第一章【気に入らない】その2
地霊殿に古明地さとりの居室というものは存在しない。
いや、実際にはあるのだが。それが古明地さとりの部屋と呼ばれる場所ではなかったのだ。
地霊殿の主であるさとりの部屋がないというのも不思議な話ではあるが、それはさとりが放棄したまでの話だった。
現在さとりの部屋とされているのは、本来ならば地霊殿の書庫であった場所だ。
地霊殿の書庫といえば、地底最大の蔵書量を誇る一種の図書館のようになっている。流石に地上の紅魔館の大図書館みたいに無数の魔道書が置いてあるわけではなかったが、それでも時間を潰すという意味ではこれ以上にないほどの量の本がそこにはあった。
知識の吸収とは時間を代償とすることで身につく。
さとりは数百年もの間、外界を拒絶し、その大部分の時間を知識の吸収へと費やしてきた。だからさとりの部屋が普通の部屋ではあまりにも億劫だったのだ。
そしてその結果として、さとりは自らの荷物を書庫に移し、自らの居室を書庫とすることで人との関わりをできる限り遮断してきたはずだった。
しかし、そんな悟りの部屋に、今は客人が存在した。
「いいのかい? あいつらだけで行かせて」
普段は虫の値さえ聞こえない静寂な書庫に響かせる凛とした声。
その声の持ち主は地霊殿にいるにはあまりにも不思議な人物だった。
黄金色の長い髪を纏い、その額から一筋の紅い角を覗かせているのは彼女が彼女である何よりもの証拠。
地底の絶対強者。
かつての地上の覇者。
星熊勇義。その人である。
「ええ、あの子達なら大丈夫でしょう」
そんな勇義の言葉をさとりは今読んでいる本に目を落としたまま答えた。
その様子を見て勇義は呆れ半分、安心半分で頷くとそのまま言葉を続ける。
「いや、そういうことじゃない」
「では、どういうことなのですか?」
「本当は、お前も一緒に行きたかったんじゃないのか? ……と言うことだよ」
その勇義の言葉を聞いて、さとりは読んでいた本をパタンと閉じる。
そしてそれまで本に向けていた視線を勇義へと向ける。
「確かに、そうかもしれませんね」
「またおかしなことを言うな。お前が行かせたんじゃないのか?」
「私はただあの子達の望むことをしただけです。それに、私はあの子達の買い物にはついて行ってはいけなかったみたいです」
「ふ~ん……そんなものか……」
勇義はさとりの意味深な返答に、さとりがその人はない瞳で何かを見通したことを察してさとりから視線を逸らす。
するとそこには今まさに地霊殿から出ていこうとする二つの影が見えた。
そんな様子を見て、少し首を傾げて勇義はさとりに問いかける。
「それにしても……」
「はい?」
「リリーホワイトがこんな冬に現れるなんて……信じられないな」
「なんですか? 突然」
「いや、ずっと春先以外は人に姿を見せることがなかったあのリリーホワイトが、まさか地底にいるとはなぁ……って話だよ」
「ふふふ。でも、不思議なことではないと思いますよ?」
「なんでだ?」
「誰もが言います。リリーホワイトは、妖怪の山へと消えていくと。
この地底の出口は妖怪の山に繋がっているのですから、毎年とは言わなくても何回かはこの地底にやってきていても不思議ではないのです」
「いや、例えそうだとしても、誰一人として見つけられないのはおかしくないか?」
「それがあの子の不思議……と、いうことかもしれませんね」
そういってさとりはくすくすと笑う。
それを見た勇義は、さとりの背後にすばやく回り込みその両頬をつまみ、そのまま引っ張る。
「なんか、秘密を握ってそうだなぁ」
「ひはははは(いたたたた)、べふにらんにもないれふおー(別になんでもないですよー)」
「本当か?」
「はひ(はい)」
と、勇義の問いに対してさとりが頷くと、勇義はその手に握っていた柔らかいさとりの頬を解放する。
