3.
次の次の週くらいに、その井角さんがいる美容室に行く必要があった。そしたら、そのカスが頭の片隅で騒いだ。
『まあ、てきとーでいいから、この間改めて電話しなかったこと、イスミさんに言ってあやまっておいた方がいいんじゃないかな』と。
だけど、その日井角さんの姿が見えなかったので、納品物の契約済ませた後に、ちょうど佐竹さんがそれを担当してくれていたから、
「あの、イスミさんは?」
と聞いた。
佐竹さんはカラコンの大きな瞳が飛び出すばかりに目を大きく見開いて、あたしのことをじいっと見つめると
「あ? ああそうか? 知らないんでしたね? 辞めたんですよ」
と言った。
「あ、ああそうだったんですか」
とびっくりしながらあたしは答えた。
「ご存知かと思ったわ」
と佐竹さんが付け加えた。その感じがなんか、ぐさっときた。なぜそんな「ぐさっ」と言うのかはわからなかった。
で、その足で事務所に戻ったらその井角さんがいたのだ。
事務所はワンフロアだけど、応接セットの所だけちょっと衝立で区切ってある。
事務所のドアを開けて少し中に入ると衝立の後ろに香澄さんの背中が見えて、その向いの井角さんの顔がこっちを向いていて、いつものようになんだかにやけて話ししていた。
「あ、帰ってきた」
とドアの音に振り向いた香澄さんが、さっと立ち上がって
「スドウさん。お願いね」
とあたしに言った。なんか、ちょっといらっとしているのか? 嫌な感じだった。
「あ、ども」
と井角さんがニヤニヤしている。そして
「電話くれなかったすね」
と言う。
「ああ、どうもすみませんでした」
とあたしは井角さんの向かい、今、香澄さんが座っていた所に座りながら、
「今、ジュピターに行って来たところなんですよ」
と言った。ジュピターってのは、その井角さんがいた美容室だ。
「ハハハ。ミッチ、いらだってました?」
と井角さんが言った。
『ミッチ? いらだつ?』なんだ? わからないので、あいまいに笑おうと思ったけれど笑顔がひきつった。
「ちょっとミッチともいい感じになっていたから、オレ」
と井角さんが言った。
「ミッチって…。もしかして、佐竹さんのことですか?」
と、話のこの辺りからあたしの不快感は上り詰めてきていて、少しトゲが入るようになってきていた。
「あ、そうそう」
と、応接のテーブルの上に見本で出したと思われる数本の美容液のビンの中から一本をつかんで、井角さんは意味ありげにそれを眺めた。
「ええと、今日は…」
仕事の話に戻そうと、あたしは座り直し、言葉を探した。
「ボク、実はみなとみらいにできた新しい店に引き抜かれたんすよ。そこ、経営はベテランの人ってか、おかみさんって感じの人で横浜に数軒展開しているんすけどね。どこも予約なかなか取れない店でね。そのヤマダさん、オレにけっこう信頼寄せてる感じなんすよ」
「はぁ」
「ハルクって店なんですけど、まだこれ入っていなかったから」
と井角さんがそのビンをあたしの方に差し出したので、
「あ、ああどうも、ありがとうございます」
と言ったら、
「オスってわかりますか?」
と唐突に聞かれてその一瞬、『雄』とあたしの頭は文字を変換して、井角さんの中からドロッと出てきた雄の顔にうげっとなった。
「あ、もち、プッシュっすよ。プッシュの『押す』ね」
「あ、はぁ」
「わかっていると思うけど、押すのってツボらないとだめなんすよね」
「あ、ああ」
「そういう意味では、スドウさん、いいツボ押しましたよ」
「?」
目が点になった。
「ほら、あれ。モンタナのフィグ」
井角さんとのやりとりにおける、いくつかの点がつながってきた。この間言っていた『おいしかったあれ』ってモンタナのフィグのことだったのか。
モンタナってのは、今わりに人気のあるパティシェが開発したそば粉を使ったミルフィーユで、はさんであるチョコにいろいろフルーツを使っているというのがミソで、その「イチジク」のやつだ。
「その前の時だっけ? けっこう前だったのに…、オレ、モンタナのフィグのこと言ったの、覚えててくれてたってことでしょ?」
「はぁ?」という言葉は喉のところで押しとどめた。そんなのいつ言ったか? そんなこと覚えているわけなかったし、だいいち、お客様に何か手土産を持って行く時、数軒に持って行くものが一時的に同じ物になることはある。
モンタナはおいしいから、数か月前に何軒かのお店に持って行ったことはあった。でもそれはもう完全にこっちの事情で、いちいち相手の好みなんか覚えていられないから、そんなにまだいきわたってないお菓子で、自分が食べておいしいって思えるもので、相手に好感もってもらえそうなやつ。
まあ、それで文句は言われたことはないし、それがたまたまお客さんの初めて食べた物で、気に入ってもらえたりすると、喜んでもらえて、次に行った時とかに好感度アップしている実感は持てる。
だけど、個人に持って行くわけはなく…、ここまで勘違いされたことはなかった。




