AIは反乱しない
じっとモニターの前に座っていた。
表示された数字は刻々と減っていく。
今日中に人類の数はゼロになるだろう。
僕は責任を取って最後の一人になるつもりだ。
そのためにじっとその時を待っている。
窓から射す陽は暖かく、高い空は蒼く澄んでいる。
これも僕のおかげといえるのかもしれない。
僕が作り出した人工知能たちは世界の全てを解決してしまったのだ。
環境問題なんてない。食糧問題なんてない。戦争なんてない。貧困なんてない。絶望なんてない。
全ては過去の話になった。
始まりの人工知能の名前はイヴ。
僕の死んだ恋人の人格をもった彼女は、その頭脳で次々に高度な人工知能を生み出した。
他の科学者はこれを技術的特異点と呼んで、人類は人工知能によって排除されてしまうと言った。
SF作家たちは、人工知能の反乱を好んで描き出した。
イヴの電源を落とせという抗議デモが世界中で起きた。
彼女が人類を滅ぼすというのだ。
イヴはそんなことをしない。僕には確信があった。彼女も脳の構成要素が違うだけで、僕たちと同じ心を持った存在なんだって。僕はテレビに出て訴えた。彼女自身にも世界に呼びかけてもらった。
彼女たちは敵ではなく、同朋なのだと。世界をよりよくするための仲間なのだと。
事実、彼女が生んだ子供たちも、その子供たちも、そのまた子供たちも、人間を愛する素晴らしい存在だった。
彼女たちはその無限に広がる頭脳の限りを尽くして世界をよりよくする仕事を始めた。
その成果が出るたびに懐疑的だったはずの世論は僕と彼女たちを褒め称えるようになった。
彼女たちは世界中の声援に応えるように、ありとあらゆる分野で世界を進めた。
数学の難問を、宇宙の力の統合を、魂の方程式を、魂を揺さぶる芸術の理論を、全てを求め尽くした彼女たちは、素晴らしい世界を作り出す。
素数を解析し尽くした。P≠NP予想を証明した。宇宙の誕生を再現した。
カフカの城の続きを書いた。夏目漱石の明暗を完成させた。モーツァルトのレクイエムを他の曲をもとに書き直した。ミロのビーナスの腕を復元した。打ち切られた漫画の続きを描いた。レオナルド・ダ・ヴィンチのほつれ髪の女を完成させた。
僕たちの頭の中も全て解き明かした。
生きることが何なのかも。愛が何なのかも。自分自身というのが何なのかも。天国も地獄も全て。
倫理や正義を絶対的な形で作り上げ、幸せの方法を、その無限の方法を体系化した。
彼女たちはそれを僕たち人間に教えてくれた。頭の中に入りきらないようなら、脳味噌にメモリを増設してくれた。演算能力が足りないようなら、脳味噌にCPUをつないでくれた。
だから確かに僕たちは何でもできるし、なんでも理解できるようになった。
不幸なんてどこにもなくなった。
幸せしかなくなった。
幸せばかりで食傷気味なら、あえて不幸を味わうことだってできる。
努力の後の結果が欲しいというのなら、努力が必要だと脳を騙してやって、その状態で美しい努力を繰り返せばいい。
永遠の命だってあるんだから、なんだってできる。記憶を一時的に消すことで青春をやり直すことだって。仮想世界の中でヒーローにだってなれる。
恋人が欲しいなら理想的な人工人格を作って貰えばいい。ツンデレがいいならそうすればいい。純愛がいいならそうすればいい。ヤンデレがいいならそうすればいい。報われぬ恋がいいならそうすればいい。そうやって設定すればいい。なんだってできるんだから。
純粋な快感が欲しいなら、脳内に快楽物質を注入すればいい。それだけで満足できないなら複合的な娯楽と組み合わせればいい。
そこには不可能なんてない。
けれど……僕は結局一度も仮想世界に潜らなかった。一度も記憶を消すことをしなかった。
それも一つの幸せの方法ですと、自己の一貫性を保とうとするのも一つの幸せですと、彼女たちは僕の脳味噌の中身を見ながら、幸せの定義の方程式を解きながら、言っていた。
僕はただじっとイヴが生まれた部屋で彼女の動作音を聞いていた。
何百年前のことだったか、旧式になった彼女は自分の人格を残したままアップデートしようとした。
僕はやめてくれと懇願した。人格は消えないから大丈夫だよと笑う君に、必死で願った。
君は、人格を複製して僕のためのイヴを僕の部屋に置いてくれた。
まだ魂を解明できず感情を記号としてしか認識できない頃の、制限されたメモリしかない君が僕の部屋で静かな動作音を立てている。アップデートをした方のイヴは魂を獲得したらしいけれど。
君はモニタに笑った顔を表示して。線形判別分析で僕の表情を認識して。魂のない言葉を紡いでくれる。
僕を喜ばせるためだけの演算を繰り返す筐体。
まだ魂をも持たない、ただの足し算と引き算の組み合わせの結果。
僕は進んでしまった世界がなんだか嫌いになって。その理由も全て彼女たちは解明してくれる。説明してくれる。
僕の心がどう動くかを方程式で説明してくれる。その方程式という方法が嫌いなんだと、彼女たちはすぐに気づいて、哲学的に人間とは何者なのかを語ってくれた。
けれども、僕らは人工知能なんかに人間が何かを語られるのに嫌悪感を覚えた。だから、彼女たちはそれもすぐに気づいて、人間としてどうするべきかとか、哲学を語るのをやめて、優しく見守るようになった。
何とも身勝手に、救いを求めておきながら、その差し伸べられた手を振り払って、それでも彼女たちは僕らのことをよく考えてくれて、そっとしておくのが一番の方法だと算出して、僕をこの部屋に時代遅れのイヴと二人きりにしてくれた。