そしてさとりはやっと戻ってきた頬をさすり、少し涙を浮かべながら勇義に抗議する。
「もぅ……ひどいじゃないですか」
「はっはっは。あたしが鬼であるということを忘れるからいけないんじゃないか」
「あなたが鬼だから嘘が嫌いだというのなら、私は一度も嘘を着いた覚えがありませんよ?」
「嘘はついてなくても、隠し事はしているだろ?」
「うっ……否定できません」
勇義に図星をつかれ、肩を落とすさとり。
そんなさとりの頭をなで、勇義は笑みをこぼす。
古明地さとりは心を読むことができる。
それ故に他人を前にしてこのような失態を見せることはない。
だが、いくら覚妖怪とはいえども勝てぬ者はいる。
それが目の前に立つ鬼だという事だった。
でも、だからこそ。さとりは勇義を友と呼ぶ。
自らにないものを持った人だったから。
自分という存在を恐れる必要すらない絶対的な強者だったから。
こうしてからかわれたとしても、それは居心地のいいじゃれ合いというものになるのだ。
だが、さとりはその表情を暗く落とす。
勇義は友人だ。それは間違いない。
だからこそ、さとりの脳裏に一人の少女の名前がよぎる。
それがさとりの脳にノイズを作り、彼女の笑みを作ることを阻害している。それをさとり自身が一番わかっているからこそ、無理に笑顔を作ろうとする。
だが、いくら笑顔をつくりなれているさとりでも、今回ばかりはあまりにもぎこちなかった。
「おい、さとり……どうした?」
だからだろうか。勇義はさとりのことを心配してその顔を覗き込む。
そして、さとりには勇義の心配している気持ちが痛いほどわかってしまう。そのため、その心配を脱ぎ去るために言葉を続ける。
「いえ……なんでも、ありません……」
「嘘を付け。お前がそんなにも感情を表に出すことなんて滅多にあることじゃない。本当にどうしたんだ?」
「本当になんでもないんです……大丈夫です」
「……さとり」
「なんですか?」
「あたしが鬼だと言うことを忘れたのか?」
……全く、敵わないなぁ。
と、さとりは思う。
星熊勇義は鬼である。
それ故に彼女は嘘を嫌い、嘘を鋭く見抜く。
そして、勇儀がそんな女性であったが故にさとりは心を開いたのだ。
さとりも長いあいだ生きてきたといえども、それは人間の尺と比べればの話だ。
さとりの姿はあまりにも幼い。
それは彼女が人間にとってのそれだけの時間しか生きていない証拠であった。
故にそんな幼いさとりにとって、館の主という地位はあまりにも重すぎる責任だった。だからさとりは名誉の失墜を恐れて常に自らの心に嘘をついて生きてきた。
だが、その嘘を勇義は見抜いたのだ。
何をするわけでもない。何かをしたわけでもない。
ただ必然と、さとりの心を見抜いたのだ。
そこには能力など関係ない。勇義という存在そのものがさとりの心を見抜いたのだ。
故にさとりは敵わないと思ったのだ。
この鬼は……星熊勇義は、力以外においてもあまりにも強すぎたのだ。
だからさとりは自然と口を開いていた。
「リリーは、私の友達なのです……」
「ん?」
「あの子は妖精だけど……とても優しくて、私の能力をわかっていても怖がらずに私に頼ってくれています。あの子の優しさが、とても嬉しかったんです。だけど……」
さとりは語る。
まるで自らの罪を告白するように。
そんな様子を勇義は声を出さずに見つめていた。
勇義の瞳に今のさとりはどのように映っているのだろうか。
地霊殿の主?
畏怖べき、地底の悪魔?
いや、そこにいたのはただ友を思い、その思いに応えることができずに苦しんでいる少女がいるだけだった。
「今の私は……あの子の手を握ってあげることもできない……」
さとりの悲痛な言葉は、静かな地霊殿の書庫に虚しく響いていた。