10月 紅白出場決定
十月も下旬に入り、最寄の駅まで自転車で駆け抜けると、冷たい風と共に金木犀の香りが鼻をくすぐるようになった。今年も残り少なくなってきた。どことなくせわしさが漂い始める、そんな季節。
今日はうちの支店のメンバーも朝からそわそわしていた。なぜって。今年の紅白歌合戦の出場歌手が発表されるからだ。
minaの『大切な人達へ』はドラマの主題歌にもなり、CDは五十万枚を超える売り上げを記録した。本人も目標の一つと口にしていた、オリコン順位一桁はあっさり達成された。
あとは、紅白出場の吉報を待つばかり、と言いたいところだが、事務所や業界の大人の事情等もあり、すんなり決まるわけではないらしい。
「佐伯さん、来ましたよ、ニュース」
オレが取引先から帰って、資料作成に追われていると、朝から携帯をいじくりまわしていた田中が緊張した面持ちで告げた。
「で、どうだ? minaは?」
「えっと、えーっと……」
「貸しな!」
雨宮さんが田中の携帯を取り上げてしまった。
「どれどれ……んっ!! んっ! 決まったよ!! 初出場! 紅組! minaだって!」
「やったー!! 」
支店全員で喜びを爆発させた。ここ半年で隠れファンになっていた支店長なんか涙ぐんでいる。
良かったな、mina。ついに、夢を叶えたな。
その日、オレは久々にminaに直接電話をした。色んなところからの取材やお祝いなどの対応に追われているかもしれない。出ないかな、とも思ったが、数コールで電話はつながった。
「紅白出場おめでとう! mina」
「ありがとうございます! でもまだ、なんか、実感わかなくて」
電話越しのminaの声は、嬉しそうに弾んでいた。
「これから忙しくなるぞ。イヤでも実感わくよ」
「ほんと、皆さんのおかげです」
「良かったら、みんなでお祝いしたいんだけど、どうかな?」
この半年でオレも、minaを気軽に誘えるようになっていた。
少しの沈黙。やっぱり忙しかったかな?
「あの……もしよければ、たまには二人でとか……ダメ……ですか?」
minaがゆっくりと口を開いた。
ちょっとびっくりした。でも、minaもみんなでワイワイとするより、たまにはゆっくりと話したいのかな? minaが売れていくことで苦労もあるだろう。そんなグチを聞くのもオレの務めだ。可愛い妹分だからな。
軽い気持ちで、オレは了解の返事をして、日を約束して電話を切った。
それが、あんなことになるなんて。
その時のオレは想像もしていなかった。
平日の少し遅い時間、いつもの店、客の入りもまばらだ。これなら、誰かに見つかるということはあるまい。
間接照明にぼんやりと照らされた、白い光沢のあるテーブル。板張りで木目調のアンティークな内装。
メニュー表も女性が喜びそうなカラフルなデザインで綺麗に盛り付けられた創作料理の写真がたくさん載っている。
紅白出場決定以来、ますますテレビに出ることになったminaは少し疲れている様子だったが、瞳は活き活きとしていた。
乾杯をして、お祝いと、しばらくは思い出話に花が咲く。
「minaはすごいな、デビューしてまだ3年足らずだろ? 紅白出場って、すごいことだよ! minaには才能があるんだよ」
「いえ、ほんと私なんてたいしたことないんです。元々石ころみたいな才能だから、何度も何度も曲を書き直して、なんとかピカピカにしないと、他の人にはとうてい追いつけないんです」
minaは少し照れたように笑った。
やはり、努力こそ才能か。口で言うのは簡単だが、その裏には文字通り血のにじむような努力があるのだろう。
「オレもよく、突き返されても、何回も何回も稟議書を書いたことがあったよ。最終的には上司が根負けしたりしてね」
オレがバンカーとしての情熱に溢れていた頃。それはなんだか、遠い昔の話みたいだ。
「佐伯さん……」
minaが何かを決心するように口を開いた。
「ん……?」
「あの……北崎鉄工さんの話、聞きました」
何だって??
minaの話は続く。
「佐伯さんは本当に、私が想像つかないくらいつらい思いをしたんだと思います。でも、佐伯さんは前に私に言ってくれました。私の歌で、勇気が出たって。だから……」
「だから……?」
「もっと多くの会社や従業員の人を幸せにして欲しい。亡くなった社長さんもそれを望んでいるのでは……」
minaの瞳は、真っ直ぐにオレを見据えていた。
ただ、その瞳はまるでオレの心の中の全てを見透かしてしまうかのようで……
北崎鉄工……心の奥に封じ込めていた、様々な記憶が頭の中を駆け巡る。
オレは目の前のminaが見えなくなり、代わりに辺りに深い闇が出現した。
「佐伯さんには、前を向いて、もっと希望を持って生きていてもらいたいんです!!」
やめてくれ……記憶がフラッシュバックする!! 金策に走る社長の苦悩に満ちた表情。社長が亡くなった後、奥さんの顔面蒼白の顔。そして……
一寸の沈黙のあと……
自分でも想像以上の冷たい声が、オレの口から出た。
「お前に……何がわかる……」
目の前に再びminaの顔が出現したが、それはとても悲しい顔をしていた。
「わかったような……ことを言うな。過去を引きずって、夢が中途半端で終わっている人間だっているんだ……自分が夢を叶えて、調子に乗っているんじゃないか」
「待って……佐伯さん……私そういうつもりじゃ……」
minaの顔がくしゃくしゃになった。目に涙を浮かべている。
ここまで来ると、オレも後には引けない。
いたたまれなくなった。目の前の女の子を泣かして、オレは何がしたいんだ。
ガタン!!
大きな音を立てて、オレは椅子を後ろ足で蹴るかように座席を立った。
「今日は……帰るよ……」
minaの涙声を背中で聞きながら、オレは足早に店を出た。
いつの間にか、外は雨が振っていた。
スーツが濡れるのも構わずに、夜の街を足早に歩き始める。
minaの嗚咽交じりの悲しい声が、いつまでも耳にこびり付いて離れなかった。