第一章【気に入らない】その1
春告精――リリーホワイト。
あまたの妖精が空を飛び、人々の生活の中に溶け込んでいる中でも、その存在は特異という言葉が当てはまるだろう。
なぜなら、その姿を見ることがあまりにも希少だからだ。
いや、いかに表の世界に忘れ去られた者たちの都、非現実が飛び交う幻想郷とは言え、特定の妖精を見つけることは確かに難しい。
だが他の妖精を見つけるよりも、リリーホワイトを見つけ出すのは格段に難しかった。
――なぜなら、リリーホワイトは春告精だから。
おそらく、突然こう告げられても事情を知らない人には理解できないだろう。
春告精とは、文字通り春を告げる妖精。
故に春になるとその姿を人々の前に現し、一斉に花を咲かせるため、その存在はとても重宝されている。いや”そのせい”といったほうが正しいだろうか。それほどまでに人々の心の留まる力を持っているため、鬼集家達がその存在を手に入れようと躍起になっているのだ。
しかし、未だかつてその存在を手にしたものはいない。
その理由が、”彼女が春告精だから”になるのだ。
――春告精はどこへ行く。
と、幻想郷ができた当初からの謎の一つとして長い時間語り継がれていた。
リリーホワイト……黄金色の長くしなやかな髪を揺らし、桜色に光り輝く半透明の羽を広げて幻想郷の空を飛び回るその姿は、幻想郷中の春の花を咲かし尽くすと妖怪の山へ向かって飛んでいくらしい。
その行動の意味は不明。
しかし、その後の彼女の姿を見たものはいない。
春にその姿を幻想郷の住人に見せておきながら、夏から冬までその姿を誰にも見せていないのだ。
いくらこの幻想郷が広いとはいえ、人間・妖怪・妖精・神々……いくつもの種族が所狭しと存在するこの幻想郷において、一年の四分の三もの間、誰一人として目撃できたものがいないというのはあまりにも不自然な話だった。
故に、”彼女は春告精だから”と、いつしか誰かがいった。
彼女は春を告げる妖精なのだ。
だからそれ以外の時は誰にも見つからない場所でその力を蓄えているのかもしれない。
それが春告精――リリーホワイトを見つけることができない理由と言われている。
だが、そんなリリーホワイト――リリーは、まだ空気も凍る寒い冬の地霊殿の一室の中、目の前で起こっていることが理解できずに困惑していた。
「……」
「……」
幻想郷地底――地霊殿。
人は言う。そこは悪魔の館なのだと。
しかし実際にそこに悪魔が住んでいるわけではなく、人の心を読む妖怪覚が姉妹で住んでいるだけだ。
だが、なぜ悪魔の館と呼ばれているか。
細かく上げればいくつかの理由が思い当たるが、その最も足る理由はその雰囲気であろう。
旧灼熱地獄後の上に作られた地霊殿は、地底という閉じられた世界で太陽の光の代わりに旧灼熱地獄によって生み出される光源を頼りに生活している。故に、地霊殿の床は全て透明と黒のチェック柄となっている。
透明のパネルから光を取り入れ、黒のパネルで光量を調整する。
その結果、地霊殿は全体的に淡い紅の光を放っている。
旧灼熱地獄のマグマの紅の光が地霊殿を見たし、その姿を妖艶に且つ不気味な印象を人々に与えるのだ。
だからこの館は恐ろしい悪魔の館と言われてしまうのもうなづけてしまう。
だが、リリーが困惑していたのは、それが理由というわけではなかった。
ただ、リリーのことをじっと睨みつけてくる少女の姿が目の前にあった。
その少女のことをリリーは回想する。
――彼女の名前は、火焔猫燐。
この地霊殿において、さとりに飼われているペットの中でも数少ない人語を理解する火車の化け猫だ。地下の灼熱地獄の焔を連想させるような赤い髪を三つ編みでまとめ、その合間から飛び出す黒い黒耳は、彼女である何よりもの証拠だった。
だが、ここでリリーはさらに困惑する。
なぜ、自分が睨みつけられているのだろうか、と。
リリーがさとりに手を差し伸べられてからすでに二週間がたち、不慣れながらにも地霊殿での生活に慣れ始めてきたリリーだったが、思えば火焔猫燐……お燐からは一度も声をかけられた事がなかった。
お燐は常に遠目からリリーを見つめ、何かを言いたそうにしていながら、最後の一歩を踏み出せず、ずっと離れて過ごしてきた。
しかし、今は違う。
リリーは自身にあてがわれた地霊殿の客室をそうじしていると、突然その扉が開かれ、お燐が入ってきたのだ。そして怯えるリリーの目の前まで歩いてくると、そのまま無言でリリーに迫る。
――意味がわからない。
それがリリーの中にある感情だった。
しかし普通の人ならば、愛想笑いをしながらなんの用なのかを聞くくらいはするのだろうが、リリーにはそれができなかった。
妖精とは、魔力の弱い生き物だ。
故に魔力でその体を維持している妖精は、特に強い力を持っていなければ話すこともできない。
リリーも本来ならば言葉を発する程度の力はある。
しかし、それは”本来のリリーならば”の話である。
