかもしれないし。
たぶん香澄さんはわかってくれている。
ただ、たぶん、あたしが事務所に帰って来るまでの井角さんとの無駄なダラダラなやりとりが、香澄さんのすっきりとした性格には相入れなかったのだろうな、と想像できた。苛立ちはわりとすぐに吐き出して溜めない人だから。そこがいいところだけど。
だから、とにかく井角さんに猛烈に腹が立ってきて、だけど、井角さんはけっこう大きい顧客になるかもしれないから、それをぶつけることはできない。
仕事がまた回り始めればこんなちっぽけなことはいずれ消えてなくなる。たぶん。
でも、消えてなくなるまでは、もやもやカスは、またもやもやカスを生んで、嫌な気分を充満させることもあるんだよ。井角さんとの関係がなくなるまでは、ぼんやり嫌な気分がまた繰り返される。それはあたし自身の面倒くさい性格。わかっているけど、香澄さんのようにはスパっとできないのだ。
その二日後、ハルクって店に行く日。どうしても井角さんの顔が思い浮かんで、やっぱりまた嫌な気分がぶり返していた。そんな時にまた変男に会ったのだ。
恵比寿から日比谷線に乗って横浜方面に向かう時だった。中目黒止まりの車両だったから「ナカメで乗り換えなくちゃな」とぼんやり思っていると、日比谷線が地下から外に出た。目黒川のほとりの開き始めた桜がう~~っすらピンク色なのが目に入って来て、中目黒のホームの扉が開くと、目の前に変男が立っていた。
「よ!」
と変男が言った。平日だというのにラフな格好だった。
「うげ」という気持ちがそのまま顔に出てしまったらしい。
「そんなつまんない顔しないで。つまんないのはしょうがないけど」
と変男が言った。
あたしが乗っていた車両は折り返し北千住行きになる。だからホームに降りざるを得なかった。まったくその扉がわかったというようにあたしの目の前に立っている奴を、あたしが無視しようと思っていると、
「あれ? 覚えてるだろ?」
と声かけてきたけど、そのこと自体に答えたくなかった。