最終話 春、目黒川にて
三月の最終日も迫った平日、桜前線やお花見の話題がニュース番組を賑わす、そんな季節になった。
今年はいつもより桜の開花が早いらしい。
期末の決算期で多忙を極めていたが、オレは支店長に無理を言って休みをもらった。
支店長は何かを察したのか、「しっかり決めてこい」とオレの肩に手を置いた。
昨日、田中と真由ちゃんにも「がんばってください」と送り出されたし。この銀行ではオレの個人情報はダダ漏れなのか?
minaとの待ち合わせの場所。目黒川沿いの小さな公園。
雨宮さんに「桜の季節、ここで落ちない女なら諦めろ」と教えてもらった場所。
川沿いには七部咲きほどの桜の木が並び、ふんわりとした薄ピンク色のたくさんの花びらが澄み切った青空に映えていた。週末に桜祭りがあるのか、様々な形の提灯が、彩りを添えている。
今日は朝から気がそわそわしていて、待ち合わせの十五分前に着いてしまった。
当然、minaはまだ来ていない。
桜が見頃なのに、平日のせいか辺りに人影は少なく、時たま地元の人とすれ違うくらいだ。
「バレンタインデーのことは、私の一瞬の気の迷い。ゴメンね……だから、私達はもうこれでおしまいにしよう」
なんてminaに言われたらどうしよう……とか実はオレはまだ少し不安だった。
あるいは草橋支店長が『ドッキリ大成功!』なんて看板を掲げて、その辺の桜の木の陰から出てくるんじゃないか。そんな思考が堂々巡りをしていた。一年間掛けた壮大なドッキリだけどな。
時間に少し遅れて、minaがやってきた。
白いシンプルなワンピース。その姿は桃色の風景の中で可憐に咲く春の花のよう。長い髪とスカートの裾が風にはらりと舞って、オレの緊張にますます拍車をかけた。
眩しすぎて……minaを真っ直ぐ見る事ができない……
「ごめんね、待った?」
「ううん、全然……」
何だ、このやりとりは。いや、オレ達まだ付き合ってなんかないんだからね……
「せっかくだから、歩きながら話そうか?」
オレは頭の中で必死に気の利いた言葉を探すが、出て来ない。
「うん、桜、綺麗だもんね」
minaも心なしか緊張しているように見える。
でも、すぐにそんな表情を隠して、去年再会した時のような愛くるしい笑顔をオレに向けて、一緒に隣を歩いてくれた。
さて、どうやって切り出したものか……これなら厄介な取引先を相手にしていた方がよっぽど楽だ。
「佐伯さん、この前は本当にありがとう。おかげでみんなでC社に移籍が決まったよ」
あれから、オレと雨宮さんと岡安さんでなんとか交渉をまとめ上げ、新年度からminaもC社の所属となる。銀行も買収資金をC社に融資するということで、体面を整えることができた。minaのマネージャーは岡安さんが続投。これはminaが強く希望したことだった。
「いや、オレは恩を少し返しただけだ。それだけじゃない。オレも今回の件でバンカーとしての自信を取り戻すことができたよ。完全に再建はできなかったけど、従業員と所属芸能人が路頭に迷うことは避けられたから。だから、むしろ感謝するのはオレの方……」
「あの時の佐伯さん、すごいカッコよかったよ。あの……えっと……惚れ直したかも……」
まだ、少し肌寒いが、minaの頬が赤くなる。
「あっ、う、うん……ありがとう。でも、実はminaにはあんまり見せたくなかったな」
「えっ、何で?」
「あらかじめ、社長以外に話を通しておいたり、奥さんに接触したりと、結構ズルいこともやっていたから。minaにはそういう姿はあまり……」
「違うよ……佐伯さんも、他のみんなも……なんとか上原プロを救おうと一生懸命やってくれた。私は、その思いをよくわかっている。少しでも上手くいくための作戦でしょ。私は汚いなんて思わない! 本当に感謝しているよ」
minaの言葉が段々熱を帯びていた。
やっぱり真っ直ぐだよ、minaは。
