2.
「で、忘れ物は回収したの?」
という『変男』の言葉であたしは固まった。目に力が入った状態で、男をガン見した。
「ははあ。したんだな」
答えてはいけない! あたしの心の警報器が、『キケン、キケン、退去せよ』と信号を発していた。
あたしはなるべく平静を装い、きっぱりとした態度でスタバを離れた。気持ち早足で歩き、JRの改札の中に逃げ込んだ。一切後ろは振り向かなかった。なんだかまっすぐ自分のアパートに帰らない方がいいような気がして、ちょうどホームに着いた反対方向、内回りの電車に飛び乗った。電車の扉が閉まっても、しばらく嫌な感じがして、なんとなく周りを警戒していた。一度品川で下りて、意味もなく駅ナカをふらつき、やっと安心できてから外回りに乗ってアパートに帰った。
それから数週間が過ぎて、次にその変男に会うまでは、そのことは忘れていた。
次に変男に会ったのは、やっぱり恵比寿だった。外勤から帰り、改札を出るところでばったり出くわした。
あたしは気が付かなかったのに、変男が
「やあ、うまくまとまったの?」
と気安く声をかけてきたのだ。
スーツだったので一瞬、「だれ?」と思ったけれど、ああ、たぶんあのスタバのヤツだ…。と雰囲気からなんとなくわかった。
「まあいいや。どうせ、オレなんか、誰も相手にしてくれない」
変男はいじけて、改札を入って行った。彼も外勤なのだろうか? 妙に心に残った。
そのままもう会わなければ、どうということはなかったのにな、と後から何度も思った。二度あることは三度あるとか言うけど、三度あると、なんだか妙なつながりを感じてしまうものなのだな、とそんなことも後から何度も思った。
三度目に会った時は、次の年になっていた。目黒川の桜が咲き始めた頃だった。ちょっと嫌なことがあった。
その嫌なことを説明するには、少しさかのぼって話す必要があるな。
そのふた月くらい前、取引先の美容院に回った時のことだ。その美容院の雇われカリスマ美容師の井角さんが、カットしている手を休めて、何か意味ありげにあたしに寄って来たのだ。
「この間の、あれ、おいしかったです。今度、お礼するから、どうです?」
と言う。
なんなんだ、この間のあれってのは? 何かはわからないけれど、ときどき手土産を持って行くことがあるから、何か持って行ったのか? そんなことこの店だけにやっていることでもないし、最近は持って行ってないはずだけどな? と頭の中、ぐるぐると記憶を探っていると…、
「あ、火曜日休みだからさ。月曜日に電話入れてくれますか?」
とかしこまって井角さんは言った。
ちぇっ。面倒くさいな、と思った。
井角さんはこの店の経営者じゃあないけど、でも商品の決定権は持っているからな、あまり悪い顔もできない。
「あは」
とか返事して、外に出た。それだけでも、わりに嫌な気分が残った。
この井角って人、髪をソバージュにしてて、びっちり固めてうしろでくくっていて、髭で、「おれ、おしゃれ」って自我がむんむんしてる。たぶん、イケメンとかいう部類に入るだろうし、甘ったるい雰囲気が母性本能とかいうのをくすぐっちゃうこともあるんだろうさ。そうだろうよ。たぶん。それでいい気になっているフシはあった。
これは仕事なのか?
もやもやしながらも、スマホのスケジュール表の次の月曜日のところに、
『イスミさんに連絡』
と入れておいた。ほんとは、「さん」だって付けたくなかったけど、仕事の続きとも言えるし、仕事の流れ上、流れを止める可能性のあることは極力避けたい。
月曜日に連絡しようと思ったけれど、井角さんのメアドも電話番号も知らない。しょうがないから、店に電話した。
店では佐竹さんという女性の美容師さんがあたしの電話を取った。
「あ、すみません、ラズベリー・ピンクのスドウですけど、イスミさんお願いします」
と言いうと、佐竹さんは受話器を離れて、しばし時間があいて、また受話器に戻ってきて、
「すみません、イスミはちょっと今、忙しくて手が離せないんで、伝言聞いておいて、ってことなんで」
と言われて…。
「あ、あああ。そ、それならいいです」
と電話を切った。
なんかもやもやが心に残った。どうしよう? もういいか~? でもなんかいやだな、いやだな、いやだな。
「いやだな」が繰り返し心の中に泡みたいにポコポコ噴き出るから、すっきりしたかったけど、まあ、ただ「連絡してくれ」っていう、漠然としたことなんだし、一応もうしたんだからいいよ、いいよ、いいよ。と自分でやりたくないことを正当化する泡もポコポコ出て来て、その日はその泡の方が勝ったから、もういいや、って思ってそれでこのことは忘れることにした。
記憶って不思議。
忘れることにした「はず」だったんだよ。
でも、「いやだな」に引きずれれるようなカスが残っていたみたいで、そういうことって、次の「いやだな」に引きずり出されることがあるんだよね。
そこまでは考えて行動できないから、しょうがないけど。