リリーが本来の力を取り戻すことができるのは春を告げる時のみである。
故に冬である今は、リリーの魔力は非常に弱まっている。その結果、彼女の口からは空気を震し、言葉を出すことは不可能だ。
だからリリーとお燐の間に気まずい沈黙の状況が続いていた。
――それは、なんとも辛い状況だろうか。
目の前に自らよりも大きな体が視界を埋め尽くすほど近くにあるのだ。
ただならぬ威圧を放つ存在を前にするというのは、予想以上にストレスになる。
だからリリーの瞳には涙が浮かぶ。
耐えがたい恐怖から逃げ出したくて。だけど逃げ出すこともできなくて。
誰かに助けて欲しいけど、その助けを呼ぶ声すら出ない。
そんな状況がもどかしくて、なんとかしたいけど何もできない。
そんな自分が悔しくて、リリーは涙を流していた。
「お燐ッ! 何をやっているの!?」
リリーの部屋の扉を再び開けられたと同時にそんな怒声が鳴り響く。
そんな声にお燐が振り向くと、そこにはおりんと同じくらいの年齢の少女が立っていた。
長くしなやかな髪とその背から覗かせる一対の翼を漆黒に染め、普段はおっとりとしている目を釣り上がらせて近寄ってくる少女は、まさに闇を連想させると言ってもいいだろう。
しかし、彼女を正確に表現するのなら、その表現は間違っている。
闇ではなく、光。
彼女はまさしく太陽なのだ。
それは比喩でもなんでもなく、本当に太陽そのもの。
それが彼女――霊烏路空。通称お空という少女であった。
そんなお空が、おりんの行動に対して怒りをあらわにして歩み寄ってきた。
しかし、お空のそんな姿を見ても、お燐は表情を崩さずそっけない顔で言葉を綴る。
「別に、なんでもない」
「あ~そっかぁ、お燐のおやつをその子にあげちゃったから怒ってるんだぁ~」
「……あたいが怒る原因を食べ物に持っていくお空の幸せ脳の方がイラつくわよ……って、ちょっとまって。今日、そういえばあたいのおやつが皿だけって言うのはそういうことだったの!?」
「え、何の話?」
「この鳥頭! 三歩も歩いてないのに三秒前に言ったセリフを忘れるな!」
『……』
「何よ、妖精。ケーキなんて差し出してもあたいの期限は直らないわよ」
……しゅん。
と、リリーはお燐の返答を聞いて肩を落とす。
その姿を見て、お空はくすくすと笑いながらリリーの言葉を代弁する。
「『おやつを食べたかったなら、このケーキをお返しします』だってさ」
「だから、あたいはおやつで起こってるわけじゃないんだってばぁ……」
「……」
「……って、ちょっとまって。お空、あんたこの子の言葉が分かるの?」
「え? わかるって……」
と、お空が右手を上げる。
リリーが左手を上げる。
そしてお互いに肩を叩いてからハイタッチする。
「ね、わかるでしょ?」
「いや、その子の言葉以前にあんた達の行動が意味不明だわ」
「『……?』」
「同時に首を傾げないでよ……」
二人の行動に軽い頭痛を覚え、お燐は思わず頭を抱えて座り込んでしまう。
その姿を見たリリーがあたふたとお燐の周りを飛び回り、何かを探すようにしているが、彼女が望む、お燐を励ますことができそうなものは客室の一つであるこの部屋にはあるはずがなかった。
だからリリーは精一杯考えを振り絞ろうと腕を抱えて考えこむが、そのままオーバーヒートして、ふらふらとお空の元へと倒れ込んでしまう。
そんなリリーをお空は受け止め、そのまま抱きしめて微笑む。
それを見たお燐は再び頭痛を覚えて、頭を抱えてしまう。
「……それにしても、お空。あんたやけにその妖精のことを気に入ってるのね」
「え、なんで?」
「だって、あんた……。これまで妖精のことをそこまで気にかけたことなかったじゃん」
「えぇ~、そうかなぁ……」
「まぁ、あんたに記憶の有無について言ったとしても無意味なことくらいわかってるから。これ以上は言わないけどさぁ」
「ん~あえて言うなら……妹ができたみたいだから、かな?」
「ふぅ~ん」
「それをいうなら、お燐もさ」
「何?」
「なんでそんなにもこの子の事を嫌ってるの?」
「別に嫌ってるわけじゃない」
お空の問いに対して、目をそらしてお燐は答える。
その顔に映るのは、怒りか。それとも焦りか。
どちらとも取れるその顔は、何かを隠して恐れているような印象も受ける。
そして視線を外したお燐は、お空に抱かれているリリーを睨みつける。それを敏感に感じたリリーはお空の後ろに隠れる。
それを見てお燐はさらに怒りを覚え、部屋から出ていこうとする。
「ちょっとまったぁあああああ!」
だが、お空はそんなお燐の肩を掴み必死に出ていくのを止めるように促す。
それを半分面倒くさそうな顔をしながらお燐は振り返る。
そんなお燐の姿を見て、お空は笑う。
「ねぇ、お燐」
「何よ、お空。いやに明るい笑顔をして……」
「一緒に買い物に行かない?」
お燐は親友のそんな一言に頭痛を隠せないまま頷いていた。