オレには……minaしか居ないな。
オレ達はそれから、一年前に再会してからの日々を色々と話した。
「酔っ払いから助けてもらってから、絶対いつか会ってお礼を言おうと思ってたんだけど、なかなか佐伯さんの手掛かりが無くて……でも、私がいつか有名になったら、もしかしたら気付いてくれるかも……とか、そんなことを考えながら、デビューしたてで不安な時も、なんとか乗り越えることができたんだ」
「会って、がっかりしたんじゃない?」
「ううん、次に再会した時には……もう……好きになっていたんだと思う。ちょっと周りを達観している感じが大人の男性に見えて……面白くて……それでいて頼れる感じで……メールしたり、たまに会って話すだけでドキドキしてた。あとみんなでワイワイやれて、この仲間に会えてほんと良かった」
「『大切な人達へ』、初めてライブで聴いた時に感動した。今や代表曲だもんな」
あの時のライブのmina、眩しいくらいに輝いていたな。
「夏、みんなで外房の海に行って。その夜に佐伯さんと初めて二人っきりで話をしたよね。覚えてる?」
「もちろん、覚えているよ。星がとても綺麗だった。あの時のことは、たぶん、一生忘れないだろうな」
そして、紅白出場決定、ケンカ、すれ違い。オレのせいでminaを傷つけてしまった。仲直りの初詣。そして、月明かりの下で、minaに想いを打ち明けられたあの日……
今なら……minaの真っ直ぐな想いを……受け止められる気がする。
minaがくれた勇気に……今度はオレが自分の想いを乗せて……伝える。
この小さくて守りたくなるようなルックスなのに、力強い意思を持った歌姫を……その笑顔を……時には泣き顔も……オレは……
「mina……」
オレの決意を察したのか、minaは立ち止まった。透き通るような瞳でオレを見つめ、言葉を待っている。
「この前の……返事をするよ……」
minaはゆっくりとうなづいた。
「オレはminaとこれからも一緒に思い出を作っていきたい……もっとminaの笑顔を傍で見ていたい。だから……オレと……」
minaの瞳が真っ直ぐに見開かれた……その瞳が潤んでいる。
「オレと……お付き合いしてください!」
やっと……言えた……オレの心からの想い。
「佐伯さん……」
minaがたまらずオレの胸に飛び込んできた。
それを、華奢な体を、オレの全身で受け止める。
そのまま、しばし、無言で抱き合った。
愛する人を得た、その想いで……体中が熱くなる。
「最後にならなかったね……ギュッて……」
minaがオレの胸に顔をうずめたまま、照れたように言った。
「これから……もっといっぱいしたいな……」
オレも照れを隠すように、minaの耳元でつぶやいた。
「うん……思い出……二人でたくさん作ろうね」
聞き慣れた、minaの澄んだ声、それが今……オレのためだけに向けられている。
「これからもよろしくな、mina……」
過去を乗り越えて、二人で歩んで行くんだ……いつまでも……
どれくらいの時間、minaを抱きしめていただろうか。
ふと、minaはオレの胸から顔を離して、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ……頑張った佐伯さんに……私からのごほうび……ねっ……」
長い黒髪が、春風に乗ってふわりとなびく。
ほのかに朱色に染まる、歌姫の頬。
そして、minaはこちらを向いて
ゆっくりと目を閉じて……背伸びをした。
その日、オレ達は、桜の木々に見守られるように、そっと口付けをした。
柔らかな日差しが、オレ達を優しく照らす。
桜の花びらが、生まれたばかりの恋人達を祝うように、春の陽の光を浴びてキラキラと輝きながら、舞っていた。
いつまでも……
いつまでも……
まるで、二人の周囲だけ時が止まったかのように……
~fin~