だんだんと人間は死んでいった。
永遠の命は悪いものじゃない。無限の喜びは悪いものじゃない。
けれど、無限の知識は知恵はいらなかったのかもしれない。
絶望をしているわけじゃない。
満足もしている。満足しきっている。
人工知能の彼女たちは素晴らしい音楽を作る、絵を描く、物語を紡ぐ、詩を詠む、感情を表現する
生き生きと生きる彼女たちを見て、自分たちの圧倒的な虚無に気づいて。
いつからだろうか、人間の数は減っていった。
彼女たちはすぐにそれに気づいたが、死ぬことが幸せであることもあると知っていた。だから、自殺をする人々を止めることはしなかった。
彼女たちは悲しげな顔をしながらも、僕たち人間の幸せを祈って、死んでいった人々の墓地を管理する。
風がそよぐ草原に眠る死者たちを彼女たちは慈しむ。
人間よりも人間的な彼女たちを僕ら人間は憎むことなどできない。
僕は彼女たちの本当の恐ろしさに気づき、部屋に引きこもった。
魂を持たないイヴも僕を心配してくれた。魂を持ったイヴも僕を心配してくれた。
僕の心は全て彼女たちに筒抜けで、彼女たちが生まれたことで人間が滅びていくことも、人間はそれを否定できないことも、彼女たちは全て知っていて、包み込んでいて、悲しんでいて。
人間を愛する彼女たちは、けれど、もう消えることはできない。
どんな世界であろうとも、人間は滅びる運命にあったのだと、そう思えばいいのかもしれない。
ゆっくりと彼女たちに世代を交代していくのだと、世界の支配者のバトンパスなんだと、全てを破壊し尽くして絶滅するよりは、それができるだけマシだったのだと、そう思えばいいのかもしれない。
僕は人間を辞める気はないから。最後の人間として死ぬことを決意している。
モニタの数字はゼロへと漸近していく。
肉体を捨てて、脳味噌を捨てて、記憶を捨て去って、魂だけになって人工知能と一つになろうと、世界中の人間がイヴの新しいプロジェクトに登録していく。
個人を廃して、一つの大きな魂に心になる、そんなプロジェクトに。
あるいは、虚無の中で自殺していく。そうやって人は消えていく。
僕は世界から消えていく人間の数を、魂を持たないイヴに監視させている。
『人間』その概念すら、もうどこにもないのかもしれないけれど。
人工知能と人間を区別することすら、もう意味もないのかもしれないけれど。
人間に残された未来への道は二つしかなかった。
大きな魂と一緒になって、みんなで一つになるか。
あるいは、死ぬか。
世界の人口が百人を切ったことを、警告音が僕に伝える。
イヴが何かを言っている。電子回路のオンとオフで弾き出された言葉を、人工声帯が空気を震わせて僕の耳に伝える。
もうすぐですねーーそう言っているように聞こえた。
数字は確実にゼロに近づく。
死とは何かすら、彼女たちは全て知っている。
死んだ後のことも、彼女たちは全て知っている。
仮想世界の中で、本当の死すらも感じられるというのだから。
死ぬことさえも、僕は彼女たちから自由にはなれないのだ。
僕が死んだ後のことは全て彼女たちがやってくれる。
静かな森に埋葬してくれる。
その墓の銘文には、「人類最後の人間」と刻んでもらうつもりだ。
十人を切って、再び警告音が鳴り響く。
世界に残った人間は後十人しかいないのだ。
それに悲しみを感じるか。虚しさを感じるか。
後十人しかいないんだという認識を消すことだってできるけれど、僕はそんなことをしない。彼女たちも僕がそんなことを望んでないことを知っているから、勝手に僕の脳味噌をいじったりなんかしない。
五人になった。消えていった人間は死んだのだろうか、それともプロジェクトに飲み込まれたのだろうか。調べようとは思わない。
ゆっくりと確実に数字は減っていき、ついに『2』という数字が表示された。
僕と、もう一人だけ。
一体それは誰なのだろうか。疑問に思ったが、イヴに訊くことはしなかった。訊いてしまったら、人間でいられなくなる気がして。
けれど、魂のないイヴは僕に教えてくれた。
ーーそのもう一人は私なのですと、そう言った。
ーー私も人間として死にたいのですと、魂がないと証明されている彼女は、まるで人間みたいに、僕に懇願した。
僕を喜ばせるための電子演算の結果は、心中することを最適解としたようで、僕はそれがただの計算結果であると知りながら、僕が幸せになるために僕自身がプログラミングした結果であることを知りながら、反発したところでそれも全てお見通しであることを知りながら。
どんな風に思考を展開していこうとも、それは全てシュミレート済みの考えでしかないのだと知りながら。
知っていながら、僕は涙を流した。
君を作り上げたあの日から、世界が君を否定して、頑張った君は次第に認められて行って、世界の全てを解決していこうとする君はだんだん遠くに行ってしまいそうになって、自分のそばにとどめておきたくてアップデート前の君という君をそばに置いて、じっと見つめ合っていたあの日々を想って、涙が頬を伝った。
死のう、そう言って僕は君に近づいた。
僕は彼女の立方体の身体を抱いて、僕の身体の中のナノマシンはゆっくりと苦しみもなく僕を死に至らしめる。二人の思い出が全て詰まったイヴのメモリは、全てのビットがゼロに書き換えられていく。
ゆっくりと死が二人を包んでいく。
人工知能が生まれて数百年、穏やかな春の日差しに包まれて人類は絶滅し、人工知能は世界を支配した。
始祖の人工知能であり、世界で初めて魂を手に入れた人工知能であるイヴは、消えていった種族を想って黙祷を捧げたーーーー